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そうち よすけ:佐内 與助

生年不詳〜慶安3年(?〜1650)
高梁市中井町西方
豪族、山田方谷の遠祖

 戦国時代の末期(1500年代の終り) 、毛利氏に従い九州柳川(現・福岡県)の立花城を攻めたほか多くの戦に出陣。また豊臣秀吉の朝鮮征伐(1592〜98)の時には、毛利氏に属し従軍し数々の戦功を立てた。転戦中に鉄砲隊を率いて敵軍を打ち破った時、右手に矢を受けて負傷した。こうした功績により毛利長門守の武将から、感状と共に褒美(ほうび)として「三原の刀」を拝領した。関ヶ原の戦い(1600)で豊臣氏が敗北したため、毛利氏を離れ西方村(高梁市中井町西方)に帰る。
 その後、備中国の代官小堀遠州の手代となり活躍。慶安3年(1650)没。86歳といわれた。  與助の次子七左衛門が家を継ぎ、それから7代後が山田方谷である。與助の墓は高梁市中井町西方の佐内屋敷跡近くの丘にある。
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