安永9年〜弘化3年5月15日(1780〜1846)
高梁市出身
江戸時代後期の画人
秦一貞(はたかずさだ)又は貞廉(さだきよ)と言い、号は横文斎(おうぶんさい)・俄羅斯庵(おろしゃあん)。幕府の役人で蝦夷地調査を行った村上嶋之允(しまのじょう)(丞)の養子となる。
嶋之允は伊勢国(現:三重県)に生まれ、秦(はた)檍丸(あわきまろ)の筆名を使うこともあった。健脚で画筆が巧みで地図の作製に秀でていたため、幕吏に登用され蝦夷地調査に派遣された。貞助・間宮林(まみやりん)蔵(ぞう)は嶋之允の門弟。
文化4年(1807)フヴォストフによってカムチャッカへ連行された択捉(えとろふ)島番人からの聞き書き『赤賊寇辺実記』を纏(まと)めたのを契機に北辺への関心を抱き後に義父となる村上嶋之允(しまのじょう)や間宮林(まみやりん)蔵(ぞう)(注1)と共に蝦夷(えぞ)地(現・北海道)を踏査した。
同5年(1808)ソウヤ(宗谷)を出発しカラフトを経てアムール川下流地域の交易の実情を記した『東韃(とうだつ)地方紀行』3巻は林蔵の口述を貞助が編纂(へんさん)して挿図を入れたもので「吉備秦(はた)貞廉(さだきよ)編」と記されている。
同7年(1810)初稿が完成した『北蝦夷地部』10巻、翌年(1811)伊能(いのう)勘解由(かげゆ)(忠敬(ただたか))(注2)を訪れ、秋には松前へ赴いて幽囚されていたロシア船ディアナ号艦長ゴロウニンや士官ム−ルにつきロシア語を習ぶ。驚くべき上達ぶりを示した。同9年(1812)邦訳したム−ルの陳情書や諸資料を携えて荒尾但馬守と出府、ゴロウニンの解放に尽力。翌10年(1813)松前奉行支配調役下役に任ぜられる。
文政3年(1820)遠山左衛門尉景晋(かげくに)の慫慂(しょうよう)(注3)もあり、義父・村上嶋之允の未完の画帳『蝦夷生計図説』を巧みな画才で文政6年(1823)に完成させた。これは習俗を詳細に記録した貴重なアイヌの民俗資料である。北海道大学所蔵の『蝦夷弾琴図』には「横文斎筆」の署名とロシア文字で「ムラカミ」と刻した円印が捺されており、的確な描写がみられる。
弘化2年(1845)『辺策私弁評』を著して、幕府の北辺の海防・開拓政策に疑問を投じた。その他、享和3年(1803)に台湾に漂着した箱館の船頭文助の記録も残している。弘化3年(1846)66歳で死去。墓は、東京谷中(やなか)の玉林寺にある。
注1:間宮林蔵(まみやりんぞう) (1755〜1844)
文化5年(1808)幕府の命令により樺太(からふと)を探検し、島であることを確認(間宮海峡の発見)。さらにシベリア黒竜江下流地方も探検した。晩年は幕府隠密という。(参)「日本史用語集」
註2:伊能忠敬(いのうただたか) (1745〜1818)
地理学者。下総の酒造家伊能氏の養子。50歳で江戸に出て、高橋至時に測地・暦法を学ぶ。幕府の命令により1800〜16年、量程車(そくていしゃ)という距離を測る道具などを用いて全国の沿岸を測量し、『大日本沿海輿地(よち)全図』の作成に当たる。(参)「日本史用語集」
註3:慫慂(しょうよう)…そばから誘いすすめること。勧誘。
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生年不詳〜寛永8年11月28日(?〜1631)
岡山・金沢・備中松山藩士
江戸時代初期の人。初め岡山藩池田忠雄に仕え、千石取まで累進するが、いつまでも徒歩の気分が抜けず分別が無かった。ある時口論の末、人を殺し脱藩する。
その後、加賀藩主前田利常に仕える。前田利常の供で伏見にいたとき、金沢藩士の集まりで、以前の同僚岡山藩臼井十大夫の事に話が及び、皆が褒(ほ)めた時越中一人が誹謗(ひぼう)した。このことを伝え聞いた十大夫は大いに憤慨したが、巷の噂と言うことで越中と和解し親交を深めた。その後、再び誹謗(ひぼう)しため十大夫の怒りは増した。
加賀藩を退き、備中松山藩主池田長幸に仕えるが、長年の恨みにより十大夫により上方に上る途中宍甘で殺害された。
⇒ 池田長幸 (参)「備作人名大辞典」
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