明治38年5月6日〜平成3年4月10日(1905〜1991)
高梁市宇治町出身、奈良県生駒市
歌人
名は治雄。川上郡宇治村(現・高梁市宇治町)で父為三郎、母真佐農の次男として生まれる。
逓信講習所を卒業、近畿郵便局係長を経て、布施太平寺郵便局長を務める。
20代後半に胸を病み歌にすがるしかないと短歌を習い始める。昭和7年(1932)水甕社同人。同11年(1936)芸術員会員尾上柴舟(おのえさいしゅう)に師事。取締役となり、同22年(1947)大阪支社創立責任者、また大阪支社長、相談役を務める。水甕社には全国に3千数百人の会員が居た。同27年(1952)布施市歌人クラブ創立委員長(のち東大阪歌人クラブ・会長)、大阪歌人クラブ常任理事、東大阪市文化連盟相談役、大阪歌人協会会長、大阪万葉集選者、日本歌人クラブ奈良県委員及び選者などを歴任。
長年の活躍に対し大阪府の文化芸術功労者表彰、東大阪市市政功労者表彰、ほか多数の賞を受ける。
同48年(1973)宮中歌会陪聴。歌碑は同52年(1977)東大阪市三ノ瀬公園に市制10周年記念として建立された。「黒き揚羽の蝶がとびゆくまぼろしに 見しかげかともまみ追ひやまず」の歌が、奈良市三松禅寺にある。同61年(1986)柴舟賞受賞。
感情細やかで、観察力は鋭かったと言われた。歌集は、出身地宇治村の廃村を記念した書名の『宇治拾遺』、『麻本呂婆』、合同歌集10冊余り、編著、随筆集も多い。収録歌は1万首以上ある。 (参)「高梁市広報紙」「群像おかやま」
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南北朝時代(注1)の武将(1300年代後半の人)
備中松山城主
師秀が僅(わず)か二歳時の正平6年(北朝の観応2年:1351)2月26日、父師世、祖父師泰(もろやす)、祖父の弟師直(もろなお)ら一族は、足利尊(あしかがたか)氏(うじ)に従い九州の足利直冬討伐に向かうが、その途上足利直義が南朝に降(くだ)って京都を占拠したため引き返し将軍一行より離れて播州武庫川を渡ったとき直義派の上杉能憲(よしのり)の一党に襲撃され、一族すべて悲惨な最期を遂げた。
同10年(北朝の文和4年:1355)、足利幕府の管領細川頼之のはからいで備中守護職となり、高橋氏に代わり備中松山城主となる。しかし同17年6月3日(北朝の康安2年:1362)、幼少の師秀の執事(補佐役)として実権を握っていた秋庭(あきば)三郎重明に、在城僅か7年にして備前徳倉(こくら)城(現・御津町)に追われる。越後守。(参)「高梁市史」「日本史広辞典」
注1:南北朝時代(1336年〜92)
1336年後醍醐天皇の遷幸(天皇常住の御所から他に移ること)、足利尊氏の光明天皇擁立から、1392年南北朝の合体まで、南朝4代、北朝5代の天皇が並立した57年間。守護大名の抗争、国人らの抵抗で内乱は全国的に広がる。足利義満による幕政安定と 共に南北の合体がなり、武家政権の統一が完成した。(参)「日本歴史用語集」
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天保8年〜昭和3年2月22日(1837〜1928)
高梁市新丁(現・弓之町)
備中松山藩士、高梁町長、官吏、俳人
名は胤之、幼名は令次郎のち衛蔵。号は確所(かくしょ)・寒(かん)山居(ざんきょ)・傳起(でんき)・歸童(きどう)など。父は俳人の岡本桑古。号の寒山居は田辺杏林(きょうりん)(羽霓(うげい))の後を継いで宗師となった永井有斐(ゆうひ)の推撰により祖父の号を継号した。
国分家の養子となり、備中松山藩の書役を務める。鳥羽・伏見の変(慶応4年=1868)の後、備中松山藩が朝敵となり備前岡山藩が攻めてきたが、胤之は密命を受け長瀬(現・高梁市中井町西方)の山田方谷の隠宅へしばしば往復した。
また翌明治 2年(1869) 3月には年寄役大石隼雄に同行し、海路東京へ向かい旧藩主板倉勝静(かつきよ)の箱館からの救出、栄次郎(板倉勝弼(かつすけ))の家名相続に奔走した。
