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やくしじ ぎちん:薬師寺 義鎮

明治3年8月9日〜昭和16年11月27日(1870〜19410)
高梁市上谷町
薬師院住職

 名は義鎮。号は具葉(ぐよう)。別に馬佛、無邊庵の号がある。
 高梁市上谷町の薬師院住職。高野山大学を卒業し、仁和寺(にんなじ)臨時局庶務主任、岡山県済生顧問、古義真言宗・宗会議員、同宗・宗機関顧問となる。
 昭和4年(1929)5月10日、高梁町と松山村(現・高梁市)の合併に尽力し、池上仙二郎(のち、長右衛門と改称)高梁町長・横山平左衛門松山村長と共に、町村合併のために心血を注ぎ、町村合併の名トリオといわれた。
 当時の高梁町役場は、柿木町の今の大杉病院(旧松山藩士・赤羽永蔵の屋敷)の所に有り、これを臨時庁舎とし、同年7月6日、バラック建の仮庁舎を現在の高梁市庁舎の位置に建設し移転した。
⇒ 十代目池上長右衛門(仙二郎)赤羽永蔵 (参)「高梁市史」「高梁古今詞藻」 
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やない かんざえもん:柳井 勘左衛門

天正18年〜寛永18年9月26日(1590〜1641)
上房郡広瀬村(高梁市松山・広瀬)
備中檀紙(だんし)の御用紙漉工(ごようかみすきこう)

 通称は重次。柳井平左衛門重次の子として生まれる。
 柳井氏の先祖は藤原氏に属し、関東に居住していたらしい。室町初期の康永年間(1342〜45)に周防(すおう)国(現・山口県)の柳井に転住し、以後柳井姓を名乗ったと伝えられている。室町末期の永禄(1558〜70)以前に周防の柳井から備中松山(現・高梁市松山)に来たと伝えられ、檀紙の製造を世襲した。
 寛政3年(1791)当時の柳井勘左衛門が著した由緒書(注1)によると、古くから禁裏(きんり)・柳営(りゅうえい)(注2)の御用紙漉として松山・広瀬に知行地を持っていたが、三村元親の戦った備中兵乱で毛利氏に取り上げられた。
 「毛利輝元判物」によると、父平左衛門は歎願して天正16年(1588)毛利輝元に家人として召し抱えられ、知行地として広瀬を与えられている。「紙屋平左衛門尉」と記(しる)され、この頃には既に紙漉きを業としていた。平左衛門が慶長2年(1597)49歳で死去すると、新左衛門重次が養父として入り、紙漉きを続け、勘左衛門重法の代になって、備中檀紙生産の特権的地位を確立したと考えられる。
 関ヶ原の戦いにより毛利氏が破れ、再び知行地を取り上げられた。江戸時代になり備中代官の小堀遠州より寛永3年(1626)小田郡三谷村に百石を下賜されたが、同村の百姓と争いが起きこれを返上している。
 勘左衛門は寛永3年(1626)三代将軍徳川家光が上洛したとき、上京して「御用御檀紙」を献上した。また、同10年(1633)には、明正天皇から「美濃掾(みののじょう)」の官名を許されている。これは幕府や朝廷から、その特権的地位を認められたことを意味するものであろう。同18年9月26日没。52歳。
   宝暦7年(1757)版(宝暦3年(1753)正月に脱稿したといわれている)の石井了節(春)の『備中集成志』に備中松山(現・高梁市)の名物として「當国の大高檀紙は日本無双の紙也」とあるように、慶長年間(1596〜1614)小堀遠州(政一)が品質改善を指導して以来、水谷氏の頃は基より歴代藩主の献上品の中に加えられていた。また、広瀬にある大嶽山法林寺、俗称宝林坊を再建した。
  明治初年に紙漉きを廃業。小堀遠州が勘左衛門に宛てた書状「小堀遠州公書翰」、柳井氏が漉いた紙「大高檀紙」は高梁市指定重要文化財となっている。
⇒ 三村元親小堀遠州板倉勝政 (参)「高梁市史」

