文政12年〜明治32年8月9日(1829〜1899)
高梁市本丁(現・内山下…御蔵坂の北側・市営住宅内)
幕末の備中松山藩家老、 400石取
名は義蔭。通称は益之介のち隼雄、如雲(じょうん)と改める。号は?軒(ていけん)。
大石家の遠祖の大石源右衛門は、八王子城主で北条氏に属していた。北条氏が滅び遠州へ下り、その子の三右衛門が藩祖板倉勝重によって家老に登用されて以来、世襲で家老職を務める。父は源右衛門、家老格。
幼少より山田方谷に学び、藩校有終館会頭(副校長)、近習(きんじゅう)、郡宰(ぐんさい)(郡奉行)、安政4年(1857)山田方谷の後を受け度支(たくし)(元締・会計官)となり、次いで家老を務める。
慶応4年(1868)1月の、戊辰(ぼしん)の役の時、藩主板倉勝静(かつきよ)が将軍徳川慶喜(よしのぶ)に従い江戸に帰ったため松山藩は朝敵となり、備前岡山藩の征討を受けた。
松山藩内の藩論はまちまちで、抗戦を主張する者も少なくなかったがこれを説き伏せ、恭順することとし、年寄役の井上権兵衛と共に嘆願書を携え、窪屋郡西郡村(現・山手村)や浅尾(現・総社市)へ赴き、ひたすら寛大の処置を嘆願した。
しかし岡山藩の先鋒は、美袋村(現・総社市美袋)に到着したので、隼雄を正使とし、三島貞一郎(中洲)・目付役横屋譲之助(幸喬)を副使として、鎮撫使(ちんぶし)の下(もと)へ赴き、鎮撫使側より示された嘆願書の案文に藩主板倉勝静の行動が「大逆無道」となっていたので藩の重役や山田方谷の指示もあり隼雄等は決死の覚悟で嘆願し「軽挙暴動」に替えることを交渉した。
この時、隼雄が大声を上げて泣いて嘆願したことに、鎮撫使側も感動し字句を替えることを許した。
また、同年1月19日松山城地が備前岡山藩に引き渡されてから、泣いて主家の再興を鎮撫使に哀願した。君命が無いまま勝手に城を明け渡したことは、主君に対して誠に申し訳ないと、自宅に帰り切腹しようとしたが三島貞一郎、三浦泰一郎(佛巌)、国分衛蔵(胤之)らに説得され思いとどまった。
岡山藩の家臣に「赤穂(播磨国=現兵庫県)の大石太夫(良雄)再出せり。」と言わせた。また、主家の再興のため鎮撫使と交渉を行うと供に、京都、東京へ奔走し尽力した。
明治2年(1869)松山藩が復興し賞典があったとき、第一等であった。松山藩が高梁藩になると、投票により藩の大参事(最上位)となり、廃藩後は裁判所の判事を務め、同26年(1893)退職し高梁へ帰る。
同32年(1899)8月9日没。71歳。墓は頼久寺庭園の東側に在る。八重籬神社の境内に三島毅(中洲)撰文の「旧松山藩老大石君碑」の顕彰碑がある。
⇒ 板倉勝重・山田方谷・板倉勝静・井上権兵衛・三島貞一郎(中洲)・横屋譲之助(幸喬)・三浦泰一郎(佛巌)・国分衛蔵(胤之)・大石良雄
(参)「高梁市史」「旧松山藩老大石君碑」「高梁二十五賢祭~畧傳」「高梁古今詩藻」
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万治(まんじ)2年〜元禄16年2月4日(1659〜1703)
播磨国(はりまのくに)(現・兵庫県)赤穂藩の家老 1.500石取
赤穂浪士の首領。内蔵助(くらのすけ)と称す。
家は代々浅野家の家老。父の良昭は早くに没し、延宝5年(1677)、祖父内蔵助良欽(よしただ)の後を継ぎ家老となる。山鹿(やまが)素行(そこう)に兵学を、伊藤仁斎(じんさい)に儒学を学ぶ。
元禄6年(1693)備中松山藩水谷(みずのや)改易(注1)の時、備中松山(現・高梁市)へ城の受け取りに来て在藩した。
備中松山藩主水谷勝美(かつよし)が元禄6年(1693)10月6日、31歳で病没し、嗣子が無いため12月21日、所領収公となり、播磨国(現・兵庫県)赤穂藩主浅野内匠頭(たくみのかみ)長矩(のりなが)に備中松山城の請取が命ぜられた。
翌7年(1694) 2月18日家老の内蔵助は先鋒を率いて赤穂を出発、翌19日藩主浅野内匠頭は自ら本隊を率いて赤穂を出発し、22日松山に到着した。内蔵助は収城使の家老として、水谷家の家老鶴見内蔵助以下と会見、松山藩内の藩論はまちまちで、抗戦を主張する者も少なくなかったが交渉を纏(まと)め、23日昼時には城地の授受が終わった。藩主浅野内匠頭は翌24日帰路につき、27日に帰城したが、内蔵助は藩主浅野内匠頭の名代として、翌8年(1695)5月、上野国(現・群馬県)高崎より安藤重博が新藩主として入国(注2)するまで 1年あまり在藩した。
それから 7年後の同14年(1701)3月14日藩主浅野内匠頭長矩が江戸城内松の廊下で高家(こうけ)(注3)吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしなか)(注4)を私怨(しえん)により切りつけ傷を負わせたため、当日切腹・城地収公(注5)がなされた。
内蔵助は浅野家の再興に尽力したが、かなわず翌15年(1702)敵討(かたきう)ちを決意し、同志46人と共に12月14日深夜、江戸(現・東京都)本所(ほんじょ)の吉良邸に討ち入り義央の首級(しゅきゅう)をあげ、恨みを晴らした。
幕府により翌16年(1703)2月4日、切腹させられた。遺骸は泉岳寺に葬られた。
大石内蔵助と鶴見内蔵助の一件は、備中松山踊りの「仕組み踊り」の物語の中に「二人内蔵助」として今も伝えられている。
