天平2年〜弘仁9年(730〜818)
河内国の人、高梁市落合町近似
僧都(そうず)(注1)、法相宗高僧
玄賓は、法相宗の、高徳六人の内の一人。河内国(現・大阪府)志紀郡弓削(ゆげ)に生まれる。道鏡(どうきょう)は叔父。
10歳の時奈良の法相宗興福寺の宣教・大徳について得度(とくど)(出家(しゅっけ))し、行(ぎょう)を励み精進し釈玄賓と称した。宣教、道鏡らの師は僧正義(ぎ)淵(えん)(注2)であり、道鏡が玄賓の叔父であったため玄賓の生涯の生き方に大きな影響を及ぼした。
当時の僧侶が官位栄進に腐心するのを憂(うれ)い、興福寺を離れ三輪山の麓に隠れ住み、ひたすら仏の道を求めた。桓武天皇が平安に都を営造してから、たびたび京の都へ玄賓を召されたが応ぜず、やがて天皇は病気になり、病勢は一進一退、遂に召に応じて都に上り、天皇の病気平癒を祈ったが崩御の悲しみを見たのである。
翌大同元年(806)平城天皇は勅命をもって大僧都に任じたが、これを厭(きら)って中央を去り、やがて備中平川の湯川寺に遁(かく)れしばらく在住した。そのころ近似の玄賓谷に来て一小庵を建立して住んだ。ついで嵯峨天皇も深く玄賓の得を慕い、弘仁2年(811)5月から88歳でこの世を去る同9年(818)まで、毎年寒暑の音問があり勅書に綿と布を施物として贈られ、また備中哲多郡に隠棲(いんせい)中は庸米を免じて鉄のみ献納させていた。
言い伝えによると、高梁市中井町柴倉の三座神社は、玄賓僧都が当地へ巡錫(じゅんじゃく)した時,森の間から霊光を発しているのを不思議に思い、ここに草庵を造り、一小祠を設け、本地仏を安置したのに始まったと言われている。
また、中井町西方の巨龍山定光寺も大同年間に玄賓僧都が草創したと伝えられている。
高梁川を隔てた対岸の高梁市落合町近似に、千光山松林寺という小庵があり、川乱(現・高梁市落合町原田)の深耕寺末寺で宗派は曹洞宗である。一般に高梁の人達は、この小庵を玄賓と呼んでいる。
松林寺に祀(まつ)る玄賓僧都の彫像(高梁市指定重要文化財)は、檜材の座像で、全面布貼(ぬのばり)で胡粉を施し彩色してある。頭部と両手は差し込みとなり、指先が一部欠落、右袖と膝前のわずかの部分が剥落して布貼が見える。像高75a、面長21a、肩張36a、膝張56a、目は玉目をはめ込み、唇は暗赤色を施していると思われる。襟は白色二重、衣は黒色、袈裟(けさ)は褐色で、手に印を結び、椅子の上に結跏趺座(けつかふざ)している。
(参)「高梁市史」「高梁の文化財」「上房郡誌」
注1:僧都…僧階の一つ、僧正に次ぐ僧官。
注2:義淵(ぎえん)(?〜728)
奈良仏教興隆の基礎をつくった法相宗の僧。(「ぎいん」とも読む)大和国(現・奈良県)の生まれ。元興寺に入り修行し、龍門寺、龍蓋寺(りゅうがいじ)を建立した。大宝3年 (703)僧正となる。義淵の仏弟子は玄ム(げんほう)、行基(ぎょうき)、宣教(せんきょう)、良敏(りょうびん)、行(ぎょう)達(たつ)、隆尊(りゅうそん)、良弁(ろうべん)の七上足(じょうそく)(7人の優れた弟子)のほか道鏡ら多数の優秀な門下を出している。(参)「学芸百科事典」
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