松山藩の新撰組隊士一覧

おとべ ごうのしん:乙部 剛之進

またの名を武部銀次郎。備中松山藩士。慶応4年(1868)、備中松山藩主板倉勝静が江戸から日光に脱出した時に同行し、勝静と供に投降して宇都宮藩預けとなる。旧幕府軍の宇都宮城攻撃の混乱に乗じて脱走し、勝静と供に会津から仙台に入る。 明治元年(1868)9月20日仙台で新撰組に入隊。蝦夷(北海道)へ渡る。箱館戦争に参戦し、同2年(1869)5月11日の箱館総攻撃には、本武権平と供に箱館山から逃げ延びたとも言われるが、実際には弁天台場で討死(うちじ)にした。墓は高梁市頼久寺町の頼久寺にある。寺の東側墓地の入り口の墓碑に「乙部剛之進吉明墓」側面に明治2年5月11日に戦死したと刻まれている。箱館時代の新撰組での役職は、番兵取締。

かわむら やそえもん:河村 八十右衛門

川邑(かわむら)とも、八十左衛門とも言った。備中松山藩士。文政11年(1828)江戸で生まれる。慶応4年(1868)に彰義隊に同調しようとしたが果たせず、旧幕艦・長鯨で江戸を脱出し、明治元年(1868)9月20日に仙台で新撰組に入隊。蝦夷に渡る。同2年(1869)4月頃の編成で会計方になるが、それ以前には沖之口取締りの任にあったことが記録されている。5月15日に弁天台場で降伏。その後、弘前の薬王院に収容された後に、東京に送られ芝の最勝院で旧備中松山藩に引き渡され、同3年(1870)1月に放免となった。新撰組入隊時は、平隊士。当時42歳。

こじま みきのじょう:小島 神酒之丞

造酒之允とも言った。備中松山藩士。出羽・新庄に生まれる。備中松山藩主板倉勝静が、江戸から日光に脱出した時に同行し、会津軍に加わって戦うが、明治元年(1868)9月20日に仙台で新撰組に入隊。同2年(1869)4月頃以前には西組一番として市中取締りの任に当たっていたが4月頃の編成では、第二分隊に所属していたことが記録されている。5月11日の箱館総攻撃では、持ち場から山背泊へ援兵に向かったと伝えられているが、5月15日に弁天台場で降伏。弘前の薬王院に収容された後に、東京に送られ芝の最勝院で旧備中松山藩に引き渡され、同3年(1870)1月に放免となった。新撰組入隊時は、平隊士。⇒小島 鎰三郎

すずき もとのしん:鈴木 元之進

不詳。

すずき りょうへい:鈴木 量平

備中松山藩士。弘化3年(1846)に備中松山城下鉄砲町に生まれる。御中小姓を務め、備中松山藩主板倉勝静が、江戸から日光に脱出した時に同行したが、再び江戸に戻り、旧幕艦・長鯨で江戸を脱出し、明治元(1868)年9月20日に仙台で新撰組に入隊。蝦夷渡航後の同2年(1869)1月前後には、東組一番の一員として、市中警備の任に当たっていたことが記録されている。5月11日の箱館総攻撃では、称名寺の屯所から弁天台場へと駆けつけたことが伝えられ、5月15日に弁天台場で降伏。弘前の薬王院に収容された後に、東京に送られ芝の最勝院で旧備中松山藩に引き渡され、同3年(1870)1月に放免となった。新撰組入隊時は、平隊士。当時24歳。

たけうち げんたろう:竹内 元太郎

不詳。

ちば さかえ:千葉 栄

 東本願寺派の僧侶。弘化3年に(1846)箱館大野村で生まれる。備中松山藩主板倉勝静が宿にしていた箱館谷地頭の料理屋佐吉の縁者で、勝静に懇請して、備中松山藩の御中小姓の身分となり、明治元年(1868)9月20日新撰組に入隊。同2年(1869)4月頃の編成で、第三分隊に所属し、5月15日に弁天台場で降伏。病気で入院。その後、弘前の薬王院に収容された後に、東京に送られ芝の最勝院で旧備中松山藩に引き渡され、同3年(1870)1月に放免となった。新撰組入隊時は、平隊士。当時24歳。

にしむら こざえもん:西村 小左衛門

備中松山藩士。江戸で生まれる。平隊士。当時34歳。

ひらき そうすけ:平木 宗助

不詳。

ふるや じょうのすけ:古屋 丈之助

本名は高田錠之助。備中松山藩士高田亘の子。嘉永5年(1852)江戸で生まれる。御供番をつとめ、慶応4年(1868)2月、備中松山藩主板倉勝静が、江戸から日光に脱出した時に同行し、勝静の投降時にも従い、宇都宮城攻撃の混乱に乗じて脱走し、勝静と供に、会津から仙台に入る。明治元年(1868)9月20日仙台で新撰組に入隊。同2年(1869)4月の編成で、第三分隊に所属。5月11日の箱館総攻撃では、寒川の番所に詰めており、市中に引き上げたことが記録されている。15日に弁天台場で降伏。その後、弘前の薬王院に収容された後に、東京に送られ芝の最勝院で旧備中松山藩に引き渡され、同3年(1870)1月に放免となった。新撰組入隊時は、平隊士。当時18歳。

もとたけ ごんぺい:本武 権平

備中松山藩士。文政9年(1826)江戸で生まれる。慶応4年(1868)備中松山藩主板倉勝静が、江戸から日光に脱出した時に同行し、会津から米沢を経て、仙台に入る。明治元年(1868)9月20日に新撰組に入隊。蝦夷へ渡り、11月に江差で、旧幕軍艦開陽丸が沈没した時には、家臣への褒美用に仙台より持参した刀剣類の入った大小の箱の探索を命じられたが、発見することが出来なかった。同2年(1869)4月の編成で会計方となり、5月11日の箱館総攻撃では、武部銀次郎(乙部剛之進)と供に、箱館山から逃げ延びたことが記録され、弁天台場に篭城して15日に降伏。その後、弘前の薬王院に収容された後に、東京に送られ芝の最勝院で旧備中松山藩に引き渡され、同3年(1870)1月に放免となった。新撰組入隊時は、平隊士。当時44歳。

やべ ひょうご:矢部 兵吾

元備中松山藩の日光宿坊南照院小姓で、慶応4年(1868)2月に藩主板倉勝静が、江戸から日光に脱出し、同院に入った。その後勝静の仙台行きに同行し、明治元年(1868)9月20日仙台で新撰組に入隊し、蝦夷に渡る。宮氏岩太郎の名簿に隊士として記載され、また同2年(1869)1月前後に、山背泊見回りの任についていたことが記載されている。同じ頃勝静の随臣が体調を崩したため勝静に同行、新撰組を離脱した。4月には勝静の箱館脱出に随行し箱館を離れる。

よだ おりえ:依田 織衛

備中松山藩士(江戸)。御側御用人。

わたなべ としろう:渡辺 敏郎

備中松山藩士、歩小姓。

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