また、備中松山城の旧登山道の中ほどに、「大石良雄腰掛岩」という大岩がある。良雄(内蔵助)が登城のときに休憩のため腰掛けて休んだという伝説がある。
⇒ 水谷勝美(かつよし)・鶴見内蔵助・安藤重博 (参)「高梁市史」「学芸百科事典」
注1:改易…家禄を没収し平民とする。
注2:安藤重博の入国…実際に着任したのは8月初旬
注3:高家(こうけ)…江戸幕府の職名。幕府の儀式、典礼、朝廷への使節、伊勢大神宮・日光東照宮への代参、勅使接待、朝廷との間の諸礼を司った家。禄高は低いが参内(さんだい)して職務を行うため、官位は高く大名でもめったになれなかった四位・五位まで進むことが許されていた。
注4:吉良 上野介義央(きら こうづけのすけよしひさ〔よしなか〕*)
寛永18年〜元禄15年12月15日(1641〜1702)
江戸中期の幕臣
三河(現・愛知県)幡豆(はず)郡吉良に 4千石を領した高家。
朝廷への使いを度々務め、高家の第一人者として活躍した。
元禄14年(1701)3月14日勅使接待問題で、赤穂藩主浅野内匠頭の恨みをかい、傷つけられる。内匠頭は即日切腹、城地収公となる。上野介は処罰を受けなかったが、辞職して隠居。翌年12月14日深夜、大石内蔵助以下の赤穂浪士により襲われ殺害された。 領地では治水や塩田開発などを行い、名君として領民から信頼されていたという。(参)吉良町のパンフレット、「学芸百科事典」
*「義央」の読みは、「学芸百科事典」などでは「よしなか」とされているが、愛知県吉良町産業建設部産業課と吉良町観光協会発行のパンフレットなどによると「よしひさ」。
註5:城地収公…所領を幕府が没収すること。
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明治28年〜昭和37年10月24日(1895〜1962)
高梁市南町
畜産家、高梁町長
川上郡成羽町吹屋に生まれ、高梁市南町に居住。
昭和26年(1951) 4月23日から同29年(1954)4月30日まで第九代高梁町長を務め、町村合併に尽力し、同年5月1日高梁町ほか 8村により高梁市を発足させた(中井村は翌年3月)。
一方、畜産業の振興にも尽力し、岡山県畜産会長、県総合畜連理事、県商業組合長、全国畜産農協理事、県畜連会長、備北信用金庫理事長などを務めた。同31年(1956)11月畜産功労者として藍綬褒章を授けた。
死後、遺族が浄財を高梁市に寄付し「大河賞」が創設され、農業、畜産、商工などの地域の産業振興に功績のあった個人や団体に産業奨励および功労者褒章が行われている。墓は薬師院にある。 (参)「高梁市史」
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明治32年2月29日〜昭和62年11月2日(1899〜1987)
高梁市伊賀町、中間町(吉備郡真備町出身)
書道家
書家。本名は富貴雄。教員をしていた父真太郎の赴任先の倉敷市連島鶴新田で真太郎・まさの3男として生まれる。父は下道郡薗村(現・吉備郡真備町)の人。
大正7年(1918)岡山師範学校を卒業、師範学校在学中大原桂南に書の指導を受ける。卒業後、小学校で教鞭を執る。
同11年(1922)春靄(しゅんあい)高等女学校(現・総社高校)に勤務、この頃真備町より徒歩で勤務していた。この年文部省教員検定試験(書道)に合格し、翌12年(1923)より昭和15年(1940)までの17年間、広島県三原女子師範学校に勤務、書道教師を務めた。大正15年(1926)小見山英子と結婚。この間に、丹羽海鶴、近藤雪竹に師事。また比田井天来、尾上柴舟からも指導を受ける。
同15年(1940)から大阪陸軍幼年学校教官に招聘され、終戦まで務める。
同21年(1946)高梁に移り市内の日本専売公社高梁工場に勤務。同33年(1958)退職。勤めをしながら地域で書道の指導を続け、同34年(1959)「備中書道会」を創設し、備北地方の書道の普及と振興に努めた。中央の大家に劣らぬ技量を持つといわれながら、展覧会出品や個展を好まなかった。最盛期には 2、400人余りの会員がいた。
平成11年(1999)6月「生誕百年記念大窪桂石遺墨展」が、高梁市内で弟子たちにより開催された。
(参)「生誕百年記念大窪桂石遺墨展」
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生没年不詳(幕末維新の人)
高梁市伊賀丁(伊賀町)
幕末の教育者
嘉永元年から明治3年(1848〜1870)まで伊賀丁(現・順正短期大学体育館の敷地の南西角)で家塾を開き、男女50名程に習字を教えた。父玲介は松山藩に仕へ大小姓格、 9石二人扶持(ふち)。(参)「高梁市史」
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安政4年12月28日〜大正 7年10月17日(1857〜1918)
高梁市向町出身
政治家・教育者
名は香、幼名は香次郎。字は子方、蘭卿。号は鐵軒(てっけん)、二四軒、東麓、石堰、蝶川などがある。