註1:勘左衛門が著した由緒書
  柳井家は、「勘左衛門」を世襲しており、1800年前後の勘左衛門が著した由緒書によると、第四代備中松山藩主板倉勝政(?〜1821) に提出した下書きを、後世に伝えたものらしい。著書に寛政2年(1790)版、柳井重法編著『備中州巡礼略記』、『備中諸事巨細導書』がある。又広瀬の法林坊を再建した。 註2:禁裏・柳営…宮中・幕府 
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やない しげのり:柳井 重宜

嘉永3年〜大正11年(1850〜1922)
高梁市松山字広瀬
明治の地方政治家・実業家・畜産功労者

 上房郡松山東村広瀬(現・高梁市松山)に生まれる。家は代々幕府や藩の料紙を供した家柄で、父重隆の代(だい)まで大高檀紙(高梁市重要文化財)を製造していた。
 明治10年(1877)戸長役場が設置され初代の松山村戸長、同17年(1884)県議会議員となり、以来各種公職に就任。同30年(1897)7月1日、第八十六国立銀行が閉鎖され、株式会社八十六銀行が設立されると取締役に就任する。同33年(1900)7月西村鶴太郎の後を受け大正9年(1920)第一合同銀行に合併するまで、第二代の頭取に就任。
  また窮民救助のため植林や荒蕪地の開拓を行った。特に畜牛の改良に貢献。明治12年(1879)に日本種10頭を購入飼育し、数年で1頭の値段が10頭の原価を上回るまでに至った。同14年(1881)にはデボン種の種牛1頭を購入し、翌年は短角種牡犢を飼育し良種の種牛を得た。同19年(1886)に岡山県の斡旋で北海道からホルスタイン種雄牛を導入、この「花園号」は成績が顕著で備中地方の乳牛改良に貢献した。
 当時、畜牛の「短角牛」か「エアシャ−種」が使われていたが、ホルスタインの導入で乳量が急速に増加し、この牛は後に小田・後月方面の酪農発展に尽くした。同33年(1900)推されて岡山県畜産会の初代会長に就任、県畜産発展の基礎づくりに貢献。畜牛のあらゆる分野を研究し畜産農家の指導に努めた。その畜産功労者として同39年(1906)農商務大臣より表彰された。
 また熱心なキリスト教信者で、明治14年(1881)私立裁縫所(後の順正女学校)の開設や、同15年(1882)キリスト教高梁教会設立の内面的援助者である。順正女学校二代目の校長にも就任した。
(参)「高梁市史」「岡山県畜産史」「中國銀行五十年史」「備作人名大辞典」 
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やない ますみ:柳井 真澄(1)

天保12年〜明治17年11月1日(1841〜1884)
高梁市柿木丁(町)
備中松山藩士・教員

 号は閑斉。書を能くした。柿木丁(町)の自宅(現・尾島眼科)で明治元年(1868)から同5年(1872)まで家塾「不如学舎」を開き、漢学・書道を男子、女子 75人ほどに教えた。その後、高梁小学校の教員を務める。当時吉田寛治(藍関)が首席教員として校長の仕事をしていた。
 父は柳井岩のち治部左衛門、備中松山藩士で表小姓90石取。柳井絅斎(けいさい)は長男。
 ⇒ 柳井絅斎(すぐ下の項目) (参)「高梁市史」「高梁古今詞藻」  
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やない けいさい:柳井 絅斎(2)

明治4年〜明治38年5月24日(1871〜1905)
高梁市柿木丁(*「丁」は「町」)
漢詩人

 名は簡または碌。字は文甫。通称は録太郎。備中松山藩士・柳井真澄(閑斉)の長男。
 初め旧備中松山藩校・有終館で学び、上京して東京専門学校(現・早稲田大学)に入り、文科を卒業。博文館の編集員となり、博文館の日用百科全書第17編『作詩自在』を著した。のちに中学校の教員となる。その他の著書に『征清詩集』がある。高梁古今詞藻に漢詩を残している。
⇒ 柳井真澄(すぐ上の項目) (参)「高梁古今詞藻」 
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やない みちたみ:柳井 道民

