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えんおう ぜんじ:円応 禅師

 正応3年〜貞治6年9月1日(1290〜1367)
 岡山県真庭郡勝山の生れ
 高梁市頼久寺開山の禅僧・禅師
 名は元光、幼名は高麗房、号は寂室。岡山県真庭郡高田庄(現・勝山町) に生まれる。
 15歳のときに京都にのぼり、東福寺の大智海禅師により得度した。その後鎌倉・禅興寺の約翁得倹に師事し、建仁寺・建長寺・南禅寺などで修行を重ねた。
元応2年(1320)31歳のとき、然可、俊翁、鈍庵らと中国(元国(げんこく))に渡り、中峰明本、無見先観、断崖了義などに歴参し、6年後の嘉暦2年(1327)に帰国。歴応2年(1339)足利(あしかが)尊(たか)氏(うじ)が後醍醐天皇の菩提を弔うと共に、足利氏の天下統一の威信を誇示するため、諸国に命じて安国寺を建立した。このとき、備中の守護高橋大五郎の招きにより、備中松山に天忠山安国寺(現・天柱山安国頼久寺)を開基し20年余り普住した。
 大寺から誘われたが「禅に大きな寺はいらぬ、心さえあればよい。」と言い、相模長勝寺、豊後万寿寺、京都天竜寺、建長寺の諸大寺よりの請いをも受けず、備作地方(現・岡山県)を巡錫(じゅうじゃく)し、修行に励んだ。
延文5年(1360)近江(現・滋賀県) に永源寺を開き、貞治 6年(1367)78歳でこの地で没した。その後、上野頼久(よりひさし)が荒廃していたこの寺を修理。大永元年(=永正18:1521)、頼久の没後、嗣子(しし)頼(より)氏(うじ)が父の大功を顕彰し、安国頼久禅寺(大林寺とも言った)と改称した。頼久寺に所蔵されている「寂室禅師画像」(絵画)は高梁市指定重要文化財となっている。
⇒ 上野頼久上野頼氏 (参)「高梁市史」「高梁の文化財」「上房郡誌」

えんじゅう:圓 従

 文政8年〜明治16年9月7日(1825〜1883)
 島根県出身
 高梁市寺町玄忠寺(注1)の第21世住職
 江戸時代後期の高梁市玄忠寺(寺町)の住職。俗姓は安達。号は立譽。
 出雲国(現・島根県)島根郡に生まれる。松江の月照寺に入り得度(とくど)し、巡業して江戸(現・東京)の増上寺に暫(しばら)くの間居住する。その後、備中松山城下寺町(現・高梁市寺町)の浄土宗知恩院末寺の玄忠寺第21世の住職となる。将軍から、綸旨(りんじ)(注2)を賜り本山より長老の資格を授(さず)けられる。明治16年没。59歳。
  『高梁古今詞藻』に歌を残している。
 "流れ行く末のよるべも定なき世にうかれ女の身こそつらけれ"
(参)「高梁古今詞藻」
注1:玄忠寺---現在は、隣の寿覚院に合併されて廃寺となっている。
注2:綸旨(りんじ) ----綸言(りんげん):お言葉
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