備中松山藩士三浦仏巌(泰一郎)・まつの次男として向町(現・高梁市立図書館入り口付近)に生まれる。家塾で父に学ぶと共に奥田藍峰及びその子桃蹊(とうけい)に学び、6歳で四書五経の素読を習い10歳で藩校有終館に入る。廃藩後は進鴻溪、鎌田玄溪、石阪空洞に就いて学びその後も交遊があった。
明治8年(1875)小田県師範学校を卒業後、小学校訓導(教諭)を務め、同12年(1879)児島郡八軒屋村(現・倉敷市八軒屋)の大塚寿吉の養子となる。倉敷の名医石坂堅壮に師事し、和漢学、政治学を学ぶ。
同16年(1883)2月、岡山県議会議員補欠選挙に27歳で当選、最年少議員となる。翌年 4月の改選で2回目の当選をしたが、同年 8月に議員を辞退、児島郡書記となる。同27年(1894)38歳で三度目の県議に当選、以後62歳で死去するまで連続8回の当選を果たし、この間県議会議長2回、県参事会員も務めた。
一方、教育にも熱意を示し、同19年(1886)若干30歳で児島郡教育会長に就任し、以後も学務委員等の役職を務める。
同36年(1903)11月、関西中学校(現・関西高等学校)第六代校長に就任。この年長女・妻が病死。校長在任中、関西中学校付設教員養成所の開設、関西中学校の前身の岡山薬学校を再開して、岡山医学専門学校予備門として設立。更に、児島地方の要望に応(こた)えて、同39年(1906)4月、関西中学校天城分校を開校し、自(みずか)ら校長を兼務した。
同41年(1908)6月、天城分校から天城中学校(現・倉敷天城高等学校)の独立設置が文部省から認可され、同年10月、初代の私立天城中学校長に就任。同42年(1909)3月で関西中学校長を辞任し、以後、天城中学校長として私財を投じて同校の発展に尽力した。
父仏巌に学んだため漢学に造詣(ぞうけい)が深く、多くの漢詩を詠(よ)んでいる。また弁説に優れ、聴衆に多くの感動を与え、生徒に訓戒を与えた時にも感動して涙を流す場面もあったという。著書に『鐵軒存稿』(昭和15年・1940年刊)がある。今でも倉敷市天城では「鐵軒(てっけん)先生」と、慕われていて、その精神は、「質実剛健 勤勉力行 不撓不屈」。
⇒ 三浦仏巌・進鴻溪・鎌田玄溪・奥田桃蹊 (参)「備作人名大辞典」「高梁古今詞藻」 TOPに戻る このページの先頭へ
慶長7年〜延宝元年12月30日(1602〜1673)
総社市出身
備中松山藩の玉島新田の開発をした人
江戸時代初期の土木家。通称は次郎兵衛。字は元直。
賀陽郡八田部村(現・総社市総社)の庄屋に生まれる。八田部村の庄屋をしていたが、土木事業に詳しかったので、万治2年(1659)備中松山藩主水谷(みずのや)勝隆(かつたか)に登用されて普請奉行となり、松山川(現・高梁川)の下流デルタ地帯や海岸地方で玉島新田(現・倉敷市玉島)、長尾外新田、船穂中新田など次々と新田開発を行い、236町歩の開発に当たった。そして、八田部村の庄屋を息子の与右衛門に譲り、玉島新田の庄屋となる。更に新田の南部を埋め立て、寛文5年(1665)に新田が完成し、玉島の町割りを行うと共に、玉島港の整備を進めた。
一方、高瀬舟の運行のため、同11年(1671)船穂村(現・船穂町)と長尾村(現・倉敷市玉島長尾)の取水堰であった水江一の口樋と水路を拡張整備し、玉島港までの9qに及ぶ「高瀬通し」(注1)を開削し、舟運の利便を図ると共に灌漑用水にも利用した。(これは延宝年中(1673〜81)に完成した。)これにより、玉島は備中松山藩の外港として繁栄した。墓は倉敷市玉島の安福寺にある。
⇒ 水谷(みずのや)勝隆(かつたか) (参)「高梁市史」「水谷公三代の遺徳」「岡山縣人名辭書」
注1:『高瀬通し』
高瀬通しの一の口水門から二の水門までの間は閘門(こうもん)式運河(注2)になっており、30〜50艘(そう)の高瀬舟が一の口水門に入ると、舟を繋(つな)いで水位が2〜3 bになるのを待って二の水門を開いて下降させた。この方式はパナマ運河に先立つこと約 150年で、世界最古の閘門(こうもん)式運河である。
注2:閘門式運河---船舶を水門の開閉により、高低差のある水面に昇降させる装置。
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安政2年2月23日〜昭和6年5月29日(1855〜1931)
高梁市新丁(しんちょう)(弓之町)出身
教育者
備中松山藩士岡村正仲の長男。
官立広島師範学校に入り明治8年(1875)12月卒業、奈良県漢国町小学校に勤める。同13年(1880)岡山に帰り上道郡東山高等小学校に勤め、同20年(1887)4月に東京高等師範学校に入学し博物学を学ぶが病気のため中途退学する。
同25年(1892)高等岡山小学校(後の内山下小学校)の訓導兼校長となり、大正9年(1920)まで30年近く在職した。明治28年(1895)には成績優秀のため岡山県教育会より功績状を、その後も文部大臣、帝国教育会などの表彰を受けた。
この間、同38年(1905)には津山から水泳の熟練者を招き神伝流の泳法を岡山市に広め、同41年(1908)には神伝流岡山遊泳会を発足させた。温厚・謹厳にして和魂・勤勉・堅忍を校訓として、内山下小学校を県下屈指の優良校とした。退職後、備作恵済会経営の三門学園長に就任する。感化事業に専念し学園の面目を一新したが、昭和3年(1928)、県営に移管されたのを機に職を辞した。