明治元年〜昭和8年(1868〜1933)
山口県吉敷村(現・山口市)出身
高梁中学校(旧制)校長

 教育者。旧山口藩士の家に生まれる。
 札幌農学校(現・北海道大学)予科、慶応義塾を卒業。専門は英語。日本女子大学英文科教授を経て、明治36年(1903) 2月に高梁中学校(旧制)校長となり、大正7年(1918)岡山中学校(旧制)校長に転任するまで15年間の長きに亘り校長を務めた。
 温容にして威厳があり、また雄弁であった。名利に超然とし、小事にこだわらず、全人教育を第一義とし、人格の陶冶(とうや)に力を注ぎ、多くの俊秀を育成した。書が高梁高等学校に所蔵されている。 (参)「高梁市史」「有終」 
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やぶき きゅうじろう:矢吹 久次郎

天保元年〜明治8年(1830〜1875)
新見市上市の人
山田方谷の援助者

 天領備中哲多郡井村の大庄屋矢吹栄三郎の長男に生まれる。
 鉄鉱業・酒造業を営み地方の豪族と言われる。幼少の頃から厳しい家庭教育を受けて育ち、14歳のとき山田方谷の家塾牛麓舎(高梁市御前町)に入る。
 父栄三郎が病で倒れ、僅(わず)か2年たらずで退塾したが、方谷との絆(きずな)は非常に強かった。方谷が生まれたばかりの子・小雪を抱えて困っているのをみて養女とし迎え、後に長男発三郎の嫁とした。
 慶応年間(1865〜68)には、哲多郡10カ村取締。続いて郷士となり宅地税を免ぜられる。明治3年(1870)方谷が小坂部(おさかべ)に移り住んだときには、購入していた陣屋跡(注1)を提供した。
 同5年(1872)小田県が殖産商業会社をつくるとその大頭取となる。同7年(1874)哲多郡区長に就任。同8年(1875)46歳で病没。
 ⇒ 山田方谷 (参)「高梁市史」「なかいしんぶん」「岡山縣人名辭書」
注1 陣屋跡:水谷勝隆の次男勝能の開いた地行所(陣屋) 
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やまおか らんがく:山岡 嵐岳

生年不詳〜享和2年12月5日(?〜1802)
俳人

 名は正平。町役を務める。俳句を能くし、赤木晋和(一日庵)ら、子弟に教えた。
辞世の句『すっぽりと 着ても汚れぬ 頭巾哉』
⇒ 赤木晋和 (参)「高梁古今詞藻」 
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やまかわ ふちさだ:山川 淵貞

天保4年3月〜明治11年8月25日(1833〜1878)
高梁市川面町の人
幕末〜明治初期の蘭方医 

 上房郡川面村(現・高梁市川面町)で、山川左右衛門の二男として生まれる。
 幼少のときから神童と言われる。進鴻渓について学び、嘉永4年(1851)19歳で長崎に遊学し、8年間蘭方医学(洋医)を修める。帰郷して川面村で開業した。眼・産・外科の手術に優れていた。地方における洋医の始まりであった。
 松山藩の庶民教育の奨励策に呼応し、慶応3年から明治5年まで(1867〜72)家塾を開き20人ほどに教育した。明治11年(1878)46歳で世を去るまで医術で世に尽くした。
 ⇒ 進鴻渓 (参)「高梁市史」「上房郡誌」「岡山縣人名辭書」 
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やまかわ せんじゅ:山川 千寿

明治13年11月10日〜昭和15年7月13日(1880〜1940)
高梁市川面町の人
地方政治家・川面村長

 明治大学法学部卒業。上房郡議会議員を務め、大正 2年(1913)から昭和 3年(1928)まで四期15カ年川面村長を務める。
 この間、低地部と高原地帯を結び、この二つの地域を文化的・経済的に一体的に融合させるため、現在の県道川面・巨瀬線、及び市道押野・八石西線の大改修事業に取り組んだ。屋敷は、川面・寺山城主三好尊春の居所。山川右膳、同右内等は尊春の配下にあり俸禄を受けていた。
 嘉吉元年(1441)尊春が逝去した時、山川邑部大輔法時が菩提所・吉祥時に祭った。同寺の大権尊は、210年程前の山川安芸正の施主によると過去帳に記してある。山川氏は、天仁元年(1108)より数えて39代を経て千寿となる。
⇒ 三好尊春 (参)「高梁市史」「上房郡誌」 
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やまぐち たみじ:山口 民二

