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あかぎ ごろう:赤木 五郎

明治42年7月7日〜平成11年8月11日(1909〜1999)
高梁市下町出身
教育者(岡山大学学長)・医学博士、眼科医師

 昭和2年(1927)旧制高梁中学校卒業、同6年(1931)第六高等学校卒業、同10年(1935)岡山医科大学卒業。卒業後嘱託として同大眼科教室副手として勤務する。同13年(1938)青森県立病院眼科部長として赴任。同年医学博士となる。
同15年(1940)岡山市民病院眼科医長となり、併せて岡山医科大学付属臨時医学専門学校講師を嘱託される。同17年(1942) 岡山医科大学講師を嘱託される。翌年満州国立佳木斯医大教授となるが終戦により帰国。
同22年(1947)広島県立医学専門学校教授、翌年広島県立医大初代教授。同26年(1951)岡山医科大学医学部教授を経て、同29年(1954)岡山大学医学部教授に配置換えとなる。同36年(1961)岡山大学医学部付属病院長、同39年(1964)同大第五代学長。学園紛争の波にもまれ2期目途中で学長を辞任。
退官後は、同45年(1970)川崎医科大学の初代学長、同49年(1974)岡山県立短期大学々長などを歴任。平成元年(1989)メガネの専門学校・ワールド・オプチカル・カレッジ校長に就任。学園紛争の最も激しい時期に岡山大学長を務める一方、学科増設や法文学部第2部設置に尽力した。眼科の医学者としてトラコ−マ緑内障の研究に打ち込み、岡山県眼球銀行(現・岡山県アイバンク)設立に貢献。岡山大学アイバンク登録の第1号で、同39年(1964)親交のあった故三木行治岡山県知事の角膜を自らの手で二人の若い女性に移植した。
同46年(1971)には岡山対ガン協会(現・日本対ガン協会岡山県支部)会長に就任。20年間にわたりガン検診体制の確立やガン知識の普及を行った。
同55年(1980)勲二等瑞宝章、同56年(1981)三木記念賞、同57年(1982)山陽新聞賞、平成元年(1989)日本眼科学会賞を受賞。
「病気を治すより病人を治せ」が口癖であった。岡山県社会福祉協議会々長の他30ほどの役職についていた。平成11年(1999)8月岡山市円山(まるやま)の自宅で没、90歳。
  著書『日本眼科全書』(共著)、「眼鏡学 初学者のための手引き」、エッセイに『老後の初心』『老人のたわごと』『老驥(ろうき)のひとりごと』がある。
(参)「老後の初心」「老驥(ろうき)のひとりごと」
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あかぎ しんな:赤木 晋和

 
明和6年〜天保14年12月26日(1769〜1843 )
高梁市下町
江戸時代後期の俳人
               

名は、平祐(へいすけ)。はじめ鶴伴、のち一日庵晋和と号した。家は代々松山城下(現・高梁市)下町で、染色上絵を営み、屋号は花屋。若い時から同所の山岡嵐岳に俳句を学び、成人して大坂の八日(ようか)庵萬和(あんまんな)の門に入った。書が巧みで、また俳画にも優れていた。萬和は晋和の俳才を高く評価し、寛政9年(1797)11月、榎(えのき)づくりの古い文台と一句「冬ながら 梅にさす日の あゆみかな」を与えるとともに春里館の一号と晋和の俳名を与えた。これから晋和の名が四方に広まり門人も多く集まった。
 松山藩主安藤信友が俳諧を能(よ)くし領民の間に広まっていたが、晋和の力により一層盛んになりその功績は非常に大きいものがあった。晋和には芹和(きんな)、春里館吐雲(とうん)(のち笠原樵石)の二人の子があり、共に俳人であった。門人に田邊(たなべ)庵羽霓(あんうげい)、枕流(ちんりゅう)舎千和(しゃせんな)(西村千和)、寒山居桑古(そうこ)(岡本桑古)、永井(此君亭)有斐(ゆうひ)など特に有名である。著書に『俳句ちり袋』『独俳諧百巻』『紀行』などがある。岡山県立高梁高等学校に「梅花」の書画がある。
墓は薬師院の山門下にある六地蔵仏の左に「一日庵晋和翁」の苔むした石碑が北向きに建立されている。天保14年没。75歳。
 辞世の句 「水の泡 もてあそばれて 消えにけり」
 ほかに  「年明けて 聞くや故郷の 初鴉」
      「芭蕉菜の 行末廣き 流れかな」 
      「足折れし 松蟲も啼 宵の月」
◎「葉桜塚」……龍徳院(高梁市寺町)の本堂に向かって右前西向きに晋和の建立した葉桜塚がある。
塚の裏面に
  芭蕉翁の真蹟に
            (芭蕉…松尾芭蕉1644〜1694 真蹟…真筆)
  葉桜にとある五文字ばかりの詠草
      (詠草…歌の下書き・草稿)
  を拾い永嵐岳の秘蔵の一軸となして 
   (永嵐岳〜山岡嵐岳) 
  ひめもちける是を当寺におさめ
       (ひめもちける…秘蔵して持っている)
  此碣(けつ)の神霊とし浪花(なにわ)八千 
            (碣…丸い石に彫刻したもの 浪花…大坂)
     老師の毫(ごう)乞ひて
              (八千老師…俳聖八日庵萬和)(毫…揮毫…筆で書)    葉桜塚と号(なず)く
                     晋和謹書
  文化三丙寅   桜月(さくらづき)造立      (文化三丙寅…1806年) (桜月…陰暦三月)
   ・塚の左後の石柱に
  祖翁二百遠忌ニ当リ左ノ建立セシ此葉桜塚ヲ此處ニ
  移シテ追善ノ意ヲ表ス 明治二六年六月 落桜吟社
   晋和 霍人 光丸 南枝 貞吏 梅方 竹人
   嵐岳 茅雄 吐翠 其郷 霍(かく)翁(おう) 李暁 陽舟
◎龍徳院には
  「葉桜や とほしぐれても 恙(つつが)なし」
            七十四叟 晋和謹書
 この俳句の軸と芭蕉の真蹟「葉桜や」の軸とが、寺宝として秘蔵されている。
安藤信友田辺杏林西村千和・笠原樵石岡本桑古永井有斐山岡嵐岳 (参)「高梁市史」「上房郡誌」「高梁古今詞藻」「高梁の名碑」「昔夢一斑」「備作人名大辞典」「有終」
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あかぎ そへい:赤木 蘇平