安政 3年(1856)から明治3年(1870)まで新丁(弓之町)の自宅で確々堂と言う家塾を開き習字を教えていた。明治10年(1877)11月、岡山県第14区務所(上房郡を管轄)が本町に設置され、区内 4カ所に戸長役場が置かれたとき、初代の第一戸長役場の戸長となる。同11年(1878)3月から9月の廃職までは、区務所付戸長に昇任した。同11年(1878)9月からは、「郡区町村編成法」が施行され、上房郡の書記に登用された。同18年(1885) 2月から同22年(1889)の市町村施行まで、上房郡の第一部戸長となる。
同22年(1889)6月市町村制が施行され、民選の初代高梁町長となり、同年7月26日から同25年(1892)3月2日まで務めた。この年上京し、旧藩主板倉家の家宰(かさい)(執事)となる。
俳諧は嘉永 5〜6年(1852〜53)より父岡本桑古に習い、明治25年(1892)上京するまでの間宗師を務め、多くの門弟に教えた。同20〜25年頃(1887〜92)には伊藤二蝶・板倉信古の 3人で点者(批評家)を務めた。赤木晋和より代々の宗師に伝わり永井有斐に伝えられていた遲櫻(ちざくら)の文台(ぶんだい)を、有斐より受け継ぎ、同25年に胤之が上京する時板倉信古に引き渡した。
また詩・歌も能くし『高梁古今詞藻』に収められている。著書に『昔夢一斑』『魚水実録』の編纂者。昭和 3年(1928)没。92歳。
長男の国分三亥は検事、宮中顧問官などを務め最初の高梁市名誉市民となる。次男の秀哉(しゅうさい)は、父の生家の岡本を継ぎ、医師となり大阪で開業。
⇒岡本桑古・田辺杏林・永井有斐・板倉勝静・大石隼雄・板倉勝弼・国分三亥・岡本秀哉 (参)「高梁市史」「高梁古今詞藻」「昔夢一斑」
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文久3年12月25日〜昭和37年5月1日(1863〜1962)
高梁市新丁(しんちょう)(現・弓之町)
最初の高梁市名誉市民、司法官僚(検事)、宮中顧問官
昭和36年(1961)12月に制定された高梁市名誉市民条例により、同37年(1962)1月24日初の名誉市民に推戴された。
市内新丁(現・弓之町)で高梁戸長、町長を務めた国分胤之(たねゆき)(確所(かくしょ))の長男として生れる。幼名は三亥太郎。号は漸庵(ぜんあん)。
有終館(旧松山藩校)で学び、高梁小学校の第一回の卒業生。岡山中学校(現・朝日高等学校)に進学、明治13年(1880)退学し、上京して二松学舎で漢学、欧亜学館で英語を学び、同18年(1885)10月司法省法学校(同年東京大学法学部に合併)を卒業。同20年(1887)より横浜・岡山の各地方裁判所検事として活躍、累進して甲府・高知の各地方裁判所検事正、大阪控訴院検事となる。同36年(1903)高等官二等、翌年 4月大阪地方裁判所検事正、同41年(1908)韓国政府の招きで、韓国検事総長に赴任。高等官一等。同43年(1910)10月韓国合併の結果朝鮮総督府検事・高等法院検事長となり、大正 2年(1913)10月朝鮮総督府司法部長官を兼任し、法典編成などに尽力した。同年 6月勲二等瑞宝章に叙せられる。
同 8年(1919)8月朝鮮総督府法務局長となり、翌9年(1920)8月依願退職。同年10月正三位に叙せられ、12月錦鶏間祗候となり、同11年(1922) 6月久邇宮家宮務監督を仰せ付けられ、同年東宮御婚儀委員となる。同13年(1924) 1月勲二等旭日重光章を賜り、同14年(1925) 7月宮中顧問官となり、高等官一等に叙せられた。
同年12月願いにより本官を免ぜられ、横浜倉庫株式会社監査役・東京丸の内銀行頭取・二松学舎(現・大学)理事長(昭和2年=1927)、逗子(神奈川県)開成中学校理事長(昭和6年=1931) などを歴任した。明治43年(1910)には高梁北小学校(現・高梁小学校)へ建物一棟を寄付。昭和37年(1962) 5月、神奈川県三浦郡葉山町堀の内で没。99歳。
俳人の岡本桑古は祖父、弟の岡本秀哉(しゅうさい)は医師。
⇒ 岡本桑古・国分胤之・岡本秀哉 (参)「高梁市史」「伸びゆく高梁」「高梁古今詞藻」
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明治33年11月7日〜昭和61年6月18日(1900〜1986)
