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とくおう りょうこう:徳翁 良高

慶安2年8月19日〜宝永6年2月7日(1649〜1709)
栃木県宇都宮市出身
高梁市和田町定林寺の住職

 江戸時代前期の曹洞宗の僧侶、玉島円通寺開山。名は良高。字は道山。徳翁は号。俗姓は藤原。
 下野(しもつけ)国宇都宮(現・栃木県宇都宮市)に生れる。13歳で江戸に出て吉祥寺の離北重の弟子となり、15歳の時得度(とくど)剃髪(ていはつ)する。遠州(現・静岡県)初山で修行し諸国行脚(あんぎゃ)にでる。その後、黄檗山の木庵の下で学ぶ。
 延宝元年(1673)江戸の大慈庵で潮音道海に弟子入り。翌年加賀(現・石川県)の大乗寺の月舟宗胡を尋ね3年滞在する。天和2年(1682)下総の正泉寺、41歳(1689)の時備中松山藩主水谷(みずのや)勝宗の招きで備中松山の定林寺(現・高梁市和田町)に43歳まで晋住(ふじゅう)(注1)した。
 その後も、加賀の大乗寺、元禄9年(1696)備中玉島の韜光庵(とうこうあん)(現・倉敷市玉島阿賀崎)に晋住した。その年の秋には新見の再来庵(のち再来寺)を復興。
 また安芸・備後(現・広島県)の各地を行脚した。そして玉島に円通庵(のち円通寺)ほか多数のお寺を開山した。宝永6年(1709)円通寺で没。
 後に良寛は良高をしたって越後(現・新潟県)から円通寺にやってきた(1780年代)と言われている。著作に「良高語録」ほか。
⇒ 水谷勝宗 (参)「日本近世人名辞典」「岡山縣人名辭書」「良寛―その任運の生涯」
注1:晋住(ふじゅう)…住職として実際に寺に住むこと。 
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とくだ しげゆき:徳田 蕃之

明治23年9月19日〜昭和45年8月16日(1890〜1970)
高梁市内山下
高梁町長
 児島郡琴浦町(現・倉敷市)で、高田富士太郎の四男として生まれる。大正5年(1916)5月高梁町内山下の徳田氏の婿養子となる。同8年(1919)蕃四(ばんし)を蕃之に改める。
 昭和4年(1929)5月10日高梁町と松山村が合併したとき、高梁町の助役として合併に尽力した。同7月24日の池上仙二郎(長右衛門)町長就任までの間、町長臨時代理者として岡山県知事の任命を受け、柿木町(今の大杉病院のところ)にあった高梁町役場(旧備中松山藩士・赤羽永蔵の屋敷)を臨時庁舎とし、同年7月6日バラック建ての仮庁舎を現市庁舎の位置(高橋市松原通)に建設し移転した。池上仙二郎(長右衛門)、藤岡晴次町長の後を受けて同6年(1931)11月27日から同10年(1935)11月26日まで、第三代の高梁町長に就任。同9年(1934)9月21日に来襲した室戸台風では、町の大部分が水没した。この被害は、死者26人、重傷者23人、流出家屋54戸、倒壊家屋47戸、床上浸水 1.278戸、床下浸水 245戸の大被害を受け、この復興に尽力した。
 また、同3年(1928)より取り組んでいた「備中松山城天守閣の修復」に文部省と協議を続け、同15年(1940)永井恒三郎町長の時に完成した。墓は、高梁市寺町の寿覚院にある。 (参)「高梁市史」 
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とくとみ そほう:徳富 蘇峰

文久3年〜昭和32年(1863〜1957)
熊本県水俣市出身
評論家
 本名は猪一郎。熊本県水俣の惣庄屋兼代官の家の長男として生まれる。小説家の徳富蘆花(ろか)(徳富健次郎)は弟。
 熊本洋学校から同志社に学び、明治15年(1882)大江義塾を開きその後出版した「将来之日本」が出世作となり上京。明治〜昭和初期にかけて活躍した代表的な評論家。
  同20年(1887)民友社を創立し総合雑誌『国民之友』を創刊。同23年(1890)『国民新聞』を発刊。社会的思想の先駆的紹介で「平民主義」を唱えた。大正以後、史論に転じ『近代日本国民史』ほか多数の著書を残した。昭和18年(1943)第3回文化勲章を受賞。
   蘇峰は昭和6年(1931)6月19日、高梁方谷会の招きで来高し、高梁小学校で"維新の完成"の講演を行った。また、この時作詩した「孤舟移棹一江月 高閣簾千樹風 蘇峰七十三 」の詩碑が高梁市落合町近似の方谷林公園に建立されている。
 ⇒徳富蘆花 (参)「高梁の名碑」「学芸百科事典」
 