  
天保12年4月9日〜明治38年3月22日(1841〜1905)
高梁市中間町
医師
  延享元年(1744)備中松山藩主板倉勝澄の国替に従い伊勢(現・三重県)亀山より来たと伝えられている。赤木嘉右衛門の三男。少年時代に倉敷の医師・妹尾祐玄(ゆうげん)(遊玄)に医術を学び、大坂に出て緒方洪庵の後を継いだ緒方拙斎の時代の適塾に入門し医術の研鑽を積む。この時、腸チフスを患い、奇跡的に一命を取り止めたため、良材という名を蘇平と改めた。
明治元年(1868)23歳の時高梁に帰り、中間町で開業。同12年(1879)2月3日の山陽新報に「西洋医師赤木蘇平氏は、経験練磨の国手にして昨今の医員を集会し、毎月医術研究会を開かる由、美事-----」と報じられており、地方に医術を広めた。また、自由民権運動の政治結社である開口社を柴原宗助等と設立し、これが後に高梁キリスト教会に発展した。
同15年(1882)高梁キリスト教会で受洗。社会福祉事業の開拓者・留岡幸助は、蘇平の家に住み込み薬剤調合の手伝いをしながら医の道の基本的なことを学んでいたが、それ以上に蘇平の人格に感銘しキリスト教の洗礼を受け、福祉事業に対する影響を受けた。墓は高梁市頼久寺町のキリスト教墓地にある。
⇒ 板倉勝澄柴原宗助留岡幸助
(参)「一路白頭ニ至ル」「赤木家の歴史」「明治前期高梁医療近代史」
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あかぎ ただなが:赤木 忠長 (1)

生没年不詳
高梁市宇治町滝谷城主
鎌倉時代前期(1200年代前半)の武将           

備中松山城主秋庭重信と同じく、承久の乱(承久3年=1221) に鎌倉幕府方につき、北條氏より、その功績により信濃国(現・長野県)吉田郷田(た)肆段(しだん)の、田(た)肆段(しだん)小池郷の在家(ざいけ)二宇(にう)の津から、備中国川上郡穴田郷(現・高梁市宇治町)の地頭として赴任。中野村本郷(現・高梁市宇治町本郷)に屋敷を構え、滝谷城を築いて本拠とした。
当時の支配は はっきりとしないが、中野本郷・宇治・丸山・中野大野呂・中野小野呂・塩田の旧六カ村に、飯部の遠原(現・高梁市宇治町遠原)を加えた地域。江戸時代末の文久 3年(1863)の『備中村鑑』によると、約3,320 石の石高(こくだか)となる。 ⇒ 秋庭重信 
(参)「高梁市史」
◎系図 忠長― (約300年のち) 忠国―忠房―忠直
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あかぎ ただくに:赤木 忠国 (2)

生没年不詳(1500年代後期)
高梁市宇治町滝谷城主
室町時代末期・安土・桃山時代の武将

天文(てんぶん)6年(1537)高梁市宇治町滝谷城主となる。初め尼子(あまこ)経久(つねひさし)に属していたが、同 9年(1540)周防(すおう)(現・山口県)の守護職大内義隆の命を受け、毛利(もうり)元就(もとなり)の居城吉田城(現・広島県吉田町)を包囲した尼子晴久の後方陣地を成羽の鶴首城主・三村家親等と脅かし、その糧道を断ち、尼子勢を撤退に追い込んだ。この功績により大内義隆から感状と太刀を与えられた。以後毛利氏の陣営に加わり天正 3年(1575)備中兵乱の松山城合戦には、同じ宇治郷の笹尾城を攻めた。
その後も子忠房(蔵人)と共に毛利輝元の幕下にあって各地に転戦し、武名をとどろかせた。 ⇒ 三村家親・赤木忠房(すぐ下の項目) (参)「高梁市史」
◎系図 忠長…(約300年のち) …忠国…忠房…忠直
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あかぎ ただふさ:赤木 忠房(3)

