×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。

《し》

しおた とらお:塩田 虎尾

天保13年3月18日〜大正2年1月20日(1842〜1913)
高梁市御前町(御前町通りの東北角)
備中松山藩士

 備中松山城下石火矢町(現・高梁市)の田那村吉郎の四男。兄作人は大小姓格・70石取。
養祖父、仁兵衛は備中松山藩士、中小姓並・10石3人扶持。山田方谷は、嘉永2年(1849)藩の元締役(兼吟味役)になった時、藩財政の全権を握る会計長官であった為、金回りが良いように思われ、痛くも無い腹を探られるのが嫌で、自分の家計を仁兵衛に依頼し、万事を仕切らせ、自分は一切家計に手を出さなかった。
 養父、秀司は、山田方谷が江戸で西洋流の砲術を学んで帰った後、幕臣・下曾根金三郎の門に入り砲術を学び、評判の高弟となるなる。後に虎尾も江戸に出て江川太郎左衛門の門の入り砲術を学んだ。
 御前町に養子に入り、明治になると柿木町、向町に移り住んだ。
 文久2年(1862)9月アメリカからスク―ネル型帆船(長さ18間・幅4間位・二本マスト、後快風丸と名づける)を備中松山藩が購入する。この年の11月に快風丸を備中松山藩領玉島港に廻航する事になり、操船技術を学んだ虎尾は、加納格太郎、柏原一二三等と乗船。この船に軍艦操練・天文・数学や英語まで勉強していた、上州安中藩(板倉家の分家)の新島しめた七五三太(じょう襄)が乗船し、江戸・玉島港を往復した。
また、元治元年(1864)3月、新島は横浜から箱館まで快風丸に乗船。箱館より渡米した時、虎尾もこれを助けた。明治13年(1880)2月、新島襄はキリスト教布教の為に高梁を訪れた。
山田方谷新島襄加納格太郎

しなの ともはる:信野 友春

明治23年10月8日〜昭和45年7月4日(1890〜1970)
広島県世羅郡出身、高梁市内山下居住。
岡山県立高梁中学校教諭(旧制)、歴史研究家

 広島県世羅郡広定村で生まれる。明治41年(1908)広島県私立日彰館教員養成所を卒業し、広島県尋常高等小学校本科正免許状を取得。同45年(1912)3月私立日彰館中学校を卒業し、同年3月広島県豊田郡椹梨(しんり)尋常小学校訓導(教師)を務めた。その間に公立実業補習学校教員資格を取得し、その後、広島県下各地の小学校・補習学校で15年間勤務。
 大正13年(1924)7月難関の中等教員免許状「歴史科の内、日本・東洋」を取得して、その年10月宮崎県立宮崎中学校に栄転、さらに3年後の昭和 2年(1927)9月30岡山県立高梁中学校 (現・高梁市)のに赴任した。
 赴任後、城下町高梁に非常に興味を持ち研究に着手。息子の友文や友文の友人の高見彰らに測量を手伝わし、2年後に『備中松山城及其城下』を発表し、同5年(1930)3月26日「昭和 4年度特殊事項研究物」として県から奨励賞を受け、ついで同年11月10日高梁方谷会より不朽(ふきゅう)の名著「備中松山城及其城下」が広く頒布(はんぷ)された。
 平成3年(1991)3月、高梁市郷土資料刊行会により復刻再版され今日なおこの書は高く評価されている。
 この著によって多くの後輩が松山城の真価を知り、昭和15年(1940)には当時の高梁町長永井恒三郎により天守閣の解体大修理がなされ、以後次第に保存の輪が広げられ、平成7〜9年(1995〜97)にかけて五・六の平櫓、南・東御門、土塀などが復元され、また、同10年(1998)からは城下町の町並み保存にまで発展した
 。友春こそ松山城保存の先駆者であり市の恩人でもある。天守解体の計画を誰よりも喜びながら、昭和14年(1939)3月末をもって教職を去り郷里に帰り、父の跡を継ぎ氏神八幡神社の宮司となった。その傍ら甲怒町教育委員長なども務めた。昭和45年その地味な学研の生涯を終えた。80歳。
  ⇒ 永井恒三郎 (参)「高梁市史」 
TOPに戻る

しばくら しゅうきち:柴倉 修吉

生没年不詳 (戦国時代末…1500年代の終り)
高梁市中井町
宮大工

 備中松山地方(現・高梁市) は備中兵乱(天正2〜3年=1574〜75)により三村氏が滅ぼされ、毛利氏の領地となった。この荒廃した領地の復興が行われる事になり、天正年間(1573〜91)毛利氏に仕えていた河原壱岐守誉吉の子修吉が、宮大工として寺社復興の命を受けて西方村(現・高梁市中井町)柴倉へ移住。柴倉対馬守修吉と称したので、以後この家を土地の人は対馬屋と呼ぶようになった。
 修吉の「柴倉流」は宮大工として栄えた。その後、中井町と北房町中津井に別れたが、代々名工を輩出し、巨瀬・北房・大佐方面のほとんどの寺社が柴倉大工の手により新・改築された。
  正徳年間(1711〜1715)の修吉は公儀普請大工となり、中井町西方の定光寺山門を建築している。また延享元年(1744)柴倉万右衛門正勝は、備中松山藩主石川総慶(ふさよし)が板倉勝澄と交替で伊勢の亀山へ国替になったとき、備中松山城の図面をひいている。末孫の柴倉浅太郎は大正2年(1913)に山田方谷の木像を制作した。
 ⇒ 石川総慶山田方谷 (参)「高梁の人物」「崑山片玉集」 
TOPに戻る このページの先頭へ