同19年(1944)内山下小学校の卒業生の浄財より校内に頌徳(しょうとく)記念胸像が建立された。 (参)「岡山市史・人物編」
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享和2年〜明治5年10月20日(1802〜1872)
高梁市新丁(しんちょう)(弓之町)出身
俳人
元の姓は山路氏。名は以太夫。号は桑古、寒山居。江戸時代後期の俳人。俳諧を赤木晋和(しんな)(一日庵晋和)に学ぶ。
子の胤之(たねゆき)は国分氏の養子となり戸長、高梁町長を務め、「昔夢一斑」の著者。
孫の国分三亥は司法官を務め、宮中顧問官となり高梁市名誉市民となった。同じく孫の秀哉(しゅうさい)(医師)を岡本家の養子に迎え後を継がせた。
辞世の句「砂にしむ流れの果やかれを花」
⇒ 赤木晋和・国分胤之・国分三亥・岡本秀哉(すぐ下の項目) (参)「昔夢一斑」「高梁古今詩藻」
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慶応2年1月〜大正10年1月(1866〜1921)
高梁市新丁(しんちょう)(弓之町)出身
医師
備中松山藩士国分胤之(確所)の二男として新丁(しんちょう)(現・弓之町)に生まれる。幼名は慶二郎、号は宕山(とうざん)。
幼くして父の生家岡本家を継ぐ。兄は高梁市名誉市民の国分三亥。
有終館で学び、明治14年(1881)大阪の春日寛平・育造の塾に寄宿し、漢方洋方の医術を学び代講となる。同17年(1884)上京して三島中洲の二松学舎で漢学、済生学舎で医学を学び、同19年(1886)医術開業免状を受ける。同21年(1888)高梁に帰り開業、間もなく矯風(きょうふう)(注1)を目的とし高梁青年会を結成、会長となる。
次いで同23年(1890)、第一回の衆議院議員総選挙に際し、山陽自由党を創立した石黒涵一郎を応援したが果たせず、同25年(1892)、第二回の衆議院臨時総選挙にも石黒を推し敗れる(同31年(1898)衆議院議員に当選)。
のち感ずるところがあり、政治活動を断ち医業に専念した。同26年(1893)大阪市西区で医院を開業。同39年(1906)発布された医師会規則により、吉田顕三、清野勇等と共に医師会の設立に尽力した。
同43年(1910)から翌年まで大阪医師会の副議長に選ばれた。磊落(らいらく)正直、上辺を飾らず座談に長じた。大正10年1月没、56歳。
⇒ 国分胤之・国分三亥・三島中洲 (参)「高梁古今詞藻」「岡山県人名鑑」
注1: 矯風…悪い風俗を改め直すこと。
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文化13年〜明治24年11月23日(1816〜1891)
倉敷市水江出身
日本画家
字は確乎。通称は典馬。号は菱邨、竹叢。
窪屋郡(現・倉敷市)水江村に生まれ、京都で叔父の日本画家岡本豊彦(1773〜1845)に師事し四条派を学び、次いで長崎に遊学する。のちに倉敷に帰り活躍し、倉敷市曽原の一等寺などの寺院には多くの襖絵が残っている。
風景画、人物画を得意とし、詩を仁科白谷に学んだ。明治17年(1884)10月、69歳のとき描いた「陶淵明帰去来之図」は翌18年(1885)岡山県絵画講習会に出品し第一優等賞を受賞したものと思われる。この作品は、高梁市宇治町の元仲田邸(高梁市所蔵)に所蔵されている。
(参)「高梁文化交流館資料」「元仲田邸資料」
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文政3年〜明治10年(1820〜1877)
幕末の大庄屋・地方政治家
高梁市川面町市場の人
備後国神石郡草木村(現・広島県神石郡神石町草木)に生まれ、上房郡川面村(現・高梁市川面町)の大庄屋岡本家の養子となる。屋号は『屋名葉』。
謹直誠実な人柄で、吏務の才能が高かったといわれた。村を治める事に尽力し、大庄屋として荒無地の開墾、灌漑用の溜め池の造成、道路改修などの功績が大きかった。
安政4年(1857)に完成した要の池(落合池)は藤原谷を塞(せ)き止めて造った。この堤には、進鴻渓撰文の碑が建立されている。要助は山田方谷に学び、方谷門下の四天王の一人といわれ、方谷の命により松山東村(現・高梁市松山河内谷付近)から吉備郡種井村(現・総社市種井)に至る松山川(現・高梁川)沿岸路傍に松や桜の並木(4q)の植樹を監督した。これは往徠する人々に安らぎを与えていたが、道路の拡張により伐採されてしまった。
また、嘉永年間(1848〜53)には吉備津神社の北随進門前へ常夜灯を寄進している。(注1) 慶応4年(1868)2月初旬より3月中旬に備中松山藩領内で一揆が起こったとき(注2)、年来の不正を理由に村人300人ほどが押し入り打ち壊しを受け、これにより大庄屋を罷免された。
⇒ 進鴻渓・山田方谷 (参)「高梁市史」「備作人名大辞典」「上房郡誌」
注1:秋庭重明は南随進門の棟上げの神領を掌る社務代として名を連ねている。⇒ 秋庭重明
注2:備中松山藩領内で慶応4年(1868)2月初旬より3月中旬にかけて一揆起こった。