明治40年〜昭和54年(1907〜1979)
高梁市落合町
川上郡落合村長(現・高梁市落合町)

 昭和26年〜29年(1951〜54)の間、川上郡落合村長(現・高梁市落合町)。
 この間、地方病対策として簡易上水道建設に尽力した功績は大きなものがある。落合村阿部地区には多量のフッソを含んだ井戸水が多いので、歯や関節などを犯し地方病といわれていたが、同27年(1952)この対策として簡易上水道を建設することを関係方面に陳情し、岡山県や大学、保健所などで調査をした。その結果、まず阿部地区に2カ年計画で、本管 3.300m余り、給水人口 900人の計画で建設、同29年(1954)8月27日通水式が行われた。
 また落合村誌も編集した。町村合併による高梁市誕生に尽力した。 (参)「高梁市史」 
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やまだ かじ:山田 梶(1)

安永8年〜文政元年8月27日(1779〜1818)
阿哲郡大佐町小坂部出身、高梁市中井町の人
山田方谷の母

 阿賀郡小坂部村(現・阿哲郡大佐町)に生まれる。父は西谷信敏、通称音衛門。
 阿賀郡西方村(現・高梁市中井町西方)の山田五郎吉重美(しげよし)に嫁ぐ。梶が嫁いだ頃は、貧乏であったが常に粗衣・粗食してよく夫を助け、家事に励み後には僅かながら蓄えもでき方谷を新見藩儒丸川松隠に学ばすほどになった。
 方谷に3歳から毎日字を教える。文政元年(1818) 方谷14歳の時、梶が大病なことを知り新見より帰宅した方谷に、「学半ばにして帰るとは何事か」と叱り、新見の松隠の下へ帰らせた。その10日余り後に梶はこの世を去った。
⇒ 山田方谷(すぐ下の項目)・丸川松隠 (参)「方谷先生年譜」 
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やまだ ほうこく:山田 方谷(2)

文化2年2月21日〜明治10年6月26日(1805〜1877)
高梁市中井町 
備中松山藩士、漢学者

 幼名は阿りん(ありん。「りん」は「憐」のりっしんべんを王偏にしたもの)。名は球。通称は安五郎。号は方谷。
 阿賀郡西方村(現・高梁市中井町西方)の農商の家に生まれる。父は山田五郎吉重美、母は梶。

幼少のときから聡明で、3歳より母から毎日字を学ぶ。5歳で新見藩儒丸川松隠に学び神童といわれた。文政元年(1818)14歳のとき、母が大病なことを知り帰宅したが、「学半ばにして帰るとは何事か」と叱られ、新見の松隠の下へ帰らされ、その10日余り後に母はこの世を去った。翌年父も死去。
 17歳で結婚し稼業の農業と製油業に励みながら勉学を行う。同8年(1825)21歳のとき、篤学の名声が広まり、松山藩主板倉勝職(かつつね)に認められ二人扶持を賜り、ついで苗字帯刀を許され、中小姓格に上り藩校有終館の会頭となる。
 また、同10年(1827)23歳のときから天保4年(1833)29歳までの間に3回京都に上り寺島白鹿(はくろく)の門下で学ぶ。同年の12月京都を辞し翌5年(1834)正月に江戸に上り佐藤一斎の門に入る。同7年(1836)32歳で帰藩し、翌年33歳で有終館学頭(校長)となり、同9年(1838)家塾「牛麓舎」を開いた。

 嘉永2年(1849)元締(会計長官)兼吟味役(会計吏) となるまでの13年間学職を務める。
 この間、津山藩及び庭瀬藩に赴き砲術を習得し、自ら小臼砲(しょうきゅうほう)を製造するまでに熟逹した。
 同年45歳の時藩主板倉勝職逝去。養子の勝静(かつきよ)が5万石を継ぐと、方谷は江戸に呼ばれ元締兼吟味役に抜擢され、鋭意藩政改革を断行した。上下節約、借財整理、殖産振興、軍政改革などを行い10万両の借金を返済し、その上10万両を蓄えた。改革の成功は他藩にまで聞こえ、長州藩の久坂玄瑞や越後(現・新潟県) 長岡藩の河井継之助をはじめ諸藩から視察に来る者が後を絶たず、方谷に理財を問う者が多かったと言う。