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とだ かずお:戸田 和夫

明治41年10月26日〜平成16年12月29日(1908〜2004)
上房郡有漢町出身、高梁市鍛冶町
高梁商工会議所会頭、会社社長

 大正13年(1924)有漢教員養成所を卒業し、ついで正教員養成所に入学するが同15年(1926)中退。
 昭和32年(1957)新見通運且謦役会長、同36年(1961)備北タクシ−且謦役、同40年(1965)岡山空港ビル且謦役、同44年(1969)備北開発且謦役社長、同46年(1971)備北バス且謦役社長、同47年(1972)岡山三菱ふそう滑ト査役を務める。この間、岡山県経営者協会常任理事、岡山県バス協会理事、(社)岡山県労働基準協会常任理事、(財) 岡山県社会保険協会会長、高梁商工会議所会頭、岡山県厚生年金受給者協会長、(社)全国厚生年金受給者団体連合会理事、厚生年金受給者団体中・四国ブロック協議会会長などを歴任。同48年(1973)藍綬褒章受賞、同55年(1980)勲五等双光旭日章受賞。
 俳句を能(よ)くし、句集『天籟』がある。号は桜亭(おうてい)。 (参)「岡山県人名鑑」 
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とめおか こうすけ:留岡 幸助(1)

元治元年3月4日〜昭和9年2月5日(1864〜1934)
高梁市新町生まれ
社会福祉事業の先覚者、宗教家

 高梁市新町の髪結い床を営む吉田万吉・トメの子に生まれ、幼い時南町の米屋を営む留岡金助(注1)・勝子(りつ)の養子となる。
 生来(せいらい)反骨・気概の風(ふう)があり、幼少の時キリスト教信者赤木蘇平(そへい)医師の家(高梁市中間町)に住込み薬剤調合の手伝いをしながら医術を学ぶが、それ以上に赤木の人格に影響を受け、その感化でキリスト教信者となる。明治15年(1882)19歳の時、高梁キリスト教会で洗礼を受け、献身の生涯の第一歩を踏み出した。翌16年(1883)20歳の時家出し、京都の同志社英学校に新島襄を尋ねるが会うことができず、義父の留岡金助に連れ戻され、挙げ句の果てに座敷牢に入れられる。後に妻となる留岡金助の養女夏子(注2)の援助で再び出奔。
  四国・今治の教会の牧師、横井時雄の所へ行き、ここで徳富健次郎(のちの蘆花(ろか)(注3))に会う。徴兵検査のため帰高(検査は不合格)。同18年(1885)9月、再び同志社英学校別科神学科(現・同志社大学)に入学し新島襄の教えを受ける。同21年(1888)24歳のとき卒業。
 兵庫県福知山の丹波第一教会の牧師となり伝導3年、熱心に信徒の家庭を訪問し親身に相談に乗った。同24年(1891)28歳の時、金森(かなもり)通倫(みちとも)の誘いで、北海道空知集知監で教誨師(きょうかいし) 4年、この間監獄の在り方に疑問を抱き、不良少年の感化矯正の必要を痛感した。
 同27年(1894)米国に渡り、刑務制度の研究と獄事視察を行い、同29年(1896)初夏帰国。同31年(1898)巣鴨監獄教誨師、翌年警察監獄学校が設立され教授となる。
 同31年から大正3年(1898〜1914)まで内務省地方局嘱託を務める。
 明治32年(1899)11月、東京の巣鴨に家庭学校を設立。同39年(1906)家庭学校を財団法人東京家庭学校とし、校長と理事長を兼ねる。
 大正3年(1914)50歳を切りに一切の公職を去り、不良青少年の健全育成のため北海道上(かみ)湧別(ゆうべつ)村字遠(えん)軽(がる)社名淵(さなぶち)(現・紋別(もんべつ)郡遠軽町字留岡34番地)の国有地の原野1000ヘクタール の払い下げを受け、感化農場を創設した(少年救護院東京家庭学校社名淵分校と第一農場)。昭和8年(1933)まで校長を務めたる。
 更に大正12年(1923)神奈川県の茅ヶ崎に分校設立(関東大震災で倒壊)、不良少年感化に献身した。昭和9年(1934)2月5日に没したが、日本最初の女子教護院"横浜家庭学園"の創始者有馬四郎助が見舞いに来て、その足で千葉に行き、教壇で倒れ死去したのが2月4日であり、2人の葬儀は東京の青山会館で家庭学校と家庭学園の合同葬が行われ、天皇を始め各宮家の供え物が葬壇を飾り、会葬者は2千数百人に及んだ。
 大正4年(1915)藍綬褒章を綬(う)け、昭和3年(1928)に勲五等に叙せられた。近代日本の社会事業の基礎をつくった。号は薇峰・一日庵。