高梁市巨瀬町生まれ、原田北町出身
実業家(旅館・料亭の「後楽」経営)
上房郡巨瀬村(現・高梁市巨瀬町)の伊賀源太郎・よねの長女。
小学校4年の時家庭の事情で上房郡松山村(高梁市原田北町)に転居。松山尋常小学校(のち高梁南小学校)、高梁女子高等小学校並びに松山女子補習科を卒業。
大正10年(1921)岡山の商家に嫁ぎ1男2女を設けるが不幸にして1男1女を失い、又やむを得ぬ事情により昭和7年(1932)離婚し高梁に帰る。1年後友人を頼り旅館経営を勉強する為岡山の旅館に住みこむ。次いで料亭で調理を学ぶ。
同10年(1935)請われて経営不振に陥(おちい)っていた料亭「鳥兵衛」の主人小塩正治と結婚。「鳥兵衛」を復興させ瞬く間に黒字とする。同18年(1943)岡山県の後援の下に設立された有限会社「後楽」の経営を任される。しかし、同20年(1945)6月の岡山空襲により「後楽」「鳥兵衛」共に焼失。翌年「後楽」を再建。その後経営を伸ばし、同32年(191957)岡山で最初の運輸省国際観光登録旅館の指定を受ける。この年2月に夫正治を失う。三木行治、岡崎嘉平太、吉野俊彦ら政財界人や一般客の信頼を集め、事業を成功に導いた。
その後高級料亭「後楽」を開業。生来の正直さに加え信仰心に厚く、事に当たって迷わず、所信を貫いた。書道、常磐津の稽古に励み、何事にも中途半端では済まされぬ性格であった。
(参)「後楽女将小塩竹野還暦祝賀文集」
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慶応元年3月24日〜明治38年2月17日(1865〜1905)
高梁市出身
軍人
号は牛嶺(ぎゅうれい)。越後新発田藩(現・新潟県)菅 八郎右衛門の三男として江戸木挽町(こびきちょう)に生まれる。維新の時、母に連れられ松山に移る。備中松山藩士・小島造酒丞(みきのじょう)の養子となる。
維新後は、養父の仕事はなく家計は苦しかったため、始め高梁警察署の使丁となる。荘田霜渓の私塾「有終館」で学び、のち上京し二松学舎で学ぶ。陸軍士官学校を卒業。
日清戦争(明治27年〜28年=1894〜95)に出兵。北清事変(同33年=1900)が起きたときは、第五師団に所属し天津(てんしん)城を攻撃し、決死の覚悟で城壁を登り突入、全軍これに続いた。
日露戦争(同37年〜38年=1904〜05)のときも、各地を転戦し功を上げ、少佐となり歩兵第18聨隊(れんたい)大隊長となる。明治38年(1905)黒溝臺(だい)の戦いの途中、病気になり戦地の病院で死去。41歳。
漢詩を能くし『高梁古今詞藻』に収められている。
養父・小島造酒丞(みきのじょう)は、明治元年9月仙台で新撰組に入隊、箱舘戦争に参戦している。
⇒ 荘田霜渓・小島造酒丞(みきのじょう)・「松山藩の新撰組隊士」 (参)「高梁市史」「高梁古今詞藻」「上房郡誌」
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明治29年3月〜昭和9年10月16日(1896〜1934)
川上郡成羽町出身
彫刻家
川上郡成羽町に生まれる。画家児島虎次郎の甥。号は巨眼。
高梁中学校(旧制)の第19回卒業生。大正11年(1922)東京美術学校彫塑科を卒業。同14年(1925)同研究科修了。その後昭和3年(1928)まで朝倉文夫に師事する。大正11年(1922)東京平和博覧会に出品、以後毎回帝展に出品した。代表作『下げ髪の頃』『静』など。昭和4年(1929)に大理石で制作している『福西(志計子)先生胸像』が岡山県立高梁高等学校に所蔵されている。同年12月の順正女学校創立記念日に除幕式が行われた。
(参)「有終」「備作人名大辞典」
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明治2年〜大正10年5月19日(1869〜1921)
高梁市出身
会社員
名は、銀次郎。有終館で学び、上京して成立学舎で学ぶ。海軍主計学校に入るが、病気になり退学。東京銀行に入行する。千谷商会、四十銀行、日本製粉会社などに勤務した。「高梁古今詞藻」に詩を残している。(参)「高梁古今詞藻」