これは維新により備前岡山藩の鎮撫使に対する救済米の要求や慶応2年(1866)の大凶作で村人は窮乏していた為年貢納入の問題などが絡(から)んで、その不満が旧備中松山藩主や重臣、郡吏に対するものでなく、末端の村役人や庄屋、肝煎などに向けられたものである。このため一揆は長くて15日、短いものは1日と短期間のものでありまもなく全て鎮まった。
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明治 9年 3月15日〜昭和15年11月 5日(1876〜1940)
高梁市出身、新見市豊永の人
地方政治家、農業功労者
上房郡松山城下(現・高梁市)の荻野善作の長男。
明治24年(1891)3月16歳のとき阿賀郡豊永村(現・新見市豊永)の酒造業荻野家の養子となる。第三高等中学校へ入学するが中退。その後看護学校に入り同30年(1897)卒業。家業の酒造業と社会事業に励む。
明治43年(1910)豊永村会議員に初当選、大正2年(1913)5月から同4年(1915)4月まで村長を務める。その後阿哲郡議会議員も務めた。この間、村道改修や役場の建設、豊永郵便局の設置、診療所・隔離病舎の設置などを行うと共に、伯備線中井駅を山田方谷に因んで方谷駅に改称するため各方面に運動を行うなど地方自治に尽力した。交渉や斡旋をするだけでなく多額の私財を投じて福利・公益に貢献し豊永村の発展に尽くした。
一方、煙草(たばこ)耕作の改良に努め、同15年(1926) 3月の煙草耕作組合連合会設立に中心的役割を果たし、昭和7年(1932)同組合連合会副会長となり、岡山県の煙草耕作普及に活躍した。
死去にあたり村民は村葬を行い遺徳を偲び哀悼の意を捧げた。(参)「続・豊永村誌」「岡山県煙草史」
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明治2年7月17日〜 ?(1869〜? )
高梁市向丁(現・高梁市郷土資料館、元高梁北小学校本館付近)
銀行員
初め元太郎、号は無聲(むせい)。父は備中松山藩士で名は虎三郎。大小姓格、50石取り。
4歳で啓蒙社(のち高梁小学校・中之町の有終館跡)に入る。明治14年(1881)3月(13歳)高梁小学校を卒業、山田準と有終館に入るが僅(わず)か8ケ月で、新設された上房中学へ入学。次いで高梁中学で学ぶ。
上京して、東京専門学校(早稲田大学の前身)の英語、政治科を卒業後、小学校で教鞭を執る。次いで太陽新聞の記者となり、日本銀行に転職し検査役、金沢・小樽の支店長、出納局長となる。著書に『日本銀行沿革史』10巻。『高梁に於ける有終館と上房中学』。高梁市史には随所に忠彦の文が引用されている。
⇒ 山田準 (参)「高梁古今詞藻」「高梁市史」
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安永6年〜万延元年(1777〜1860)
高梁市東間之丁(現・JTオカムラ内、八幡神社参道と鉄道の交差する辺り)
備中松山藩士、幕末の漢学者・詩人
名は盛香(せいこう)。通称は蕉蔵(しょうぞう)、貞蔵、貞介。号は楽山または蕉窓。
8歳で家督を相続するが、幼弱のため親族の備中岡田藩士仙石斎宮に養われる。14歳で備中松山に帰り中小姓に取り立てられる。江戸詰め、大坂詰めの後帰藩、奉行格、近習頭、吟味役を務めたが事務にはあまり向かず、有終館学頭となり子弟の教育を行った。若くして教養を大坂の中井履軒(りけん)に、詩を備後の菅茶山(注1)に学んだ。
最も詩を愛し特に宗詩を好み、その居を「莫過詩屋(ばくかしおく)」と名づけた。
文政 2年(1819)43歳の夏、頼山陽(40歳)が松山に来遊し正善寺に1ヶ月ばかり滞在した時、以前に菅茶山に批評を受けた「莫過詩屋(ばくかしおく)絶句」50首を持参し批評を求めた。山陽はこれを大いに賞賛した。また山田方谷は楽山の詩を評して「先生の詩は宗の楊誠斎(ようせいさい)の詩風を主としそれに陸放翁(りくほうおう)の跌宕(てっとう)と蘇東坡(そとうば)の縦横を交えていて、全く宗詩の粋なるものだ」と評している。
天保3年(1832)の大火により本丁(ほんちょう)(現・内山下)の有終館が焼失した時、藩主板倉勝職(かつつね)に進言し城下の中心・中之丁(現・中之町)へ規模を拡張をして移転、文教の興隆を図った。弘化元年(1844)68歳のとき、のちの藩主板倉勝静(かつきよ)が帰藩した時、楽山は「宋名臣言行録」、山田方谷は「綱目通鑑」を隔日に侍讀(じどく)(注2)した。
三島中洲の話に、
「奥田蕉蔵という学者あり。是は中井竹山(注3)の門に学びたりと聞く。詩が得意にて楊誠斎(ようせいさい)流の作多し。『備中話(ばなし)』を著(あ)わせり。未成の書なれども、上房郡、下道郡の事はやや詳(つまび)らかなり。この人が余の師・山田方谷の前の儒官にて、学問所(有終館)の学頭なり。方谷が代わって学頭なりし時分に、余は方谷の私塾に在りし故に、右奥田老人が角巾野服(かっきんやふく)にて野外散歩せられしを見受けたり。」
といっており、風流を楽しんでいた老後のことである。
歴史にも関心を持ち「備中話」5巻(嘉永2年(1849)の編著と言われる)を著している。この備中話に高梁の地名の由来について「高橋又四郎、実名知れず、元弘正慶の頃居城の由、そのころまでは松山を高橋といえり、これより松山と言う、山の名を取りて城下の名とす」と記している。