しばはら そうすけ:柴原 宗助(1)

弘化4年5月17日〜明治42年3月17日(1847〜1909)
高梁市本町(井原市出身)
宗教家、地方政治家、教育者
  幼名は恭二のち宗助、号は秋村。後月郡井原村(現・井原市井原) の柳本甚八郎の二男に生れる。
 幼少の時興譲館で阪谷郎廬(注1)に学び、次いで大阪で薬局に勤め、その後京都で新島襄の同志社で学ぶ。帰郷後高梁・本町94番地の酒造業柴原家の養子となる。
 明治元年(1868)には酒造業のほか柴原文開堂を開店し、書籍・文具・小間物・薬の販売、書籍の出版、郵便引受などを営み、高梁地方の文明開化の先駆(さきが)けとなる。
 同11年(1878)学習結社「開口社」を赤木蘇平等と設立し、自由民権を骨子とした政治論を展開する。翌12年(1879)2月、上房郡から初回の岡山県議会議員に当選した。千葉県の桜井静の「国会開設懇請協議案」にいち早く対応し、山陽諸県 県議会議員連合会設立に動き、国会開設運動や民選議員選出請願運動に尽くした。
 同年10月4日、中川横太郎(注2)・金森通倫(みちとも)(注3)を高梁の自宅に招き、キリスト教の宣教の講演会を開いた。彼等の招きにより、同13年(1880)2月17日キリスト教の信者として有名な新島襄(にいじまじょう)(注4)が来高したが、その後彼とも親交があった。
 同15年(1882)高梁キリスト教会設立の中心となり、この年の 4月26日金森通倫によって福西志計子ら14人と共に洗礼を受け本格的に信仰の道に入った。同14〜15年(1881〜82) には、一部の町民による高梁キリスト教の迫害を受け、同17(1884)には紺屋町の会堂(注5)で宗助等が説教したが、反対住民の暴動が起きた。
 また同14年(1881)12月上房中学が設立された時、「高梁には漢学専門の有終館はあるが、小学校を卒業した者に日新の学問を教える学校がないこと、岡山や津山に中学がある」などの理由により、板倉信古らと設立に向け尽力した。
  また、順正女学校設立に加わり、同18年(1885)1月順正女学校初代校長になるが、翌19年(1886)に職を辞し、京都へ移り書店を開業、同志社御用達となり、自由民権運動に復帰。板垣退助、植木枝盛、大井憲太郎らの知遇を得る。
 同24年(1891)高梁に青年雑誌社を設立、政治雑誌「自由之天地」を発刊。同31年(1898) 請われて後月(しつき)郡井原町長となり8年間務める。記念通りの新設、権現山の無償払い下げ、井原女学校の設立など井原発展の基礎をつくった。同38年(1905)には上房郡有漢村長に就任、同42年(1909)3月高梁の新町で没した。
 5男2女を設けたが、成人したのは2男1女。日本画家柴原魏造(ぎぞう)は4男。
  ⇒福西志計子・柴原魏造(すぐ下の項目)・板倉信古赤木蘇平 (参)「高梁市史」「崑山片玉集」「備作人名大辞典」

注1:阪谷 朗廬(さかたに ろうろ)
   文政5年〜明治14年(1822〜1881)
   小田郡美星町出身
   幕末の漢学者、教育者

    川上郡九名村(現・小田郡美星町)で、代々造り酒屋を営んでいた坂田良哉の三男として生まれる。通称素三郎、のち希八郎。名は素(ひろし)。字は子絢。朗廬はその号。
 6歳のとき父良哉(幕府代官の属吏) に従って大坂に出て、奥野小山・大塩平八郎に学ぶ。天保3年(1832)再び父の転任に伴い11歳で江戸に移り同郷の師・昌谷(さかや)精溪に学ぶ。同9年(1838)17歳のとき再び江戸に遊学し、昌谷(さかや)精溪、古賀嬰庵に入門し後塾頭となる。岡山・広島などの諸藩より招かれるが、これを断る。
 26歳の時、母の病気で帰郷、後月郡簗瀬(やなせ)村桜渓(現・芳井町)に「櫻溪塾」を開く。嘉永6年(1853)寺戸村(現・井原市西江原町) に興譲館が創設されると、招かれて館長となる。明治元年(1868)広島藩に招かれ藩儒となり同3年(1870)藩主に従い東京に出る。
 廃藩置県(明治 4年=1871)となり陸軍省・司法省・大審院・内務省に務め、退官後(明治12年=1879)東京学士会院議員に選ばれる。(参)「有終」「崑山片玉集」