川上郡穴田郷丸山城(現・高梁市宇治町穴田)の城主。通称は蔵人(くらんど)、諱は忠房。
天正2年(1574)備中松山城主三村元親が織田信長と手を結び毛利に反旗を翻(ひるがえ)した時、義父の成羽城主三村親成と共に、笠岡に陣を敷いた毛利輝元・小早川隆景のもとに出向き、備中諸城攻撃の案内をした。以後毛利氏の陣営に加わり同3年(1575)備中兵乱の松山城合戦には、同じ宇治郷の笹尾城を攻めた。
その後も父忠国と共に毛利輝元の幕下にあって各地に転戦し、武名をとどろかせた。同5年(1577)織田信長の家臣羽柴秀吉の旗下で、宇喜多勢の守る播州佐用城を攻め抜群の働きをしたため、織田信長より感状を賜った。
同10年(1582)5月の備中高松城の水攻めでは毛利勢に加わり、はじめ生石郷(現・岡山市小山付近)の妙見山に陣取って羽柴勢に対した。同13年(1585)には秀吉の四国攻めに呼応して伊予に攻め入った毛利勢に加わり高尾城(現・新居浜市)城主金子備後守元宅を討ち取り、殊勲一等として毛利輝元、小早川隆景より感状を賜る。以後、毛利麾下(きか)の有数の武将として重んぜられ、同末年(1591)頃には、川上郡内で知行1、440 石余を有していた。
関ヶ原の役(1600)後、毛利氏を離れ、丸山城を捨てて塩田村(現・成羽町)に帰農した。 ⇒ 三村元親赤木忠国 (参)「高梁市史」「備作人名大辞典」
◎系図 忠長…(約300年のち) ―忠国―忠房―忠直
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あかぎ ただなお:赤木 忠直 C

生没年不詳(1500年代後半〜江戸初期) 
   高梁市宇治町穴田の人
安土・桃山時代の備中国の武将

安土・桃山時代(1573-1603)の備中国の武将。通称与四郎。丹後守。
川上郡穴田郷丸山城(現・高梁市宇治町穴田)の城主赤木蔵人忠房の嫡子。
天正10年(1582)羽柴秀吉による備中高松城水攻めの時、小早川隆景の求めに応じて援軍として高松城の城兵を助けて籠城、秀吉の陣に夜襲を掛けた。その功により 5月 5日陣中で小早川隆景から感状を添えて知行 100貫(約1000石)の恩賞地を賜り、丸山城(現・高梁市宇治町)を築く。
天正末年ごろ、川上郡内の知行418 石余を有していた。関ヶ原の役後、赤木一族は、毛利に従い周防・長門に移る者、土地に止まる者夫々(それぞれ)思いのままであった。忠直は父忠房とともに塩田村(現・成羽町)に帰農したが、慶長19年(1614)大坂の陣が起きると、中島昌行らと共に大坂に赴き、徳川勢に加勢した。以後の消息は不詳。
赤木家(高梁市宇治町)に伝わり現在岡山県立博物館の所蔵となっている「赤韋威(あかがわおどし)大鎧(おおよろい)」は平安時代末期のもので、平成11年(1999)国宝となった。 ⇒ 赤木忠房   (参)「高梁市史」
◎系図 忠長…(約300年のち) 忠国―忠房―忠直
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あかばね えいぞう:赤羽 永蔵

生没年不詳
高梁市柿木町(現・大杉病院)
幕末の備中松山藩士、物頭格、100 石取
 大坪流馬術・直心流剣術の師範家。屋敷は、昭和4年(1929)5月10日高梁町と松山村が合併し、新たに高梁町が誕生するまで高梁町役場となっていた。
(参)「昔夢一斑」「高梁市史」
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あきば しげのぶ:秋庭 重信 (1) 

生没年不詳
鎌倉時代前期(1200年前半)の武将、上房郡有漢郷(現・有漢町)の地頭
備中松山城主、前期秋庭氏 初代
 通称三郎。相模国(現・神奈川県)の三浦氏の一族。
承久の乱(1221)の時、滝谷城主(高梁市宇治町)赤木忠長と同じく鎌倉方の北條義時に付き、その功により有漢郷(現・有漢町)の地頭に補せられ、有漢郷の貞守に台ガ鼻城を築いて居館とし、氏神鈴岳(すずおか)神社を勧請したという。ここを18年間居館としたが、延応 2年(=仁治元:1240)、備中路における最大の軍事拠点である備中松山の大松山に松山城(砦(とりで))を築き、これを本拠地とした。普請奉行は有漢新左衛門・横見三郎兵衛(又は三郎右衛門)、大工頭は上森新七といわれている。この時より、高梁の歴史の誕生となった。 (参)「高梁市史」「備作人名大辞典」
◎ 系図
二代 秋庭 又四郎信村 …宝治 元年(1247)三浦泰村追討の合戦に戦功があったと伝えられている。
三代 〃  平六 重連
四代 〃  小三郎重継
五代 〃  三郎 重知 (元弘=1331)
*ここまでを前期秋庭氏という。
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あきば しげあき:秋庭 重明 (2)