性格は、品性高潔温雅、一藩の徳望を担った。晩年は東間之丁の自宅に五愛楼(五愛とは、月・雪・花・風・山を愛する)と称する書斎を建て、風流を楽しみ万延元年(1860)84歳で没した。墓は道源寺(寺の裏)にある。実子は無く、養嗣子の楽淡は『備中略史』を著している。著書に『莫過詩屋集』付録と共に各2巻「備中話」5巻がある。
⇒ 頼山陽・山田方谷・板倉勝静・三島中洲・高橋又四郎 (参)「高梁市史」「高梁古今詩藻」「高梁二十五賢祭~畧傳」「上房郡誌」
注1:菅 茶山(かん ちゃざん)
寛延元年〜文政10年(1748〜1827)
広島県神辺町出身
江戸時代随一といわれた漢詩人(参)「高梁市史」
注2:侍讀…高貴な人の御前(ごぜん)で書物を講義すること。又はその官。
注3:中井 竹山なかい ちくざん
享保15年〜享和 3年(1730〜1803)
大坂に生まれる
江戸中期の儒者
名は積善(せきぜん)。父は甃庵(しゅうあん)。弟履軒(りけん)と共に五井(ごい)蘭州(らんしゅう)に朱子学を学ぶ。松平定信の諮問を受けて、通貨の問題その他幕府の経済対策を論じたのが、「草茅(そうぼう)危言(きげん)」である。寛政(かんせい)異学の禁に際しては官学を守る立場に立った。(参)「高梁市史」「学芸百科事典」
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文政4年〜明治17年7月24日(1821〜1884)
高梁市東間之丁(現・JTオカムラ内)
松山藩士(近習 80石)、幕末の教育者
幼名は恒之進、名は藍峰、号は楽淡。奥田楽山の養嗣子。子は桃蹊(とうけい)。
藩の医師龍田龍仙の次男。山田方谷に学び、南画を横矢南山に学ぶ。
後に松山藩主板倉勝静の近習小姓より、文武監査役に昇進する。私塾を開き安政 3年(1856)から明治 2年(1869)まで漢学・書道を常に50人に教えた。楽淡は『備中略史』を著している。県議会議員を務めた大塚 香(政治家・教育家)に教えた。
⇒ 奥田楽山(すぐ上の項目)・奥田桃蹊(すぐ下の項目)・山田方谷・横矢南山・板倉勝静・大塚 香 (参)「高梁市史」「岡山縣人名辭書」
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天保12年〜明治39年 3月 5日(1841〜1906)
高梁市東間之丁(現・JTオカムラ内)
教育者
名は盛順、通称穫蔵(かくぞう)。奥田楽淡の子。奥田楽山の孫。
昌平黌で学び、小学校で教鞭を執り、のち上房郡の書記となり村長も務めた。明治39年没。66歳。父楽淡と共に県議会議員を務めた大塚香(政治家・教育家)に教えた。
⇒ 奥田楽山(二つ上の項目)・奥田楽淡(すぐ上の項目)・大塚 香 (参)「高梁古今詩藻」「備作人名大辞典」
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明治 9年 2月20日〜昭和32年11月 5日(1876〜1957)
高梁市本町生まれ、のち伊賀町
日本画家、教師
本名は善三郎。号は、少年時代は嘯月(しょうげつ)、20代になって白菫(はっきん)、次いで檀溪(だんけい)。青年時代は生家の阿蘇屋に因(ちな)んで蘇山(そざん)。その後そ山(そざん。「そ」は「蘇」の草冠なし)とかえた後、「そ」の字を二つに分け魚禾(ぎょか)と号した。望牛山荘主人とも称した。
上房郡高梁町本町 330番邸(現・高梁市本町88番地)で小倉弥助・友(ゆう)の三男として生まれる。長兄は小倉章蔵の父真之助(のち弥助を襲名)。
生家は阿蘇屋と言う大きな小間物屋を営み、名字帯刀を許されていた。
のち、伊賀町3番地(高梁学園体育館敷地南西角)に住む。 2歳で父を失う。
明治16年(1883)高梁高等小学校に入学し、同24年(1891)に卒業。
同30年(1897)2月に岡倉(おかくら)天心(てんしん)が校長であった東京美術学校(現・東京芸術大学)日本画科選科に入学し、川端(かわばた)玉章(ぎょくしょう)(1842〜1913)について日本画を学び、平福(ひらふく)百穂(ひゃくすい)(1877〜1933),結城(ゆうき)素明(そめい)(1875〜1957)(ともに後に帝国美術院会員、東京美術学校校長)等の日本画家とも親交があった。
同33年(1900)7月に卒業。卒業制作は「菜花図」で成績は一番であった。今も東京芸術大学に保管されている。この年(24歳)、家を継いだ兄が病弱なため帰郷し、翌34年(1901)吉備郡水内、下倉、日美、富山の4カ村立維新尋常高等小学校の教師となる。
同37年(1904)4月から同40年(1907)3月まで私立高梁順正女学校に勤務。3月退職後上京し絵の勉強を始めるが同年8月母が亡くなり再び帰郷。9月高梁キリスト教会で洗礼を受ける。
同41年(1908)4月から11月まで京都市立関西美術院で、鹿子木(かのこぎ)孟郎(たけしろう)(注1)に西洋画を学ぶ。
高梁に帰り同42年(1909)2月再び高梁順正高等女学校の美術と書道の教師となり、昭和 8年(1933)、57歳まで前後30年近く勤務した。
順正高等女学校の校章を創案する。校長は最後の数年を除いて伊吹岩五郎であった。