注2:中川 横太郎(なかがわ よこたろう)
   天保7年〜明治36年4月15日(1836〜1903)
   岡山市番町の人
   明治の実業家・教育事業家
   名は金次、のち横太郎。父中川亀之進は岡山藩の馬乗役。
 横太郎は学問には興味を示さなかったが抜群の記憶力があった。明治4年(1871)断髪令が出るといち早く頭髪を切るなど、好奇心の持ち主で岡山の人達に敬愛された。
 翌5年(1872)学区取締となり、県内小学校の新設、岡山県病院の充実や医学校(現・岡山大学医学部)の設立にも力を尽くした。
 のち県を辞し、自由民権運動やキリスト教の布教に従事、新島襄(じょう)や金森通倫(みちとも)等とも親交を深めた。同20年(1887)岡山薬学校(のち関西中学校、現・関西高校) の創設にあたり、指導的な役割を果たし校主となる。さらに山陽女学校の世話人となり経営不振の回復のため資金集めをした。
 岡山紡績所の設立、二十二国立銀行の取締役に就任するなど実業界でも活躍した。
 岡山の烏城公園入口に近い濠端に「健忘斎中川横太郎君之碑」がある。 (参)「岡山の人物」「高梁市史」

注3:金森 通倫(かなもり みちとも)
   安政4年8月〜昭和20年3月(1857〜1945)
   熊本県天水町出身
   岡山県におけるキリスト教伝導の創始者
    肥後国玉名郡小田郷小天(おあま)村(現・熊本県天水町)で金森繁蔵の二男として生まれる。
 熊本洋学校で学び、明治9年(1876)京都同志社英学校神学部に入学。学生時代から来岡し伝導。同12年(1879)卒業後、岡山県内で伝導。
 翌13年(1880)岡山基督教会が設立されると、初代の牧師に就任。石井十次も通倫に洗礼を受けた。また高梁では留岡幸助、山室軍平らの社会事業家を育てた。同19年(1886)岡山教会を辞し、同志社の神学部教授となる。
 のち一時キリスト教から脱会するが、再び信仰の道に戻る。 (参)「高梁教会120年史」「高梁市史」「岡山教会百年史」

注4:新島 襄(にいじま じょう)
   天保14年〜明治23年(1843〜1890)
   明治初期の宗教家(キリスト教) ・教育者、同志社大学の創始者
    神田一ッ橋外の上野国(現・群馬県)安中藩(備中松山藩板倉氏の分家) の江戸藩邸で、新島民治の子として生まれる。第五子で長男であったため、七五三太(しめた) と名付けられた。
 16歳で右筆見習いとして藩邸に出仕。傍ら蘭学を学び、欧米の文明に触れ大いに感ずるところがあり、元治元年(1864)22歳のとき米国に密航、洗礼を受ける。
 明治13年(1880)2月17日(38歳)、高梁小学校付属裁縫所(旧・女紅場)で、キリスト教の演説会を開いた。この時に妻の八重子に宛てた手紙に、当時の高梁の様子が詳細に書かれている。
 この中で、旧知の原田亀太郎の父煙草屋(たばこや)市十郎を新町に尋ね「…私に逢しは、伜に逢し同様と申され大いに喜び呉候」と書いている。 (参)「高梁市史」「学芸百科事典」

注5:紺屋町の会堂
    明治17年(1884)6月27日、高梁の紺屋町で柴原宗助、須藤英江等が、キリスト教の説教を行った時、土砂(どしゃ)を投げつけられたり、罵声を浴びせられるなど甚だ不穏であった。7月6日の説教の時には紺屋川の両岸に溢れていた聴衆が大声を発し、罵声を浴びせ、石や蛇・蛙を投げ込み、手当たり次第に打ち砕いて川に投げ込むなどし、人身に危害を加えようとしたので、警察官の出動を要請した。この頃はまだまだ、キリスト教に対する迫害は激(はげ)しかった。この紺屋町の会堂は宗助の所有地で高梁市鍛冶町16番地(現・田中紙店)にあり、同22年(1889)9月15日、現在の高梁市柿木町26・27番地にキリスト教会堂が新築された。(参)「高梁市史」 
TOPに戻る このページの先頭へ

しばはら ぎぞう:柴原 魏造(2)

明治18年7月16日〜昭和29年9月9日(1885〜1954)
高梁市本町
日本画家
 柴原宗助(宗教家・地方政治家・教育者)の4男として高梁市本町に生まれる。号は魏象または希祥。
 明治38年(1905)3月京都市立京都美術工芸学校の絵画科専攻科を卒業。同39年(1906)・同40年(1907)・同42年(1909)に京都新古美術展に入選。同40年(1907)京都美術工芸学校の助手となり、大正2年(1913)助教諭を経て教諭となる。翌年には京都絵画専門学校(現・京都芸術大学)の嘱託職員も兼ね、昭和5年(1930)両校を退職。その間小野竹喬、池田遙邨(注1)らと友好を深め、各種展覧会に出品入選した。同21年(1946)日展が開催されると委員となる。
 高梁市の頼久寺本堂に水墨画の襖絵(ふすまえ)が描かれている。同29年京都で没。
⇒ 柴原宗助(すぐ上の項目)・小野竹喬 (参)「伸びゆく高梁」

