松山藩の新撰組隊士

 江戸時代末期の文久3年(1863)に新撰組が京都の治安を守るために京都守護職の 指揮下に近藤勇・土方歳三らにより尊皇攘夷派制圧のため組織された。

 備中松山藩より新撰組に入隊した者の内、谷三十郎、万太郎、昌武の谷三兄弟は 新撰組が結成されてまもなく入隊し、華々しい活躍をしたことは本文に記載している が、谷三兄弟以外にも戊辰戦争の終わりに入隊した者がいる。

 慶応4年(1868)1月3日鳥羽伏見の戦が勃発し、備中松山藩主板倉勝静等の旧徳川 幕府軍は、戊辰戦争の敗戦が濃厚となったが、榎本武揚率いる艦隊と共に蝦夷(北海道) に渡り、「蝦夷地共和国」の建設に向け最後の望みをつないだ。

 榎本武揚は、蝦夷へ渡 る8隻の船に乗船する兵士の内、旧徳川の幕臣の板倉勝静や松平容保の随行人を各藩 とも2〜3人と大幅に少なくした。これまでに随行してきた藩士は途方にくれたが、同行していた 新撰組の土方歳三の提案により、新撰組に加入することを進言し、備中松山、桑名、唐津の藩士が 入隊することとなる。そして同年9月8日、慶応から明治に改元され、天皇政権が樹立された。

 そうした中、9月20日備中松山藩士14名が入隊し、板倉勝静に同行することになる。艦隊は、10月2日仙台の荻浜港から蝦夷に向け出航した。(翌10月3日東京に遷都され、江戸は東京となった。)

 翌明治2年(1869)5月11日箱館総攻撃により、18日に五稜郭が開場され、箱館戦 争は終結となった。

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