 安政3年(1856)年寄役助勤、有終館学頭となる。文久2年(1862)江戸幕府の老中となった藩主板倉勝静の顧問として江戸に出府する。川田甕江の進言で快風丸を購入。勅使(ちょくし)として江戸に下った大原重徳(しげとみ)は、「用人の方谷はきっとした人物だそうで、何事もこの人の意見によるらしい」と、京の公家(くげ)岩倉具視(ともみ)に報告している。
 元治元年(1864)松山藩の長州征討出陣に当たっては、藩主から留守の兵権を委任された。慶応3年(1867)12月前将軍徳川慶喜(よしのぶ)の辞官納地をめぐって京坂の情勢が切迫すると、藩主勝静の諮問に答えて、大政奉還の初志貫徹を献言した。多策家であった方谷は、一事に必ず上中下の3策を示して人に選ばせたが、その論は人の意表に出るものが多かった。
 方谷の献策は藩政においてほとんど採用されたが、幕府には採用されず、鳥羽伏見の戦い (慶応4年・ 1868)が勃発したので、天運の尽きたるものと嘆かざるを得なかった。

 そして松山藩は朝敵となり、岡山藩の占領下に入った。翌明治2年(1869) 9月、旧松山藩は高梁藩として再興されたが、この間に方谷が果たした指導的役割とその尽力は多大であった。
 この年西方村長瀬(現・高梁市中井町西方) に長瀬塾を増築して教育に専念したが、翌年小坂部村(現・大佐町小坂部) に居を移し、小坂部塾を開いた。同6年(1873)旧岡山藩士岡本巍(たかし)らの要請により閑谷精舎(再興された閑谷学校) の学督となった。
 また、台金屋村(現・久世町)の明親館、大戸下村(現・柵原町)の知本館、北和気村(現・柵原町)の温知館はいずれも方谷の命名したもので、その開校に当たっては講義している。
 河井継之助や三島中洲をはじめ方谷に従学する者は全国各地に及び、同10年(1877)に小阪部で病没するまでの門人はゆうに1千人を超えるといわれ、教育に与えた影響は多大であった。

⇒ 山田梶(すぐ上の項目)・丸川松隠板倉勝職佐藤一斎板倉勝静河井継之助三島中洲
(参)「山田方谷全集」「方谷先生年譜」「高梁市史」「備中聖人山田方谷」「高梁川」「高梁の名碑」「高梁二十五賢祭~畧傳」 
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やまだ へいじん:山田 平人(3)

文化11年〜嘉永2年11月27日(1814〜1849)
高梁市中井町出身
医師

 名は瑚。字はl卿。通称は平人。山田方谷の弟。阿賀郡西方村(現・高梁市中井町西方)の農商家・山田五郎吉重美の子。
はじめ新見藩儒丸川松隠の次男鹿山に学び、天保13年(1842)医者を志(こころざ)し、大坂を経て京都に遊学する。
弘化4年(1847)帰藩して松山城下紺屋町(現・高梁市鍛冶町)で開業。その名声を聞いて遠くからも病人が押しかけ、戸外に溢(あふ)れたという。松山藩では4人扶持を与えて大いに用いることとしたが、2年後の嘉永2年(1849)36歳の若さで病没した。子の山田耕蔵(知足斎)は山田方谷の養子となり山田家を継いだ。
⇒ 山田方谷(すぐ上の項目)・丸川松隠・山田耕蔵(すぐ下の項目) (参)「方谷先生年譜」 
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やまだ こうぞう:山田 耕蔵 (4)