注1:池田 遙邨(いけだ ようそん)
   明治28年11月〜昭和63年9月 (1895〜1988)
   倉敷市玉島乙島出身
   日本画家
   本名はf一。明治43年(1910)大阪で松原三五郎の天彩画塾に入り、洋画の勉強をする。
 大正2年(1913)小野竹喬と知り合い、日本画に興味を持つ。同8年(1919)京都に出て竹内栖鳳の画塾・竹杖会に入る。この頃より遙村と号した。
 同10年(1921)京都市立絵画専門学校別科に入学。この頃ムンクやゴヤの影響を受け刑務所や火葬場等の暗い作品を制作。
 昭和27年(1952)日展参事、翌年評議員、のち参与、顧問を歴任。 同35年(1960)前年の日展出品作品『波』で日本芸術院賞を受賞。昭和59年(1984)文化功労者となる。この頃から放浪の俳人、種田山頭火シリ−ズに着手。
 同62年(1987)文化勲章を受賞。倉敷市名誉市民。 (参)「遺作展画集」「倉敷市立美術館」 
TOPに戻る このページの先頭へ

しみず じゅすけ:清水 壽助(1)

江戸時代末期の人
高梁市新丁(現・弓之町)
備中松山藩士(士格並・4石3人扶持)

 藩主板倉勝静の文武奨励策により、安政年間(1854〜60)家老の嫡子板倉杢・団藤善平と共に、伊勢国(現・三重県)津藩の渡辺内膳に剣を学び神妙流の極意を得た。この時三島中洲も津藩・斉藤拙堂の塾の塾長を務めていたので友好を深めた。帰藩後、団藤善平と共に藩士領民に剣法を指南した。
⇒ 板倉勝静三島中洲団藤善平 (参)「高梁市史」「昔夢一斑」 
TOPに戻る このページの先頭へ

しみず ただし:清水 質(2)

万延元年6月7日〜明治38年1月18日(1860〜1905)
高梁市新丁(現・弓之町)
教員・官吏

 名は濯、字は孫嬰(そんおう)、通称勘一郎のち質、号は溪外。備中松山藩士・清水壽助の次男。
 小学校の教員、のち裁判所に務める。福西志計子・木村静が明治14年(1881)12月10日私立裁縫所(順正女学校の前身)を高梁市向町に開設したとき、創立に当たって蓑内鉱一郎と共に助力を与えた。
 高梁市名誉市民の清水比庵(秀(ひで))は長男。清水三渓は三男。『高梁古今詞藻』に詩を残している。
 ⇒清水比庵(すぐ下の項目)・清水三渓(二つ下の項目)・清水壽助(すぐ上の項目)・福西志計子木村静蓑内鉱一郎 (参)「高梁市史」「高梁古今詞藻」 
TOPに戻る このページの先頭へ

しみず ひあん:清水 比庵(3)

明治16年2月8日〜昭和50年10月24日(1883〜1975)
高梁市弓之町のち荒神町
高梁市名誉市民、歌人、書家、画家、栃木県日光町長

 本名は秀(ひで)、号は比舟のち比庵。清水質(ただし)・すへの長男。清水三渓は弟。
 昭和46年(1971) 9月30日、三人目の高梁市誉市民に推戴される。
 尋常高梁小学校、高等高梁小学校、高梁中学校(旧制)に進み、明治38年(1905)第六高等学校卒業、明治41年(1908)京都帝国大学法学部卒業、司法官として神戸地方裁判所へ勤務。同42年(1909) 4月笹田ツルと結婚(昭和17年(1942)11月、55歳で死去)。翌年長女明子(はるこ)誕生。同43年(1910)判事となるが退官。安田銀行に入社、のち古河銀行、古河電気工業を経て、昭和 5年(1930)栃木県日光町長に就任、同14年(1939)町長を退任。後は東京都に在住したが愛郷心が厚く、度々高梁へ帰郷して後輩を激励した。同33年(1958)日光名誉市民に推された。
 同41年(1966)には正月の宮中新年歌会始めの儀の召人に選ばれ、御題「声」の一首を詠進した。晩年は書・画家として独特の境地を拓き、多数の愛好者の人気を集めた。
 昭和17年(1942)弟の画家三渓と共に「野水(やすい)会」を創立し、同37年(1962)奥村土牛・小倉遊亀らの賛助を得て有山会を創立。歌誌「窓日」を主宰したことも世に知られている。
 平成 9年(1997)開館した高梁市文化交流館に「比庵歌境の間」が設けられ、長女明子より寄贈を受けた数多くの作品が所蔵されている。同11年(1999)高梁に比庵会が発足した。
 ⇒ 清水質(すぐ上の項目)・清水三渓(すぐ下の項目) (参)「高梁市史」「清水比庵・三渓遺作展資料」 
TOPに戻る このページの先頭へ

しみず さんけい:清水 三渓(4)

