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らい さんよう:頼 山陽

安永8年〜天保 3年 (1780〜1832)
安芸の人(現・広島県)

 経史詩書研究。『日本外史』『日本政記』で勤王思想を鼓吹。のち広島藩を脱藩し京都に住む。文政2年(1819)2月(40歳) 備中松山に来遊し、高瀬船で玉島船場まで下った船中で詠んだ詩がある。この時正善寺(高梁市大工町)に20日ほど滞在し、松山藩の儒学者奥田楽山と親交を深めた。
 高梁市玉川町玉の庄志大乗庵内に、昭和42年(1967)山陽の子孫である頼惟勤の書による詩碑が建立されている。
「夜久維舟取熟衣 渓城秋早露華滋 此間唯信盧陵句 月色如霜不粟肌」
 長男頼聿庵(らいいつあん)(1801〜1856) の書が高梁歴史美術館に所蔵されている。
奥田楽山 (参)「高梁の名碑」「日本史用語集」 
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