天保10年1月〜明治14年10月6日(1839〜1881)
高梁市御前町
備中松山藩士・漢学者・砲術家

 名は明遠。幼名は英太郎。字は深卿。通称は耕蔵。号は知足斎、晩年は瀬北(らいほく)と号した。
 山田方谷の実弟・平人(へいじん)の長男に生まれる。11歳のとき父が死去。方谷に男子がなかったため養子となる。
 万延元年(1860)藩校会頭三島中洲に従い江戸に出て昌平黌(幕府の学問所)で学ぶ。方谷より「我が家は武門であるから文に偏してはならない」と言われ、武をもって身を立てるため槍術を津藩で、砲術を江川太郎左衛門に学び精通した。
 元治元年(1864)第一次長州征伐のときは、藩主板倉勝静に従い銃隊小隊長として広島に出陣、帰藩後の慶応元年(1865)有終館句読師を命じられたが、翌年再び東遊し砲術を修めた。
  鳥羽伏見の変により東帰した藩主板倉勝静は毎日のように江戸城西の丸に登城しおり、勝静の暗殺を企てる者がいると言う流言が立った為、銃砲修行中の耕蔵は隊長となり護衛に当たった。

 明治維新(1868)後高梁藩の文教官副となり、ついで大監察を務める。
山田方谷が中井村長瀬(現・高梁市中井町西方) に家塾を開くとこれを助け、方谷が家塾を小坂部村(現・大佐町)に移すと耕蔵は方谷に代わり家を守り、傍(かたわ)ら子弟に読書を授けた。経史の書を読み、漢文に優れ、文久2年(1862)病の間に律詩30首を作った。
 明治4年(1871)廃藩置県になると門を閉じて隠棲し世に出なかった。
 その詩は精彩があり、雑感の諸作は風韻に富み、明(みん)初にせまるものがあると言われ、書生は皆伝誦し方谷先生に勝(まさる)とも言われた。同14年(1881)43歳で没。著書に『知足斎詩抄』一巻がある。高梁古今詞藻にその詩を残している。
⇒山田方谷(二つ上の項目)・山田平人(すぐ上の項目)・三島中洲板倉勝静 (参)「高梁市史」「高梁古今詞藻」「方谷先生年譜」 
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やまだ じゅん:山田 準 (5)

慶応3年11月23日〜昭和27年11月21日(1867〜1952)
高梁市甲賀丁(町)8番地に生まれ、晩年は大工町
漢学者・教育者・二松学舎学長
 名は準、字名は士表(しひょう)、号は済斎(せいさい)。
  備中松山藩の藩校有終館の会頭を務めた木村豊(甲賀丁)の三男として生まれる。母は足守藩の長田氏の長女。
 山田方谷の義孫。方谷に跡継ぎが無く、弟・平人の長男耕蔵(知足斎)を養子としたが、耕蔵にも男子がなく女子が二人であった。山田方谷の家系が絶えることを心配した三島中洲が旧備中松山藩主板倉勝静に協議し、又木村氏と相談して山田家に入籍(1884年(明治17)18歳)。明治22年(1889)耕蔵の長女春野(はるの)と結婚した。
 高梁小学校を卒業後、有終館で荘田霜渓に漢文を学ぶ。ついで同16年(1883)17歳のとき上京して、二松学舎で三島中洲に学び、更に東京帝国大学(東京大学)古典講習科漢書課(後期生)を同21年(1888)卒業し、二松学舎の講師となる。
 その後、城北中学校(後の東京府立第四中学校)教師(同27…1894)、陸軍編集書記(同29…1896)として参謀本部付となり日本の古戦史の編集に従事した。ついで熊本の第五高等学校教授(同32…1899)となる。この頃夏目漱石も五高の英語主任をしていた。そして、鹿児島の第七高等学校が創設(同34…1901)されると進んで転任を希望し教授となる。
 以後26年間鹿児島で教鞭を執り、昭和2年(1927)二松学舎学長となり東京に転居。翌年二松学舎専門学校が新設されると初代校長に就任し、国漢文の中等教員の養成に努めた。
 ラジオ放送により「陽明学講話」などを行うと共に、「王学会」を設立し王陽明の伝習録の講義を行った。漢詩文は、文を安井息軒の門下生が創立した「以文会」に参加して学ぶ。詩は国分青(せいがい)の興社に参加した。
 同18年(1943)77歳の時、後進に路(みち)を譲り、一切の公職を退き 5月に高梁の大工町に帰住した。
 そして、同26年(1951)に「山田方谷全集」三編、2400ページを刊行。高梁を愛し「高梁近郊三十六詠」の漢詩を詠っている。また、高梁に「清流吟社」を興し、倉敷の「鶴陵吟社」に参加し作詩を楽しんだ。同25年(1950)岡山県文化賞を受賞。同27年(1952)11月21日没。85歳。
主な著書に『山田方谷全集』三編、『方谷先生年譜』『陽明学精義』『陽明学講話』『済斎詩存』『知足斎詩鈔』、講話として「高梁二十五賢祭~畧傳」がある。
 昭和8年(1933)には、板倉氏が伊勢亀山より備中松山に移り住んでより200年間の250家の詩・歌・俳句を収めた「高梁古今詩藻」を発行している。
同52年(1977)10月10日二松学舎の創立 100周年事業として「山田済斎先生頌徳碑(しょうとくひ)」が高梁市内山下の八重籬神社境内に建立された。墓は高梁市中井町西方に「山田準・はるのの墓」がある。
⇒ 山田方谷・山田耕蔵(すぐ上の項目)・三島中洲板倉勝静 (参)「高梁市史」「山田済斎先生頌徳碑」「高梁川」 
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やまなか しかのすけ:山中 鹿之介