大正から昭和にかけては清水比庵とも親交があった。戦前の数年間は高梁技芸女学校と成羽高等女学校の講師も務めた。絵は花鳥、美人画をふくむ人物画、風景画など何でも描いたが、奥万田(現・高梁市奥万田町)の、五(ご)衛門(えもん)稲荷(いなり)の池の鯉は大好きで、魚禾(ぎょか)といえば鯉の絵といわれるくらい多く描いた。晩年は淡泊な詩趣に富む茶掛額を好んで描いた。
人柄は堅物で、若い時は剣道・水泳・テニスを好み後釣り・謡(うたい)・碁が好きで夕方に映画館に出かけることもあった。また山田準(済斎)に就いて漢詩を作っていた。
京都近代美術館長、倉敷大原美術館長を務めた小倉忠夫は長男。
墓は高梁市頼久寺町のキリスト教墓地にある。82歳で没。岡山県立高梁高等学校に「方谷先生肖像」の画がある。本誌の表紙の「山田方谷像」は、高梁市所蔵の魚禾(ぎょか)の画である。
⇒小倉章蔵(すぐ上の項目)・清水比庵・伊吹岩五郎・山田準 (参)「高梁市史」「高梁川」「高梁古今詞藻」「有終」
注1:鹿子木 孟郎(かのこぎ たけしろう)
明治7年11月〜昭和16年4月(1874〜1941)
岡山市田町出身
洋画家
岡山藩士宇治長守の三男。8歳のとき、伯父の鹿子木家の養子となる。
岡山で松原三五郎の天彩学舎で学んだ後上京して洋画を学び、その後、文部省の教員検定試験に首席で合格し、滋賀、三重、埼玉で教鞭を執る。
明治33年(1900)渡米し次いでパリでジャン=ポール=ロランスの薫陶を受ける。明治37年(1904)日露戦争が勃発したため帰国し京都に住み自宅に画塾を設ける。同39年(1906)再び渡仏、代表作の「ノルマンデイ の浜」、「漁夫の家」を制作。
帰国後、京都市立関西美術院の院長を務めると共に同42年(1909)文部省美術展覧会(文展)の審査員、帝国美術展覧会(帝展)の審査員を歴任する。また出品も続けた。日本的油彩画の創造を主張し、保守的な画家といわれた。
(参)「近世岡山県先覚者列伝 故人百人」
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明治17年5月30日〜昭和39年9月19日(1884〜1964)
高梁市本町
音楽教師、童謡作詞家、作曲家
号は、若いときは音十、その後蕉雨、晶象、長めのものには呉綾軒蕉雨を用いた。
小倉弥助(若いときは真之助)・松の長男として高梁市本町88番地で生まれる。小倉魚禾(ぎょか)(善三郎)は叔父で、父の末弟。
生家は江戸時代末期には阿蘇屋と言う大きな小間物屋を営み、名字帯刀を許されていた。
明治36年(1903)3月高梁中学校を卒業。翌37年(1904)11月、祖母友(ゆう)の感化をうけ高梁キリスト教会で洗礼を受ける。同38年(1905)2月から同43年(1910) 3月まで高梁男子尋常小学校の代用教員となる。
退職後同43年(1910)4月、上京して東京音楽学校(現・東京芸術大学)に入学し、大正3年(1914)3月、甲種師範科卒業。留岡幸助の家庭学校に寄宿して通学した。
また少年時代の藤原義江と親交があった。卒業後帰郷し同年4月より昭和8年(1933)6月まで私立順正高等女学校、岡山県立順正高等女学校(現・岡山県立高梁高等学校)で音楽を教えた。その後元順正高等女学校長伊吹岩五郎の影響で、中津市生糸会社で教育課長を務め、女工教育を行った。
同15年(1940)高知県立高知第一高等女学校音楽科の嘱託、同23年(1948)から同25年(1950)まで高梁中学校の教諭を勤めた。
教師の傍(かたわ)ら書、絵、彫刻、詩歌などを能(よ)くし、仙人のごとく清く静かに、飄々とした人柄であった。数多くの童謡を残している。また、俳句を能くし「高梁古今詞藻」に残している。墓は高梁市頼久寺町のキリスト教墓地にある。
⇒ 小倉魚禾(すぐ上の項目)・伊吹岩五郎・留岡幸助 (参)「良寛を愛したキリスト者 小倉章蔵の生涯」「別宮(べつく)道子記」「高梁古今詞藻」
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生年不詳〜元禄15年4月15日(1702)
旗本井原池田修理家の再興に尽くした人
寛永18年(1641)備中松山藩主池田長常が33歳で死去し、嗣子がいなかったため、家名は断絶となった。この時、家名再興に尽力し、長常の弟長信を立てて、井原 1千石の旗本池田修理家を実現させたのが尾砂子である。
尾砂子については、いろいろな言い伝えがあり、長信の生母とも、乳母ともいわれている。出生は、備中松山の農家とも、町家とも言われ、また、武家であってもごく身分の軽い者の出であろうと言われている。
池田修理家では、尾砂子の死後、三回忌にあたる宝永 2年(1705)井原陣屋内に「尾砂子大明神」を建立し、松山の御崎宮より勧請(神格を得るための手続き)して祀った。これより池田修理家は、明治元年(1868)まで続いた。
同4年(1871)廃藩となり、陣屋が取り壊されたとき、現在の井原市井原新町の井森神社に移された。高梁市上谷町の威徳寺にある池田長幸(ながよし)・長常の墓と共に尾砂子の墓もある。墓碑には、「帰真 荷叟理円信女」という戒名がある。
⇒ 池田長常・池田長幸 (参)「高梁市史」
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大正4年6月8日〜平成5年5月1日(1915〜1993)