明治28年8月27日〜平成4年5月6日(1895〜1992)
高梁市荒神町
歌人・書家

 名は浩(こう)、三渓は号。清水質(ただし)・すへの三男。高梁市名誉市民の清水比庵(秀(ひで))は長兄。明治30年(1897)2歳のとき永井尚方の養嗣子となるが、のち復籍(大正9年・1920)。
 大正4年(1915)高梁中学校(旧制)卒業。のち東京外国語学校、慶応義塾大学経済学部を卒業。日本銀行に入行。同10年(1921)日本経済連盟に入り書記長を務める。その後産業調査会に移り、昭和11年(1936)東京株式取引所取引員組合へ入り、同23年(1948)東京証券取引所理事となる。
 一方、歌を好み昭和17年(1942)兄比庵らと野水(やすい)会を創立、同37年(1962)奥村土牛・小倉遊亀らの賛助を得て有山会を創立。各種の展覧会を開催する傍ら高梁にも多くの愛好者がいてよく来高した。「書と絵、比庵・三渓兄弟展」「比庵追悼三渓展」「三渓八十路展」などを開き多彩な創作活動をした。
 同60年(1985)高梁市川面町中倉に、「三渓記念館」として培根郷土館、美術館と共に三渓園が整備された。三渓が培(ばい)根(こん)小学校、高梁中学校(旧制)の3年間勉強した所で、培根小学校の廃校に伴い、三渓の書画が展示されている。
⇒ 清水質(二つ上の項目)・清水比庵(すぐ上の項目) (参)「高梁観光百選」「清水比庵・三渓遺作展資料」 
TOPに戻る このページの先頭へ

しょう ためすけ:庄 為資(1)

生年不詳〜天文22年2月15日(?〜1553)
 猿懸(さるがけ)城主のち備中松山城主
戦国時代(注1)の武将
 戦国時代の備中国の武将。小田郡猿懸(掛)城(現・真備町・矢掛町境)城主。のち上房郡松山城(現・高梁市) 城主。
 呼称は治部大輔、のち備中守。荘、又別姓穂田(ほいだ)(穂井田)とも言う。小田郡草壁荘(現・矢掛町) 出身。「庄氏系譜」では庄元資の嗣子と記してある。庄高資は子。
 永正5年(1508)足利(あしかが)義稙(よしたね)が周防・山口の守護大内義興(よしおき)の助けで入京し、再度将軍になったとき備中の武将石川左衛門尉・三村宗親らと共に供奉(ぐぶ)した。
 その後尼子氏に属し、天文2年(1533)為資は植木秀長の応援を得て、備中松山城を攻略して、毛利氏の後援下にあった守護代上野伊豆守頼氏と弟の上野右衛門尉を滅ぼした。これにより備中半国1万貫の地を領し、備中松山城主となり備中守を称した。呰部(現・北房町) 上合寺山城を築き、中津井(現・北房町) の斉田城を尼子氏より賜った。
 毛利麾下(配下)の三村家親勢と戦った猿懸城合戦では、家親の子元祐(のち穂田元資)を為資一族の猿懸城番穂田実近の養嗣子に迎えることで和睦し、事実上猿懸城は三村氏の城となった。法名は上合寺殿前備中大守花岩柳江戸大居士。
  ⇒ 庄高資(すぐ下の項目)・三村家親上野頼氏 (参)「高梁市史」「上房郡誌」
注1:戦国時代 … 室町時代の後半、応仁の乱が地方に波及する頃から室町幕府の滅亡するまでの約1世紀(文明12年= 1480〜天正元=1573) 
TOPに戻る このページの先頭へ
            

しょう たかすけ:庄 高資(2)

生年不詳〜元亀2年(?〜1571)
備中松山城主
戦国時代の武将

 戦国時代の備中国の武将。備中松山城主。小田郡草壁荘(現・矢掛町)出身。庄為資の子。幼名は大六。庄氏第二代の備中松山城主、嫡子は勝資(かつすけ)。
 父為資、高資共に普段は猿懸城(現・真備町・矢掛町境)に居り、松山城は部将吉田左京義辰に守らせた。
 天文22年(1553)、為資の跡を継いで備中守となり、備中松山城主となるが、永禄 2年(1559)3月成羽・小松山に出陣した毛利隆元勢の後ろ盾を得た成羽鶴首(かくしゅ)城主三村家親によって攻められ、永禄 4年(1561)備中松山城は落城、高資は備中松山城から後退。
 しかし、同10年(1567)三村氏が妙善寺合戦で大敗すると、備前宇喜多勢が備中に侵入、尼子勝久も国衆と結ぼうと動き、高資は宇喜多勢の支援の下に備中松山城を奪回したが、元亀2年(1571)三村元親と毛利元清の連合軍に破れ戦死、備中松山城は再び落城した。小田郡三成荘(現・矢掛町東三成付近)の禅応寺に葬られた。
 この時嫡子の勝資は、竹庄(現・賀陽町) におり、松山城落城、高資討ち死にの報を聞き、おどろいて尼子を頼り出雲に逃(のが)れた。
 その後勝資は毛利輝元に召(めし)返(かえ)され帰国。天正 4年(1576)植木秀長らの一党と共に児島(現・倉敷市) 麦飯(むぎめし)山城主明石源三郎と戦い、槍を執ってこれを突き伏せたが、源三郎の手の者により討死した。
 毛利輝元はこの功に感じ、その子若宮丸に跡を継がせたが、朝鮮の役で戦死。勝資の弟資直が庄家の跡を継ぎ、子孫は英賀郡津々村(現・高梁市中井町津々)に住み着いた。
⇒ 庄為資(すぐ上の項目)・三村家親三村元親 (参)「高梁市史」 
TOPに戻る このページの先頭へ