天文14年8月15日〜天正6年7月10日(1545〜1578)
島根県能義郡広瀬町の人(高梁市落合町阿部に墓がある。)
戦国の武将 尼子十勇士の一人

 出雲国 月山(がっさん)(現・島根県能義郡広瀬町)の麓・新宮谷で尼子の重臣山中三河守満幸の子として生まれる。名は甚二郎。月山富田城跡の像は「鹿之助」と記してある。生まれながらにして目つきは鋭く、手足は太く振舞いも大らかであった。

長じて主君尼子氏に仕える。尼子氏は、1500年代中頃まで出雲地方(現・島根県)を本拠地として、一時は中国地方十一ケ国を支配した。尼子義久は永禄9年(1566)11月21日月山富田城を放棄して毛利(もうり)元就(もとなり)の軍門に降(くだ)る。
 尼子十勇士の一人山中鹿之介は数々の武勇を立て、英雄豪傑と称されており、自ら苦戦と取組み、再三に渡り主家再興の兵を挙げ、「我に七難八苦を与え賜え」と三日月に祈ったという。

 天正5年(1577)織田信長は羽柴秀吉を将として、備前・宇喜多直家の城であった播州上月城(現・兵庫県)を攻め取り、秀吉の軍に参戦していた尼子義久をこの城の城将に任じ、鹿之介以下尼子勢をもって、これ固めさせた。
 しかし翌6年(1578)3月、毛利輝元は備中松山城に出陣し、小早川隆景・吉川元春等に命じ6万6千の兵を擁し、上月城を包囲し7月3日尼子義久は自害、落城した。
 鹿之介は再び兵を挙げるため「これからは毛利に忠誠を尽くす」と偽って降伏する。これを毛利輝元は偽りと見抜き、備中松山へ護送中に殺害するよう命じる。
 7月10日鹿之介と妻子・家臣一行60人は、途中毛利方の歓待を受け、備中松山阿部の渡し(現・高梁市落合町阿部) にさしかかった。最初に鹿之介一人が舟で対岸に渡り、次の妻子を乗せた舟は船底のノミを抜かれて転覆したため、助けようとして水中に飛び込もうとした鹿之介に、天野元明の家臣河村新左衛門・福間彦右衛門が襲いかかり討ち取った。
 遺骸は観泉寺和尚の手により葬られ、討死の場所にほどちかい中州(なかす)の畑に榎(えのき)を植え、樹下に石を畳たんで五輪の塔を建てた。