高梁市正宗町(大阪府貝塚市出身)
教育者
大阪府貝塚市生まれ。
昭和8年(1933)大阪府立岸和田中学校卒業。同年広島高等師範学校へ入学し同12年(1937)卒業。和歌山県立笠田高等女学校、同14年(1939)岡山県立高梁中学校の教諭を務めた。
後、同17年(1932)広島文理科大学史学科に入学。卒業後、海軍航空隊教授、高梁高等学校の教諭を経て、同26年(1951)35歳で上房郡の組合立竹荘(たけのしょう)(現・賀陽町)中学校長に就任。
同28年(1953)岡山県教育委員会事務局職員となり、高梁教育事務所長、学事課長、教育次長を経て同46年(1971)から同53年(1978)まで2期8年間岡山県教育長を務める。その後は岡山県明るい県民運動推進協議会長、岡山県社会福祉協議会長、岡山県私学審議会長など40余りの公職を引き受け、ボランティア活動を行った。
同60年(1985)に教育功労により山陽新聞賞、同61年(1986)に勲四等旭日小綬章、平成2年(1990)に行政部門で三木記念賞受賞。
(参)「郷土の偉人調べ:高梁市教育委員会」 「群像おかやま」
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明治19年〜昭和5年7月12日(1886〜1930)
高梁市津川町今津
教育者
上房郡今津村(現・高梁市津川町今津)の富農家小野良蔵の子。教育者で高梁日新高等学校の創設者の金岡助九郎は兄。号は竹里。
明治34年(1901)尋常小学校準教員免許状、同35年(1902)尋常小学校本科正教員免許状、大正6年(1917)小学校本科教員免許状と次々に資格を取り、高梁尋常高等小学校を初め上房郡各地の小学校の訓導(教員)、そして首席訓導(校長)として20数年間勤務した。
青少年が漢字の学習に困っているのを知り、それを援助する意味で、日本社会の実用文字を中心に和漢辞典「大正学生国語自習辞典」の編纂を志し、同4年(1915)2月1日初版を大阪の駸々堂(しんしんどう)書店から出版。その後完璧を期するため増補・改訂を行い、同8年(1919)11月10日まで28版を重ねた。
大正12年(1923)病気のため小学校を退職。兄助九郎の勧めで同15(1926)年1月30日、四年制の女子職業学校・高梁高等技芸女学校を高梁市中之町に設置。昭和5年(1930)、財団法人・高梁学園を設置し、高梁商業学校及び高梁高等技芸女学校と校名を変更し、高梁市御前(おんざき)町の自宅(金岡助九郎と同じ所 )に移し、校長として女子教育に尽くした。
しかし同年45歳で康治が死去したため、兄助九郎が校長となり後を継ぎ、高梁日新高等学校に発展させた。墓は津川町今津の幡見の上に、秋山頼造の墓と並んで建立されている。著書に『高梁案内』ほか数種ある。
⇒ 金岡助九郎・秋山頼造 (参)「高梁市史」「高梁古今詞藻」「高梁日新高等学校沿革」
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明治4年2月24日〜昭和9年9月21日(1871〜1934)
高梁市石火矢町出身
画家、俳人
本名は太一郎。愚哉は号。別号を無筆堂、活堂、石兆、梁岳、梁渓、雲水坊と称した。
高梁町石火矢町(現:高梁市)で備中松山藩士折井小平次(足軽頭・160石取)の長男。
小学校卒業後、進鴻渓の塾で学び、次いで上房中学で図画教師の清家趙九郎に洋画を学び、これに感化される。
明治19年(1886)大阪の私立専修学校で学び、大阪内外新聞社に入社、主筆天田五郎(愚庵)の知遇を得る。愚哉の号は、愚庵を慕い名付けたものである。
同22年(1889)洋画家を志して上京、渡辺文三郎に師事。次いで小山正太郎の不同學舎で学び、かたわら橋本雅邦ついて日本画も習得した。同27年(1894)陸羯南(りくかつなん)の紹介で知った正岡子規に俳句を習う。
同32年(1899)和歌山県第二中学校の教師となる。同34年(1901)大阪朝日新聞社に入社し画筆を執(と)る。同年関西美術会第一回展覧会に『水辺の暁色』ほか5点を出品、翌年大阪で開かれた第五回内国勧業博覧会には『禅房対局図』を出品し、これが代表作となる。
同37年(1904)〜同40年(1907)アメリカに遊学し、図画教育、絵画の研究を行いその間セントルイス万国博覧会を視察し、その模様を同新聞に通信した。
大正元年(1912)には岡山に帰り、天城中学校(現・天城高等学校・当時の校長は高梁出身の大塚香)、金川中学校(現・金川高等学校)などの図画教師を務める一方、岡山洋画研究会創立会員として郷土画壇の振興に尽くした。また、雑誌『キッツキ』の雑詠選や「唐辛子」の課題句選も担当した。
折井式透視図模型新案登録のほか著書に『相模百景』『二十五年』『武士道より見たる神代事蹟と武士道要義』『俳句の作り方と鑑賞栞(しおり)』などがある。
昭和9年(1934)9月21日の台風水害のとき心臓麻痺で急死。64歳。
石火矢町の旧宅は整備され「高梁市武家屋敷館」として公開されており、遺作の「だるまの図」は高梁市に所蔵されている。
(参)「高梁市史」「高梁古今詞藻」「有終」
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