天保6年〜明治23年6月3日(1835〜1890)
高梁市柿木町
備中松山藩士(歩小姓・6石2人扶持)
名は希一、号を雲外又は六石。山田方谷に学ぶ。父は熙治。
高梁市柿木町の自宅(現・渡辺産婦人科)で家塾を開き、習字を嘉永2年(1849)から明治2年(1869)まで男子・女子約30人に教えた。
明治維新後の明治2年(1869)11月高梁藩になると藩庁の職員となり、庶務吏(6人の内の一人)を務め、明治4年(1871)の廃藩後は小田県、小倉県に務め、退官後、岡山、大阪で代言人となる。
⇒ 山田方谷 (参)「高梁市史」「高梁古今詞藻」
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