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天保8年〜大正元年12月20日(1837〜1912)
高梁市柿木町(現・大杉病院駐車場)
備中松山藩士(奥医師・大小姓格・80石・役料10石)
名は耕雲、または篤。号は楳菊。父は三紀(大小姓格・奥医師)。
江木鰐水に学び、のち江戸で医術を学ぶ。傍(かたわ)ら、藤森弘庵・鷲津毅堂・川田甕江に学ぶ。帰藩し藩公板倉勝静の侍医となる。
明治になり、旧松山藩時代の医師は高梁を去った者が多かったが、高梁で開業した医師は、児玉頼平と小谷のみであった。廃藩後(明治4年)は下呰部(しもあざえ)(現・北房町)で医院を開業。また私塾を開き子弟に教えた。著書に『刀圭餘稿』『京華遊藻』などがある。
⇒ 川田甕江・児玉頼平(すぐ下の項目) (参)「高梁古今詞藻」「明治前期高梁医療近代化史」
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慶応1〜昭和13年1月1日(1865〜1938)
高梁市鉄砲町のち伊賀町
医師
号は梅翁。阿哲郡新砥村蚊家の逸見眞平の二男に生れ、児玉泰順(備中松山藩士・一代切士格・表医師・四人扶持、明治26年6月11日没70歳)の養子となる。
山田方谷に学び、のち済生学舎で医学を学ぶ。
明治になり、伊賀町で産院を開業。旧松山藩時代の医師の中に高梁を去ったものが多かった中で、高梁で開業した医師は、児玉と小谷謙策のみであった。
『高梁古今詞藻』に詩を残している。墓は高梁市頼久寺町のキリスト教墓地にある。74歳。
⇒ 小谷謙策(二つ上の項目) (参)「高梁古今詞藻」「明治前期高梁医療近代化史」
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天文9年〜慶長9年(1540〜1604)
近江国の人
江戸初期の備中の代官
小堀遠州の父。近江国坂田郡小堀村(現・滋賀県長浜市)に住む。
正次は小谷城の浅井長政に属していたが、浅井氏滅亡により羽柴(豊臣)秀吉に仕え、秀吉の弟秀長が大和郡山へ赴いたとき、付家老として同行し、検地、刀狩、築城、城下町造営に活躍する。この郡山時代から正次は茶道を深め、遠州にも学ばせ父子が並んで茶会記などに登場するようになる。
秀吉の死後は徳川家康に接近し、石田三成や淀君への反感も手伝って、上杉追討のため家康が上野国小山(現・栃木県小山)に赴いたとき、その軍に加った。関ヶ原合戦にも参戦した。
その論功行賞により、関ヶ原合戦直後の慶長5年(1600)12月18日備中国小田郡内で一万石を加増され、1万4460石となり、代官(国奉行)に任命され急遽(きゅうきょ)松山(現・高梁市)へ赴任。備中国では検地や徴税体制の整備に奔走するが、同9年(1604)に急死し、その遺領を遠州が継承すると共に備中国奉行を命ぜられた。この時遠州は弱冠25歳であった。
⇒ 小堀遠州(すぐ下の項目)
(参)「高梁市史」「学芸百科事典」「きび野」
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天正7年〜正保4年2月6日(1579〜1647)
備中松山の代官
江戸初期の指導的茶人・意匠家・頼久寺庭園作庭
名は政一(まさかず)、号は遠州(えんしゅう)・宗甫(そうほ)・転号庵(てんごうあん)・孤篷庵(こほうあん)など。
近江国(現・滋賀県)坂田郡小堀村の生れ。初め豊臣秀吉、のち徳川家康に仕え、慶長13年(1608)従(じゅ)五位(ごいの)下(げ)遠江守(とおとうみのかみ)に任ぜられ、一般に遠州と呼ばれ大坂城本丸、仙洞(せんどう)御所(ごしょ)、二条城二の丸などの建築を担当。
また茶室・庭園の造営も手掛け、京都大徳寺孤篷庵の忘筌席(ぼうせんせき)、京都南(なん)禅寺(ぜんじ)金地(こんち)院八窓席(いんはっそうせき)などは有名。茶道は千(せんの)利休(りきゅう)の門弟古田織部(おりべ)に学び、将軍家の茶道指南を司(つかさど)った。茶道における作為(さくい)は当世第一と言われ、茶道の審美力にも優れていた。