  生年不詳〜至徳(しとく)元年(=元中元)5月4日(?〜1384)
上房郡有漢郷(現・有漢町)の人
南北朝時代(1333〜1392)の備中国の武将
後期秋庭氏 初代
 通称三郎。肥後守。秋庭重信の後裔。
備中松山城主・備中守護高(こうの)越後守師秀(もろひで)の執事として師秀を補佐する守護代を務めていたが、正平17年(=貞治元:1362)に山陰から南朝方の山名伊豆守時氏が備中に進出してくるとこれに通じ山名旗下(きか)の楢崎、多自目備中守を松山城に引き入れ、師秀を備前徳倉城(現・御津町)へ追放した。これにより重明が備中松山城主となる。
これより先の正平7年(=文(ぶん)和(わ)元:1352)有漢郷(現・有漢町)に浄池山真言宗宝妙寺を造営し、その開基となる(元禄 9年:1696…住職増嵩の書き上げた記録)。高(こうの)師秀(もろひで)の守護代を務めていた正平12年(=延文(えんぶん) 2:1357)には、吉備津神社(現・岡山市)の吉備津宮南随神門(国重要文化財)棟上げに神領を掌る社務代として名を連ねている(吉備津神社南随神門棟札)。墓は有漢町茶堂の医王堂境内にあり、その古式の五輪塔地輪の部分に法号「成祐大禅定門」とある。
◎後期秋庭氏(五代)系図
初代 三郎重明
二代 八郎頼重
三代 平之充頼次
四代 備中守元明
五代 備中守元重 (参)「高梁市史」
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あきば よりしげ:秋庭 頼重(3)

生年不詳〜応永21年 8月14日(?〜1414)
南北朝後期〜室町時代前期(1390〜1414)頃の備中松山城主
備中国の武将。後期秋庭氏 第二代
 通称三郎。備中守。父重明と同じく、墓は有漢町茶堂の医王堂境内にあり、法号「覚成大禅定門」。 (参)「高梁市史」
◎後期秋庭氏(五代)系図
初代 三郎重明
二代 八郎頼重
三代 平之充頼次
四代 備中守元明
五代 備中守元重
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あきば よりつぐ:秋庭 頼次(4)

  生年不詳〜正長元年(?〜1428)
室町時代前期(1392〜1428)
備中国の武将。後期秋庭氏 第三代
 通称平之充。頼重の子。
有漢郷(現・有漢町)の浄池山真言宗宝妙寺に「康応(こうおう) 元年(注1)重明後孫再興於二王(注2)畢(へい)」とあり、仁王門を再興したことが伺える。墓は有漢町茶堂の医王堂境内にあり、祖父重明、父頼重の墓と並んで建てられている。正長元年(1428) の五輪石塔が二基あり、法号はどちらか判明できない。
(元禄9年:1696…住職増嵩(ぞうこう)の書き上げた記録) (参)「高梁市史」
◎ 後期秋庭氏(五代)系図
  初代 三郎重明
二代 八郎頼重
三代 平之充頼次
四代 備中守元明
五代 備中守元重
注1:康応元年(北朝)…・元中(げんちゅう)6(南朝)(1389)  注2:二王…仁王
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あきば もとあき:秋庭 元明(5)

生年不詳〜文明7年4月28日(1475)
上房郡有漢町の人
備中松山城主、室町時代の備中国の武将。
後期秋庭氏 第四代
 正長元年(1428)父頼次の死去により備中松山城主となる。修理亮・備中守。
嘉吉(かきつ)元年(1441)赤松満祐(みつすけ)(注1)が将軍足利義教(あしかがよしのり)を殺害(嘉吉(かきつ)の乱)したことに因り8月幕府討伐軍に加わり細川勝元に従い播州蟹坂(かにさか)で戦い、次いで白旗城(現・兵庫県上郡町)で赤松満祐と戦い戦功を上げた。文安 2年(1445)細川勝元が管領になると、その部下として重用された。この頃 蔭凉軒(いんりょうけん)(注2)の警護の任に当たったりしており、秋庭氏は殆(ほとん)ど京に居住していたようである。
宝徳元年(1449) 9月、将軍足利義政が天龍寺へ参詣したとき供奉した。分(ぶん)正(しょう)元年(1466)頃は備中守護代を務めていた。応仁の乱(注3)(応仁元年=1467)が起きると、東軍細川勝元に従い西軍山名宗全の軍と戦い、特に応仁元年(1467)9月には、浦上則宗(注4)(備前三石城主:現・岡山県備前市三石)の援助を受け、京都の東岩倉山に三千余騎で陣を敷き、攻め寄せる山名勢三万余騎の軍勢を打ち破った。この時、摂津の国の守護代にも任命された。
引退後、有漢郷(現・有漢町)へ帰り同所土居(どい)に文明 7年(1475)長松院を建立し開基(かいき)した(現在は廃寺)。位牌は、有漢町有漢の禅宗保(はう)寧寺(ねいじ)にある。法号「霊宝徳鐘居士」。同年4月28没。 (参)「高梁市史」
◎ 後期秋庭氏(五代)系図
初代 三郎重明
二代 八郎頼重
  三代 平之充頼次
四代 備中守元明
五代 備中守元重

