明治4年1月7日〜昭和16年6月10日(1871〜1941)
松原村(現・高梁市松原町)の人
松原村長
父久米次は、村会議員を務め、祖父右衛門は、肝煎役を務めた。明治38年(1905)松原村収入役、大正3年(1914)助役となり、同 9年から昭和7年(1920〜1932)まで松原村長を務めた。松原村(現・高梁市松原町)は高梁川西の吉備高原の台地に位置するため、高梁、成羽に通ずる県道及び幹線道路の整備に力を注ぎ、「道路村長」といわれた。これにより特産の「米」の出荷が便利になり産地化するなど産業の発展に貢献した。
(参)「高梁市史」「川上郡案内誌」
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室町時代(1500年前半)の人
三河(現・愛知県)の人
室町時代の武将
備中松山城主上野頼久の父。民部大輔。父は刑部少輔氏之(三河国小谷城主)。
信孝は室町幕府・将軍足利(あしかが)義稙(よしたね)の命を受け、備中(現・岡山県西部)の国侍を将軍の味方に引き入れるため二階堂政行や伊勢貞信らと備中に下(くだ)り備中国下道郡下原郷鬼邑(きむら)山(鬼村、現・総社市八代)に居城し城主となる。
明応2年(1493)5月、管領(かんれい)細川政元が将軍足利義稙を正覚寺に幽閉した時、信孝は伊勢左京亮らと密かに将軍を救出し、周防(現・山口県)の大内義(よし)興(おき)をたより助力を申し入れた。
将軍足利義稙の近臣として将軍は勿論(もちろん)、幕府の実権を握っていた大内義興の信頼も厚く、永正5年(1508)、義稙が将軍に再任されると、その側近にあり翌6年(1509)には募兵のため備中に下向し松山城の軍事拠点としての位置を知りこれより少し後に我子(わがこ)・頼久(よりひさ)を松山城主に据えた。管領大内義興の取立で、幕府の奉行衆に加えられ、将軍義稙(室町幕府10代 )、義晴(室町幕府12代)、義輝(室町幕府13代)に忠実に仕えた。
大永6年(1526)2月、将軍義晴の八幡宮参拝の時には、帯剣の役を務め、天文16年(1547)4月、細川春元・佐々木定頼らが逆心を抱いて京都を攻めようとし、将軍義輝が北白河へ避難したときには、信孝以下これに従い北白河へ立て籠(こ)もった。
同18年(1549)3月、細川氏綱・三好長慶らが阿波(現・徳島県)より京都に攻めるという知らせがあったときは、信孝は馬場を警護し、烏帽子(えぼし)、素襖(そおう)(うわぎ)に太刀を帯びて垣の外に待機していたといわれ、歴代の足利将軍の信任が厚かった。
(参)「高梁市史」「「岡山縣人名辭書」
◎系図
上野律師義辨―刑部少輔氏之―民部大輔信孝―(1)兵部少輔頼久(備前守頼久)―(2)伊豆守頼氏(庄氏に滅ぼされる。)
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生年不詳〜大永元年(=永正18)8月16日(?〜1521)
室町時代・天正年間(1500年前半)の備中国の武将
備中松山城主
備前守。兵部(ひょうぶの)少輔(しょうすけ)頼久。備中国下道郡下原郷鬼邑(きむら)山(鬼村、現・総社市八代)城主上野民部(みんぶの)大輔(だいすけ)信孝(のぶたか)の子。
永正年中(1504〜1520・室町時代後期)の初め、備中松山城主となる。頼久の備中松山城主としての事績は史料が無い。
業績としては、永正10年(1513)松山城下の荒廃していた安国寺(現・頼久寺)の堂塔を修理し、寺田・寺林を寄付して再興した。同16年(1519)備中守護代となる。没後、頼久の功を称(たた)え、「頼久寺殿円叟道満大居士」の法名を贈った。また、子の頼氏の要望もあり頼久の名を永世に伝えるためその名を寺号に取り、天忠(のち天柱)山安国頼久(らいきゅう)禅寺(ぜんじ)に改めた。
⇒ 上野頼氏(すぐ下の項目) (参)「高梁市史」「備作人名大辞典」
◎系図
―上野律師義辨―刑部少輔氏之―大輔信孝―(1)兵部少輔頼久(備前守頼久)―(2)伊豆守頼氏(庄氏に滅ぼされる。)
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生年不詳〜天文(てんぶん)2年(?〜1533)
室町時代(戦国時代・1500年代前半)の備中国の武将
備中松山城主
伊豆守。大永元年(=永正18:1521)8月16日父頼久(よりひさ)の没後、その後を引き継ぎ備中松山城主となる。大内氏旗下(きか)で、のち毛利氏に属した。
天文(てんぶん)2年(1533)、出雲の尼子(あまこ)勝久と結んだ猿掛(現・真備町、矢掛町境)城主庄為資(しょうためすけ)と戦う。このとき大松山にいた頼氏は庄為資に加勢した植木下野守秀長に討たれ、次いで小松山にいた弟の上野右衛門尉も植木一族の若林次郎右衛門に討たれ、上野氏は二代24年間で滅んだ。
⇒ 上野頼久(すぐ上の項目)
(参)「高梁市史」
◎ 系図 上野律師義辨―刑部少輔氏之―
民部大輔信孝―(1)兵部少輔頼久(備前守頼久) ―(2)伊豆守頼氏(庄氏に滅ぼされる。 )
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生没年不詳(室町(戦国)時代の人(1540〜80年頃))
高梁市宇治町石田のしらげが(白毛)城主
室町(戦国)時代の武将
通称頼宜。室(妻)は滝谷城主赤木忠国の娘(現・高梁市宇治町)。戦国時代末期の武将。
この時代に「しらげが城」は敵の大軍に攻められ、一年にわたり籠城を続け、糧食も底をつき落城寸前に追い込まれた。この時左衛門尉は敵の兵糧(ひょうろう)攻(せ)めに対する苦肉の策として、米の半分を島木川に流し、残り半分を握り飯にして、兵に城壁の上で食べさせた。これを見た寄せ手は兵糧攻めをあきらめ、引き上げた。
「しらげ(白毛)」とは白米のことで,これにより「しらげが(白毛)城」と呼ぶようになった、と言う伝説がある。
⇒ 赤木忠国
(参)「高梁市史」
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