しかし宝永・正徳(1710年前後) の大洪水に流失したため、正徳3年(1713)松山藩主石川主殿頭総慶(ふさよし)の家臣前田時棟(ときむね)が足軽佐々木郡六と協力して、石碑を建立。これが現在も残っており、高梁市の重要文化財に指定されている。
石碑の総高さは、 219p、台石は二段になり、下段は高さ25p・幅 111p四角、上段は高さ23p・幅77p、その上に高さ 171p・幅47p角の碑が建ち、正面に「山中鹿之介之墓」、右側に「正徳第三龍集葵己十月建」、裏面に「尼子十勇 儕輩絶倫 不得伸志 無遭于時 忠肝義膽 爰樹爰封 殊勲偉績 千載流芳 前田時棟 謹銘」と記してある。礎石は高さ 104p・幅148p角、側面に台石建立発起人として、阿部村(現・高梁市落合町阿部) ・神崎村(現・高梁市玉川町神崎) の有志名が刻まれ、最後に「明治十六年八月吉辰」とある。
 また、高梁市落合町阿部の高梁病院の西側に白壁の塀に囲まれた中に「幸盛院殿鹿山中的居士」の墓がある。明治35年(1902) 8月岡山の村本三十郎が発起し地元有志が協力して建立したものである。
菊叢の随筆「掌録」巻一の中に、山中鹿之介の墓のかけらを取り、一晩懐に入れて寝ると、瘧(おこり)が治るという言い伝えがあると記されている。
  ⇒ 石川総慶前田時棟 (参)「高梁市史」「山中鹿之介之末路」 
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やまむら きゅうべえ:山村 久兵衛

明治時代初期の人
高梁市本町
俳人

 松山城下(現・高梁市)本町に生まれる。号は静美、静湖堂。初代の久兵衛。薬種商を営み、50年の努力で財を成す。
 古希(70歳)に稼業を息子に譲り、東京・京阪・熊本などあちこちに旅をして、俳人を尋ね悠々自適な老後を過ごした。岡山県立高梁高等学校に書がある。享年83歳。
俳句 『新壁の匂ひも床し初日の出』
  (参)「上房郡誌」「高梁古今詞藻」 
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やまもと はんべえ:山本 半兵衛

文化14年〜明治2年9月1日(1817〜1869)
高梁市本町
幕末の備中松山藩の町年寄

 名は義重(よししげ)。通称は半兵衛。後月郡山野上村(現・井原市野上町)の生まれで稲葉亮伯の弟に生まれる。
  松山城下(現・高梁市)の本町の商家山本家の養子となる。屋号は讃岐屋。情に厚く曲がったことが嫌いな強い意志の持ち主であり、よく働き財産をなす。また、書史に通じ、孝行により賞賜されたことがある。また町年寄となり、更に市中取締役に任命され郷士格となる。生来おとなしい性格であったので何度も辞任を申し出たが許されなかった。
 慶応4年(1868)正月、鳥羽伏見の変が起き藩主板倉勝静が将軍徳川慶喜に追従したため松山藩は朝敵となり、松山藩は恭順の意を表し、城地を明け渡した。この時藩士はもちろん領民からも、主家の再興・藩領安堵の嘆願が執拗に行われた。半兵衛もこの事を憂い、密かに町内の有志と協議して、署名を集めしばしば岡山藩の鎮撫使に訴えたが聞き入れてもらえなかった。
 そして翌明治2年(1869) 春、農民代表の哲多郡大野部村(現・阿哲郡哲西町大野部)の名和三郎と共に、京都や東京に赴き主家の再興を明治政府に懇願した。
 旧藩主板倉勝静が奥州・箱館と転戦し5月に東京に連れ戻され自訴した後は、新政府から帰還するよう諭旨されたが、京都に止(とど)まりなお再興に尽力した。過労のため病に伏し、絶食が連日に及んだ。8月17日ようやく主家の再興の恩赦が下ったので、喜び病を押して汽船で帰藩した。
 藩(高梁藩)は町役人の大年寄に命じて訪問させ、中小姓に任命したが、病のため2日後の9月1日没した。52歳。
 墓は、高梁市上谷町薬師院の山門北側の墓地に西向きに建っている。墓には、進 鴻溪の撰文「山本半兵衛義重墓」が刻まれている。
  ⇒ 板倉勝静進 鴻溪 (参)「山本半兵衛義重墓」「高梁二十五賢祭~畧傳」「上房郡誌」 
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やまもと わきん:山本 和琴 

慶応元年〜大正8年12月14日(1865〜1919)
地方政治家

 名は半兵衛。初め喜太郎という。号は和琴・寒溪。商家に生まれる。有終館で学び、高梁製糸会社社長を務める。また県会議員となる。 (参)「高梁古今詞藻」 
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