注1:赤松 満祐(あかまつ みつすけ)
応安6年〜嘉吉(かきつ)元年(=文中2)9月10日(1373〜1441)
    室町時代の武将、赤松義則の長男。播磨・備前・美作国の守護。応永34年(1427)、父赤松義則の死去により家督を継ぐ。横柄な振る舞いもあって、将軍足利義持(四代)から好感を持たれていなかったため、播磨国(現・兵庫県)を取り上げられた。これに不満を持ち、京都の自邸に放火し播磨へ下った。その後将軍義持から赦免され再び侍所(さむらいどころ)頭人(とうじん)となり播磨を再び与えられた。永享9年(1437)六代将軍足利義教が満祐の勢力をそぐ為播磨・美作の守護職を罷免するなどの噂が流れ、強圧政治に反感を持ち嘉吉元年(1441)6月24日、嫡男赤松教康らと謀り、義教をはじめ諸大名・公家を自邸に招いて祝宴を催し、これに乗じて義教を暗殺(嘉吉の乱)。播磨の城山城(現・たつの市)に逃げるが、山名持豊・細川持當らの追討軍により9月10日自害した。 (参)「備作人名大辞典」「日本史用語集」
注2:蔭凉軒(いんりょうけん)…京都相国寺鹿苑院内の蔭凉軒
蔭凉軒日録は1435〜1493年ごろの蔭凉軒主の公用日記で政治・経済に関する記事が多い。
注3:応仁の乱…(応仁元年=1467〜1477)
足利将軍家の相続問題をきっかけに、東軍細川勝元と西軍山名宗全とがそれぞれ諸大名を引き連れ京都を中心に対抗した大乱。京都は戦乱の巷となり、以後群雄割拠の戦国時代となる。
注4:浦上 則宗(うらかみ のりむね)
   永享元年〜文亀2年6月11日(1429〜1502)
   室町時代〜戦国時代前期の備前国の武将
   備前市三石の三石城主
 嘉吉の乱(嘉吉元年=1441)を起こし幕府軍に破れた主家赤松氏の再興に尽力し、赤松政則をもって主家の再興を図る。応仁の乱の後赤松政則が侍所の所司となると、所司代となり実務を司った。また政則が山城国の守護になると守護代とった。(参)「備作人名大辞典」
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あきば もとしげ:秋庭 元重 (6)

生年不詳〜永正6年(?〜1509 )
備中松山城主
戦国時代の備中国の武将、後期秋庭氏第五代
 秋庭元明の子(孫とも言う)。通称孫太郎。備中守。
室町幕府の管領細川政元の側近にあって重用された。文明5年(1473)に父元明の後を継ぎ、細川管領家の奏者番(取次役)となり、しばしば他所への使者を務めた。同14年(1482)大檀越として有漢郷(現・有漢町)の氏神鈴岳(すずおか)神社の再建を行った(棟札)。
長享元年(1487)将軍足利義尚が起こした近江(現・滋賀県)の佐々木高頼討伐に従軍し、明応元年(1492)にも将軍足利義材(よしき)(義稙)の佐々木高頼討伐に従軍した。
延徳3年〜永正4年(1491〜1507)の間、京都・東寺領の新見荘の所務名代(年貢徴収)を務めた(東寺百合文書)。永正4年(1507)将軍が防州より帰京の時は、二条の御所衛護の任に当たった。同年に細川政元が没したが、その後も京都に居住し、永正6年(1509)に没。一説には年齢90歳を超えた天文12年(1543)頃に白い鶴のように痩(や)せた姿でかわいい孫や曾孫のために蜜柑(みかん)を探し歩いたという(鹿苑(ろくおん)日録(注1))説や、永正 2年(1505)に没したとも言いわれている(松山御領主歴代記)。 (参)「高梁市史」「備作人名大辞典」
注1…鹿苑(ろくおん)日録…京都相国寺内に設けられた足利義満の修禅道場を鹿苑院と言い、この歴代僧侶の日記(1487〜1651) を集めたもの。
◎ 後期秋庭氏(五代)系図
初代 三郎重明
二代 八郎頼重
三代 平之充頼次
四代 備中守元明
五代 備中守元重
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あきば ふうざん:秋庭 楓山

嘉永4年〜昭和6年6月5日(1851〜1931)
新聞記者
 名は濱太郎。元の姓は田藤。号は楓山。
初め莊田霜溪に学ぶ。後英語を修め、中学校の教員となる。山陽新報社に入り、後上京して報知新聞社に入る。そして東京市養育院、大日本衛生会等に勤める。著書に『那翁外傳』『閨秀美談』がある。高梁古今詞藻に詩を残している。昭和6年没。81歳。 ⇒莊田霜溪 (参)「高梁古今詞藻」「備作人名大辞典」
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あきやま らいぞう:秋山 頼造