しょうだ そうけい:荘田 霜渓

天保5年〜明治20年2月19日(1834〜1887)
高梁市柿木丁(町)
備中松山藩士(大小姓格・50石扶持)、漢学者・漢学詩人

 名は正寛。幼名は亀之進。字は子栗。通称賤夫(しずお)。霜渓は号。別に所甘廬(しょかんろ)。
 父は正邦(彌治郎)で嘉永 7年(1854)没。禄高30俵を継ぐ。有終館(備中松山藩校)に入り、進鴻渓・服部犀渓に学び、有終館の句読師となったが、安政年間(1854〜1860)江戸へ遊学し幕府の儒員林晃に従学し、また昌平黌(江戸幕府の学問所)でも学んだ。
 帰藩し有終館の会頭(副校長) 、そして督学となる。慶応 2年(1866)禄50石を賜り監察となる。また慶応元年(1865)から明治 4年(1871)まで、柿木丁の自宅(現・高梁保育園々庭付近) で家塾を開き、漢学・書道を30人余りの子弟に教えた。
 慶応4年(1868)1月、鳥羽伏見の戦いが起き、朝敵となった松山藩は備前藩に接収され、続いて大坂在勤の熊田恰(あたか)の一隊が玉島(現・倉敷市) へ帰着したとき事態の収拾のため三浦仏巌(泰一郎)と共に目付を務めていた霜渓は玉島に出向いた。明治2年(1869)に高梁藩知事板倉勝弼(かつすけ)の傅(ふ)(補佐役) 兼侍読(じどく)(注1)、また高梁藩の第四等監察職員となる。同4年(1871)副文教官となる。
 廃藩後、小田県より招かれたがこれを断り、家塾を開く。一方、暇を見つけ山田方谷に陽明学を学んだ。同6年(1873)美作の知本館(注2)で山田方谷が閑谷学校の往復の度に講義し、服部犀渓(陽輔)が塾頭として教育していたが、翌7年(1874)末温知(おんち)館(かん)(注3)が開校されると霜渓も教授として迎えられた。同8年(1875)犀渓が職を辞したのに伴い霜渓がこれを継ぎ、服部犀渓の養子拳斉が霜渓の跡を継いだ。
 46歳の同12年(1879) 9月14日有終館が再興(注4)されると館長として迎えられ、開館式には裃(かみしも)で祭主となり祭文を朗読した。備中はもとより備後あたりからも多くの子弟がやってきていた。また毎月一回「警沈餘事」と言う漢文の雑誌を発行した。霜渓が同20年(1887) 2月1日(54歳)死去すると共に有終館も消滅した。
 霜渓は温順勤厚、利にとらわれず、質素で常に子弟の教育に力を注いだ。朱陸(注5)の学問に長じ漢詩を能くし高梁古今詞藻にも残している。高梁市御前神社境内の鳥居の右側に、同23年(1890) 8月、三島中洲撰文の「霜渓荘田君碑」が建立されている。墓は高梁市大工町の正善寺にある。
   長男要(字は小心、通称は要二郎、号は翼斉)は幼いときから家塾で学び、二松学舎に進み、次いで東京大学古典講習科、司法省・法学校を卒業。判事となり台湾総督府検察官、台南、台北の地方院検察官長を歴任。退官後弁護士となる。
 次男益(字は仲友、通称は益三郎、号は克堂)は家塾で学び、有終館に入る。大阪で医学を学ぶが28歳で逝去。
 三男教(字は彬叔、通称は教四郎、号は鴎處)は家塾で学び、上京して法律学を学ぶが25歳で逝去。著書に『鴎處遺稿』。
⇒ 進鴻渓(四つ下の項目)・熊田恰三浦仏巌(泰一郎)板倉勝弼服部犀渓山田方谷
(参)「高梁市史」「霜渓荘田君碑」「高梁古今詞藻」「昔夢一斑」「高梁二十五賢祭~畧傳」

注1:侍 読…学問を教授する学者。侍講(じこう)ともいう。 
注2:知本館…閑谷(しずたに)学校が再興された明治6年
(1873)美作の大戸下村(現・柵原町)に直原又十郎・福田久平等によって開校された塾。隣村の北和気村の矢吹正誠が荒地を寄付し、山田方谷は塾生にこれを開墾させ、茶や桑を植えさせ、この様な体験を通し真の学問を教えた。
注3:温知館…明治7年(1874)末に、矢吹正誠が美作の北和気村に設け、山田方谷の命により荘田霜渓が教師となる。
注4:有終館が再興…明治12年(1879)当初は本町の佐藤と言う酒造家の旧宅。本町筋では最も広大な普請(ふしん)で、俗に佐福屋銕造(てつぞう)といい旧藩時代は鉄問屋も兼ねていた。現在の平川写真館が表玄関であった。表玄関は「構え本陣」と呼ばれた。1〜2年後ここが郡役所になると、片原丁の野村真兵衛(当初の有終館の建設に尽力した野村竹軒の後裔(こうえい))の旧宅に移った。現在の検察庁の所。のち生徒の減少により、柿木丁の霜渓の自宅に移した。現在の高梁保育園々庭付近。⇒野村竹軒
注5:朱陸…中国南宗の大儒学者朱熹と陸象山。 
TOPに戻る このページの先頭へ