 四男の留岡清男は東京の巣鴨で生まれ、東京大学で心理学を学び、東大で教鞭を執る。昭和4年(1929)8月、法政大学文学部の教職を辞し、父の事業の後継者となり、北海道家庭学校の教頭として赴任。同24年(1949)から同44年(1969)までの20年間校長を務め、学校改革に尽力した。
  3男の留岡幸男は警視総監。

   著書に『社会と人道』『明暗剳(とう)記』『自然と児童の教養』などがある。昭和54年(1979)1月『留岡幸助著作集』(全五巻)が京都の同朋舎から出版された。留岡家の墓は高梁市頼久寺町のキリスト教会の墓地にあり、幸助が建立している。高梁市柿木町の、高梁市郷土史料館前の中央公園の北西角に「留岡幸助顕彰碑」が昭和60年(1985)に建立されている。
  ⇒ 新島襄金森通倫・留岡幸男(すぐ下の項目) (参)「高梁市史」「有終」「遠軽町史」「一路白頭ニ至ル」

注1: 留岡 金助(とめおか きんすけ)
    天保6年〜明治37年6月7日(1835〜1904)
高梁南町で米屋を営む。号は吐樂、高梁古今詞藻に俳句を残している。墓は高梁市頼久寺町のキリスト教墓地に妻勝子と共にある。幸助が建立している。

注2:妻の留岡夏子
      明治33年(1900)4月30日没。
      川上郡下切(現・高梁市玉川町下切大成)の森峰(もりほう)定五郎・むめ の11番目の末っ子。養子幸助の嫁にと13歳のとき留岡金助の養女として引き取られる。13歳のとき幸助が座敷牢に入れられているのを助け出し、幸助は四国の今治へ。その後留岡家を出て下切の実家に帰るが、再び高梁の須藤英江医師のもとへ奉公に出る。須藤もキリスト教徒であり感化を受け明治17年(1884)3月高梁教会でケリー牧師から受礼した。後、神戸の女子伝導学校に進む。

注3:徳富 蘆花(とくとみ ろか)
   明治元年〜昭和2年(1868〜1927)
    名は健次郎。熊本県水俣・惣庄屋兼代官の家の2男として生まれる。評論家の徳富蘇峰は兄。小説家。京都同志社で学び、兄・蘓峰の経営する民友社に入り、翻訳・紀行・短編小説などを『国民之友』『国民新聞』に発表。『不如帰(ほととぎす)』『自然と人生』で文壇の地位を確立した。(参)「学芸百科事典」 
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とめおか ゆきお:留岡 幸男 (2)

明治27年4月16日〜昭和56年5月3日(1894〜1981)
高梁市松山出身
県知事、警視総監

 上房郡松山村(現・高梁市)で留岡幸助・夏子の三男に生まれる。4歳の時、一家で上京。
 大正8年(1919)東京帝国大学法科大学独法科を卒業。同年内務省に入り、兵庫県加東郡長、石川県・京都府の各理事官、栃木・千葉両県の学務局長、香川・新潟・神奈川各県警察部長、警視庁警務部長を歴任。そして北海道総務部長を歴任。
  昭和14年(1939)第33代秋田県知事、翌年内務省地方局長を務める。次いで同16年(1941)10月、東条英機内閣の下(もと)で警視総監となり、太平洋戦争の開戦当時の治安維持を担当した。翌年6月勇退。
  戦時中、中央教化団体連合会理事長などを務めた。同21年(1946)1月、北海道庁長官となるが、わずか3カ月で公職追放となる。京
  浜港運会長、統計印刷工業会長の傍(かたわ)ら、趣味のテニスと将棋を楽しみ、追放から解放された後は自治省参与となる。また、戦前から父の事業を受け継いだ次弟留岡清男の北海道家庭学校を援助した。
  ⇒  留岡幸助(すぐ上の項目) (参)「コンサイス日本人名事典」「日本の歴代知事」 
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