天保6年〜明治19年 9月24日(1835〜1886)
高梁市津川町今津幡見の人
地方政治家(明治初期の戸長)
 上房郡今津村(現・高梁市津川町今津)に生まれる。幼少の頃備中松山藩の漢学者・進鴻渓(しんこうけい)に学ぶ。
明治6年(1873)上房郡今津・八川・川面の三ヶ村の戸長となり、公務に非常にまじめで、殖産興業に尽力した。私財を投じて道路を改修し、橋梁を架設するなど公益に尽くし、地方官より度々(たびたび)賞を受け名戸長と言われた。中でも新見往徠の有漢川は、飛び石踏石で渡っており非常に不便であった為、奔走して資金を集め又役所へ陳情し、更に私財を投じて同11年(1878)11月今津橋(同33年(1900)に幡見橋に改名・全長46,8m )を完成させた。この功績を顕彰するため碑を建立した。同19年(1886)9月24日の大洪水で高梁川、有漢川などが氾濫した時、津川町今津幡見の住居兼役場で重要書類を保護中に建物と共に流され溺死した。51歳。
現在の木野山郵便局は住居兼役場の跡地。その裏の登り道の左上に小野康治(やすじ)(明治大正の教育者)の墓と並んで頼造の墓があるが、それには、没年月日は旧暦8月28日(今の10月5日)と記してある。 ⇒ 進 鴻渓小野康治 (参)「高梁市史」「上房郡誌」「備作人名大辞典」
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あさがわ かめたろう:麻川 龜太郎 

      慶応2年1月23日〜昭和7年8月18日(1866〜1932)
高梁市鉄砲町生れ
漢学者、教育者
 一名義文。号は金波。
有終館で漢学を学ぶ。和歌を岡直盧に、俳句を板倉鼎雨(ていう)(信古)に学ぶ。
明治26年(1893)11月上房郡書記となり、翌年 4月上房川上郡書記、同30年(1897)10月には高梁中学校書記となる。大正2年(1913)8月助教諭心得兼任となり、漢文科を教授する。同14年(1925)教諭心得となり、昭和6年(1931)より高梁中学校の有終図書館司書となる。
詩想に富み、俳句を能くし、短歌が巧みであった。高梁キリスト教会に所属し、日曜学校の教師として、或いは執事として教会の柱石となり、信徒の模範となった。また高梁中学校の舎監として、寄宿舎の充実にも尽力した。高梁中学校に学んだ作家の石川達三の『使徒行伝』は龜太郎を主人公として書いたものである。岡山県立高梁高等学校に書、短冊がある。 ⇒ 石川達三板倉信古 (参)「有終」「高梁古今詞藻」
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あしだ きみのり:芦田 君徳

享保7年〜寛政11年 (1722〜1799)
高梁市川端丁
備中松山藩士、有終館の初代学頭

              奉行役、近習頭、足軽頭を経て江戸藩邸用人格、晩年藩の学問所・有終館の初代学頭。
名は恒、字は君徳、通称は利兵衛、号は北溟(ほくめい)又は黙翁。伊勢国亀山(現・三重県亀山市)に生まれる。
延享元年(1744)、板倉家第七代板倉勝澄(初代備中松山藩主)の時、藩が伊勢国亀山から備中松山に国替になった時、君徳(23歳)も共に松山に移った。藩は翌 2年(1745)将軍家茂(いえもち)より、上房・川上・賀陽・浅口四郡の内62ケ村で石高五万石の朱印(注1)を受けた。翌 3年(1746)、早くも御城坂南側(現・内山下・御殿坂寄りの高梁日新高等学校敷地内 )に学問所が創設された。寛政年間中(1789〜1801) 板倉家第十代板倉勝政(四代備中松山藩主)は野村竹軒(必明…君徳の娘婿)の議を採用し、学問所の規模を改め藩学とし、孔子廟を設け君徳に学頭を命じた。
そして藩主は藩校名を君徳に選ばせ、君徳は「有終」及び「日知」の二案を提言、藩主板倉勝政は「有終」を採用し、これが有終館の始まりである。学風は、同じ儒学の中でも洛?(らくびん)といい、宗の程子朱子の学風である。性格は謹厳・寡黙で精励好学、何よりも学問を好んだ。寛政11年(1799)没78歳。墓は龍徳院にある。幕末の當主三左衛門(150石)は藩の土着政策により野山村(現・賀陽町大和西)へ移住。 ⇒ 板倉勝澄板倉勝政野村竹軒 (参)「高梁市史」「高梁古今詞藻」「高梁二十五賢祭~畧傳」
注1:朱印(しゅいん)…江戸時代に将軍が大名に与えた土 地の領主権を記(しる)した承認書。10万石
〜 1万石の大名は「朱印状」で、それ以上の大名は「判物(花押)」。将軍の代替わり、大名の国替、藩主の代替わりの時に与えられた。藩としても最も重要な書類であったので、松山藩では御根小屋(藩の政務を執っていた所。高梁市内山下)の正面玄関に置いてあり、広敷番の者が昼夜交替で厳重に警戒にあたっていた。(参)「高梁市史」 
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あだち としつね:足立 利庸