しょう なおあつ:荘 直温

生年不詳〜昭和3年6月1日(?〜1928)
高梁市松山
松山村長、高梁町長

 明治25年(1892)3月9日から同26年(1893)2月24日まで第二代高梁町長、同27年(1894)4月から大正3年(1914)3月25日まで5期松山村長、更に同12年(1923)9月8日から昭和3年(1928)6月1日、直温が急逝するまで2期高梁町長を務めた。その間郡議会議員を4期務めるなど、人望も厚く賞勲局から2回に亘り木杯を授け、また文部大臣から教育功績者として表彰を授けている。
 その業績は、明治37年(1904)日英同盟を記念して桜の苗木数百本を、旧藩時代に轟橋(がらがらばし)の近くにあった「木槿(むくげ)垣番所」から「町口番所」のあった「和霊神社」の辺りまで植樹した。これは大正末期から昭和初期にかけて、関西一の桜の名所と言われ、桜の花のトンネルに「ぼんぼり」の灯に見る夜桜は一段と興趣を添え、満開時には臨時列車が出るほどであった。太平洋戦争勃発とともに、桜も老木になっていたので伐採されその姿を消した。
 同43年教育功労者として社団法人私立上房郡教育会より表彰される。高梁町と松山村の町村合併を推進し、大正13年(1924) 6月26日に、上房郡長寺尾哲之の招致で高梁町長荘直温と松山村長中島直次郎が、両町村の合併を推進するため郡役所で協議した。これにより昭和4年(1929)5月10日町村合併が実現した。
 (参)「高梁市史」「上房郡誌」 
TOPに戻る このページの先頭へ

しょうほうしまる:勝法師丸

永禄11年〜天正3年(1568〜1575)
備中松山城主三村元親の子

 戦国時代の終り、毛利軍は小早川隆景を総大将として、毛利氏を離反した三村氏の討伐(備中兵乱)に出陣。
 天正3年(1575)5月、当時8歳の勝法師丸は都窪郡幸山(こうざん)城(現・山手・清音村境) 城主石川久式(ひさのり)(元親の妹婿) の子と共に備中松山城から密(ひそ)かに備前の天神山城へ落ちのびようとした途中、伊賀左衛門尉久隆に捕らえられ、毛利軍の本陣がある井山宝福寺(現・総社市井尻野)に移送された。
 小早川隆景は「その口才、助け置かば今後戦(いくさ)の種になるであろう」と勝法師丸の利発さに恐れをなし井山の谷で殺害した。昭和50年(1975)6月2日、備中松山城主修理進三村元親四百年遠忌として勝法師丸の供養碑が、高梁市の頼久寺に祖父家親、父元親の墓の側(そば)に建立された。
⇒ 石川久式(ひさのり)三村元親三村家親 (参)「高梁市史」「高梁の名碑」 
TOPに戻る このページの先頭へ

しらが たんあん:白神 澹庵

文政7年8月25日〜明治21年8月25日(1824〜1888)
高梁市出身
幕末・明治の日本画家

 名は謙蔵、号は澹庵・半溪(はんけい)・春涛(しゅんとう)。備中松山(現・高梁市) に生まれる。
 初め四条派を学び、のち南画に転じ、浦上春琴に私淑(注1)する。笠岡の小野家の婿養子となるが、各地を放浪。小野竹喬(注2)の祖父。
 主に玉島・柚木家の別荘澆花園(きょうかえん)に奇寓し当地の文人墨客と交流し画を描いた。明治元年(1868)神戸に出て、輸出用の団扇に絵を描き、非常に評判が良く利益を得たという。
 春琴風の山水画や花鳥画を得意としたが中でも花鳥は緻密であり沈南蘋の風があるといわれた。これ等に優れた作品が多いが、人物画も描いた。(参)「笠岡市資料」「岡山縣人名辭書」

注1:私淑--密(ひそ)かにこれを模範に学ぶ
注2:小野 竹喬(おの ちっきょう)
   明治22年11月20日〜昭和54年5月10日(1889〜1979)
   笠岡市笠岡西本町出身
   日本画家
    名は英吉。南画家で高梁出身の白神(しらが)澹庵(たんあん)の孫。帝国芸術員会員、昭和43年(1968)文化功労者に選ばれ、昭和51年(1976)『奥の細道句抄絵』は竹喬芸術の集大成といわれた。この年文化勲章を受ける。昭和57年(1982)笠岡市立竹喬美術館が開館した。
 (参)「竹喬美術館資料」「岡山県美術名鑑」 
TOPに戻る このページの先頭へ

しん こうけい:進 鴻渓(1)