父正次は小谷城の浅井長政に属していたが、浅井氏滅亡により羽柴(豊臣)秀吉に仕え、秀吉の弟秀長が大和郡山へ赴いたとき、付家老として同行し、検地・刀狩、築城・城下町造営に活躍する。この郡山時代に遠州は、千利久とも対面し、また手洗いの水の排水を水琴窟のように工夫して茶道の師である古田織部に賞賛されている。
備中松山に於ける遠州は、父正次が慶長5年(1600)関ヶ原の戦い後の12月18日備中国小田郡内に 1万石の加増を受け、 1万4460石となり、代官(国奉行)に任命され急遽(きゅうきょ)備中松山(現・高梁市)へ赴任、天領一円を治めたことに始まる。父正次は備中国では検地や徴税体制の整備に奔走するが、同9年(1604)急死したため、その遺領を遠州が継承すると共に備中国奉行を命ぜられた。この時遠州は弱冠25歳であった。
備中国に赴いた遠州は、備中松山城及び根小屋(陣屋)が荒廃していた為、頼久寺を仮館として政務を司った。検地を完成させ、荒廃した松山城の中心地を小松山に定め、同19年(1614)11月、そこに近世的な天守閣・城閣等の修築を行った。また城下町の本町や新町の取り立て(建設)、次いで鍛冶町・紺屋町の取り立てに着手、根小屋の整備、書院・庭園・数寄屋等の築造、楮の栽培を奨励し備中檀紙の改良を行い、また備中鉄の増産、高梁川の水運や瀬戸内海海運の整備などに当たった。
この中で現存しているものを見ると、第一に松山城があげられる。この城は何回かの修復を経て現在に至っているが、例えば水谷勝宗の修復時も江戸幕府は「元の如く」修復することを許可している。この松山城と頼久寺庭園や岡山県立高梁高等学校内の心字池を配した庭園石組みなどには遠州流「綺麗さび」の世界を伺うことができる貴重な遺産である。
その他備中国奉行時代に遠州は御所・駿府城・名古屋城等の作事奉行として活躍するが、元和3年(1617)池田長幸が鳥取から国替されたのに伴い、河内国奉行に任命された。頼久寺庭園は、サツキの優美な大刈り込みを背景に、鶴・亀島を配した禅院式枯山水に書院を加味した蓬莱庭園で、はるかに望む愛宕山を借景に造られており、国の『名勝』に指定されている。
遠州といえば、すぐに建築や造庭など、いわゆる作事奉行としての才能が評価されがちだが、父親ゆずりの行政的手腕も早くから培われ、松山城下町の取り立て、大高檀紙製造法の改良、法曾焼の陶窯の建設のような産業改革などにも数限りない業績を残している。
「小堀遠州公制札」(注1)は高梁市指定重要文化財に指定されている。この制札は、遠州が代官着任後7年目に当たる元和元年(1615)頼久寺境内に立てたもので、やや鮮明度を欠くが、松の板にお家流で墨書され、遠州のきめ細かい政治的センスと、大茶人としておのずから備わった自然への愛情をうかがい知ることができる。
◎「遠州煙草のうた」---"もの言わず 問わず語らず 思い草 淋しきときの 良き友となる"
⇒ 小堀正次(すぐ上の項目) (参)「高梁市史」「学芸百科事典」「きび野」
注1:小堀遠州公制札(筆跡典籍…高梁市指定重要文化財)
一般には高札ともいわれ、室町時代以降、種々の法令を木札に記し、繁華な場所に立てられたが、江戸時代にはこれが全国的に普及し、民衆に法令を周知させる役割を果たした。使用の板は檜が多く、形状は上部が緩やかにとがった五角形で、大小様々なものがあった。
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生没年不詳(安土・桃山時代の人)
笹尾城の城主(高梁市宇治町笹尾)
安土・桃山時代の武将
備中兵乱(天正3年:1575)のとき、三村方であったため、同じ宇治の滝谷城主赤木忠直に攻められ、備中松山城(現・高梁市)に撤退した。笹尾城は、平素は居館であったが、その屋敷は、ひとたび戦になると若干の防備を行い城と呼ばれていた。一隅に鎌倉中期から室町時代頃(1260〜1572)と思われる五輪塔や宝篋印塔(ほうきょういんとう)(供養塔・墓碑塔)が20基ばかりあり、中には高さ1,5 m位の比較的大きく美しいものもある。
⇒ 赤木忠直 (参)「高梁市史」
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