嘉永 6年〜没年不詳(1853〜?)
高梁市中之丁(西側北より2軒目)
備中松山藩士、教師
 名は利庸。字廉夫。幼名は忠三、又は富太郎。号は梅荘(ばいそう)、芳里(ほうり)、喘(せん)翁(おう)。
父は備中松山藩士、取次役・70石取。藩校有終館で学び、鎌田玄渓、川田甕江に師事した。東京師範学校を卒業の後、岡山・兵庫県の初等教育に40年余り携わる。老後は兵庫県の須磨で過ごす。昭和10年(1935)、83歳のときの詩が高梁高等学校に所蔵されている。また高梁古今詞藻に詩を残している。
 明治2年(1869)9月板倉勝弼(かつすけ)が、2万石で備中松山藩板倉家名相続が許され、11月 2日藩名も高梁藩と改められ、勝弼が高梁藩知事となる。これより地名も「高梁」と言われる様になった。勝弼が高梁にいた間、山田方谷は高梁市津川町の竜徳寺で、大学三網領や孟子浩然気章を講じた。この行に、利庸は常に長瀬(高梁市中井町方谷)より山田方谷に従っていた。
 山田準(済斎)の述懐によると、「高梁小学校に明治 6・7年(1873〜74)入学、当時は校長と言う職名は無く、首席教員として校長の仕事をしておられた吉田寛治(藍関)先生………などが思い出される。訓導と言う名称も最初はなかったもので、同10年(1877)前後のことであろう、旧藩士の足立利庸氏が東京で新しい学問を学んで帰り、ハイカラな靴で、その新しい靴がキュッキュッと鳴るので、随分偉(えら)そうに思ったが、これが訓導さんだと紹介されたのを覚えている。この足立先生は高梁だけの訓導だけでなく、郡内の小学校を巡回されたもので、巡回訓導とでも、郡訓導とでもいうものであったのであろう。」巡回訓導は今の指導主事に当たるものであろう。
 また奥忠彦も「足立先生は明治10年(1877)頃、東京師範学校を卒業して郷里に帰り、初めて小学校の訓導になられた。新式の教育を受けて帰ってきた人としてはこの足立先生が初めてで、皆が訓導さん訓導さんといって非常に尊敬を払っていた。当時としては随分スマ−トでハイカラな先生であった。」と追憶している。この様に利庸は新しい教育を受け、高梁地方で若輩ながら非常に尊敬され重要な役割を果たしていた。墓は、高梁市寺町の寿覚院にある。
鎌田玄渓川田甕江板倉勝弼吉田寛治(藍関)山田方谷山田準(済斎)奥忠彦
(参)「高梁市史」「高梁古今詞藻」「有終」
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あまの ゆうほう:天野 遊峰

文政3年〜明治32年(1820〜1899)
高梁市(あいのまち)
幕末の備中松山藩士・宗教家

 高梁市56(西)。通称・文五右衛門又は五郎、一平。号は金毘羅へ参籠した頃より遊峰または遊山。高野氏に生まれ、のち天野家を継いだ。母は内山下の吉田能芳(のうあん)の妹。妻は川端町の芦田三左衛門(芦田君徳の子)の娘
。  幕末の国変の時(1868)京都・江戸で潜行中は天野屋文吉と仮名して情報収集に奔走し活躍した。元来宗教が好きで、讃岐(さぬき)(現・香川県)の金比羅神社の信仰が厚かったため、藩主板倉勝静父子が罪人として安中藩(現・群馬県)へ禁固された為、藩士の誰もが暗い気分になった時、最早(もはや)人力ではどうしようも無く神力に依(よ)る外はないと、讃岐の金比羅神社へ参詣し、毎日幾度か水垢離(みずごり)の荒行を行い祈願した。多くの人々から只者では無いと神秘の目を持ってみられるようになった。明治 6年(1873)暮れに高梁へ帰ってきた時、近在の人々が雲霞(うんか)のように集まって、「拝ましてくれ」「自分の身体に触って貰いたい」と願った。あまりにも多くの人だったので、遊峰は甲賀丁と西両側へひれ伏している人々の真ん中を、杖を持って人々の身体に触りながら歩いた。このときの様子を、山田準(済斎(せいさい))は、「此の光景は、私が幼児の記憶としていまだにまざまざと目に映ゆる」と高梁先賢祭二十五祭神傳略に記している「注1」。
この頃、松連寺(現・高梁市)にある金比羅宮が大流行し、参詣者が切れなかった。遊峰が水垢離(みずごり)を取っている額が松連寺にある。同10年(1877)ごろ崇敬講(すうけいこう)という組織ができ、高梁にも講員が百数十人いた。別に神威組があり、金比羅詣は益々盛んになったが、遊峰にはこれを斡旋するだけの力があった。当時、講社の人には「皇朝盛運、天下泰平、四民各其處を得せしめ玉(たま)へ、天野遊峰諸共懇願し奉る。」と祈願の文を唱えさせることになっていた。同32年(1899)讃岐で没。子は類治郎「注2」。孫の栄は大阪にいた。  ⇒ 吉田能芳芦田君徳 (参)「高梁二十五賢祭~畧傳」

註1:山田準(済斎(せいさい)---高梁市甲賀町の北東の角にあった木村豊の三男。山田方谷の養子・耕蔵の養子となる。幼児のこの頃は、甲賀町に居住していたので、この光景を見た。⇒山田準
註2:天野 類治郎(あまの るいじろう)
   嘉永元年〜昭和 2年(1848〜1927)
    天野遊峰の子。父遊峰が金比羅に参籠していた頃は、高梁に居て、元藩主の板倉勝静や城下の様子を逐一報告していた。のち讃岐金比羅宮(現・香川県琴平町)に長く勤めた。堀秀成に国漢文を学び、仏(フランス)学も学んだ。(参)「高梁古今詞藻」
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あんどう しげひろ:安藤 重博(1)

寛永17年〜元禄11年8月9日(1640〜1698)
備中松山藩主
初めの名は重行。上野(こうすけ)(現・群馬県)高崎城主・安藤重之(元和9年〜寛永18年:1623〜41)の嫡男として生まれる。幼名は主税(ちから)。初名は重次、のちに重治、重孝また重博と改めた。
慶安4年(1651)はじめて第四代将軍徳川家綱に謁見(えっけん)する。承応3年(1654)12月従五位下対馬守に叙任される。明暦3年(1657)11月高崎藩三代藩主として祖父安藤重長(慶長5年〜明暦3年:1600〜57)の遺領を継ぎ、6万石を領す。叔父安藤重好(のち重広)に5千石、安藤重元の養子重常(叔父)に1千6百石を与える。将軍家綱に祖父重長の遺物来国光の刀と、趙昌筆の薑(しょうが)の画を献上する。万治2年(1659)初めて所領の高崎へ赴く。
寛文3年(1663)将軍家綱の日光参詣に供奉する。翌4年(1664)2月奏者番(幕府の取次役)となる(〜延宝4年:1676まで)。
元禄8年(1695)5月1日、備中松山藩(現・高梁市)に国替となる。実際に備中松山へ着任したのは8月初旬で、幕府からは使番井上太左衛門正清、書院番菅沼藤十郎定広が目付として立ち会い、水谷(みずのや)氏の改易により在番となった浅野氏(播州赤穂浅野内匠頭長矩)から城地の引き渡しを受けた。 5千石の加恩があり、上房・川上・賀陽・下道・哲多・阿賀・浅口の 7郡の内で、6万5千石を領した(寛政重修諸家譜)。
同10年(1697)幕府の命により、備中足守(現・岡山市)藩主木下氏と共に国絵図の作成に取り掛かる。過酷な元禄検地での拝領高であったため、前領主水谷(みずのや)氏時代と同じ年貢率では、知行地が亡所になるということで、藩財政に苦心した。死後、重博が開基の品川東海寺の定恵院に葬られた。備中松山藩主の在任期間はわすか3年。 (参)「高梁市史」「高梁市文化交流館資料」 「岡山県人名辭書」
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あんどう のぶとも:安藤 信友(2)

寛文11年〜享保17年(1671〜1732 )
備中松山藩主
  初代備中松山藩主安藤重博の長男として生まれる。初めの名は重行。
貞享(じょうきょう)2年(1685)12月従五位下(じゅごいのげ)長門守に叙任される。父重博の死去に伴い元禄11年(1698)10月3日家督を相続。父重博の遺物備前光近の刀と李龍民の画幅を将軍綱吉に献上し、綱吉室鷹司氏に二条政嗣筆の古今集、綱吉の母桂昌院に冷泉為秀筆の伊勢物語を贈る。11月江戸城雁(かり)の間(ま)に列し、代々この席となる。同14年(1701)、父重博が手掛けていた国絵図を引継ぎ完成させる(この年 赤穂事件が起きる)。同16年(1703)松山銀札を発行。
宝永元年(1704)10月奏者番となり、翌2年(1705)初めて備中松山へ赴く。同6年(1709)11月13日右京進と改め、寺社奉行を兼任する。正徳元年(=宝永8年:1711)2月美濃国(現・岐阜県)加納へ国替となる(寛政重修諸家譜)。元禄8年(1695)から正徳元年(1711)まで17年間が備中松山城主としての安藤氏の時代であった。享保7年(1722)老中となり、侍従に進む。第八代将軍吉宗の嫡男家重の補佐役を命じられた。信友は風雅の心が深く、冠里(かんり)と号した俳人としても良く知られ、俳諧系譜にも「蕉門(しょうもん)
(注1)十哲」の筆頭榎本(えのもと)其角(きかく)(宝井)門下の筆頭に挙げられている。このため備中松山の領民の間にも、上に習って自然に俳諧が流行した。享和より文化・文政のころ(1801〜1830)赤木(一日庵)晋和が俳諧を広めたが、これは信友の影響が大きい。 ⇒ 安藤重博赤木晋和 (参)「高梁市史」「高梁市文化交流館資料」 「昔夢一斑」「岡山縣人名辭書」
注1:蕉門(しょうもん)…松尾芭蕉の門下生
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