文政4年10月15日〜明治17年11月21日(1821〜1884)
阿賀郡(現・新見市) 生まれ。高梁市川面町、御前丁(山田方谷旧宅)
備中松山藩士・漢学者

 名は漸。通称は昌一郎。字は于逵(うき)。号は鴻渓・鼓山・帰雲・晩年祥山と改める。阿賀郡唐松村(現・新見市唐松) の村上(進)吉敦の子。
  幼少より学問を好み、天保3年(1832)12歳の時新見藩の思誠館に入り丸川鹿山(ろくざん)に学ぶ、18歳の時上房郡川面村(現・高梁市川面) 藤井延年の養子となる。妻は藤井延年の娘。備中松山藩儒山田方谷の私塾牛麓舎(高梁市御前町)で開塾当初より学ぶが肺病になる。
 天保14年(1843)江戸に出て佐藤一斉に学び、次いで昌平(しょうへい)黌(こう)(江戸幕府の学問所)に入り4年間学ぶ。帰郷後川面で塾を開く。弘化3年(1846)備中松山藩主板倉勝静に召し抱えられ、3人扶持を給され藩士となる。嘉永5年(1852)8人扶持に加増され、中小姓格に進み、備中松山藩校有終館の会頭(副校長)となる。川面より松山城下(高梁市御前町の山田方谷旧宅) へ転居し、方谷の業績を継ぐ。進氏に復姓。
 安政2年(1855)には、松山城下鍛治町へ「町方教諭所」開設の意見書を提出し、これを実現した。翌 3年(1856)学頭(校長)に昇進し禄50石を賜る。文久元年(1861)吟味役兼元締、同3年(1863)取次役兼文武目付、元治元年(1864)備前(岡山)・作州(津山)播磨(兵庫)その他諸藩に出向き、燐国と友好を修めた。
 征長の役(注1)には広島・大坂におもむき諸藩の間を周旋し、広島では予(あらかじ)め陣屋・運送・食糧などの準備に出向く。慶応年間(1865〜68)には再び学頭及び洋学総裁、撫育銀方総裁・農兵頭に任ぜられ町奉行を兼ねた。
 慶応4年(1868)鳥羽伏見の変が起き、藩主板倉勝静(かつきよ)が将軍に従って江戸に東下したとき備中松山藩は朝敵となり、鴻渓は隣藩の偵察などに奔走。備前藩の鎮撫使が松山城下に入った時は、奉行役の鴻渓と目付役の横屋譲之助が城下入り口の木槿垣(むくげがき)まで出迎え、本丁の総門(現・内山下入り口)まで案内し家老大石隼雄・井上権兵衛へ引き継ぎ、無事藩の引き渡しを終えた。次いで熊田恰一隊が玉島へ帰着したときは家老井上権兵衛に同行し玉島へ出向く。
 明治 2年(1869) 9月17日旧藩主板倉勝静の謹慎が解け、岡山藩(旧備前藩)に預けられていた城地が返還されたとき、井上権兵衛らと共に引き渡しを受けた。これにより藩士たちは、懐かしい元の屋敷に帰ってきた。
 同年11月、板倉勝弼(かつすけ)が高梁藩(旧松山藩)知事に任命されると、高梁藩の少参事兼文教官に任命され、翌3年(1870)権大参事となり公議人を兼ねたが、同4年(1871)7月廃藩置県になると職を辞して、川面に帰り子弟の教育をする。暫くして成羽、天城中学校(静修館) 、堺県師範学校、栃木県師範学校などに招かれ教師となる。同14年(1881)頃職を辞して再び川面に帰り家塾「川面塾」を開き来遊するものが数十人に上った。
 病に罹り同17年(1884)没。64歳。墓は川面町市場裏の玉の坂にある。性格は温和で慎み深く、よく人と交遊した。よく肥えており酒豪で酔えばよく笑った。これを見て人は昌一郎を笑一郎とあだ名した。
 学問は朱王(朱子学・陽明学) で漢文に優れていた。松山藩の教育では山田方谷に次いで三島中洲と並び賞された。
 著書に『鴻渓遺稿』『春秋私録』『冬夜漫筆』などがある。高梁市の、八重籬神社の鳥居の右側に、明治36年(1903)8月三島中洲撰文の「鴻渓進先生墓碣銘」の碑が、また、高梁市川面町に昭和63年(1988)6月、百三回忌にあたり「進鴻渓先生顕彰碑」が建立された。
 長男昭(あきら)(鳴門(めいもん))は有終館の助教を務めた。
⇒ 山田方谷板倉勝静大石隼雄井上権兵衛熊田恰三島中洲・進鳴門(すぐ下の項目)・横屋譲之助幸喬
(参)「高梁市史」「高梁の名碑・鴻渓進先生墓碣銘」「有終」「岡山縣人名辭書」「上房郡誌」
注1:征長の役…第一次征長の役。長州征伐、元治 元年(1864)11月。 
TOPに戻る このページの先頭へ

しん めいもん:進 鳴門(2)

天保11年〜明治10年5月13日(1840〜1877)
高梁市御前丁(山田方谷旧宅)
備中松山藩士、漢学者

 名は昭、字は子徳、通称は太郎、鳴門はその号。進鴻渓(しんこうけい)の長男。
 幼少より父に家塾で学ぶ。江戸に出て昌平(しょうへい)黌(こう)(徳川幕府の昌平坂学問所) で安井息軒(そゅけん)に経史を学び、帰藩後は有終館の助教を務める。明治維新後は大阪に住む。東京より船で帰る途中、海に身を投じて没。38歳。父譲りで漢詩を能くし、『高梁古今詞藻』に残している。
⇒ 進鴻渓(すぐ上の項目) (参)「高梁古今詞藻」「岡山縣人名辭書」 
TOPに戻る このページの先頭へ

しん りょうしゅう:進 梁州(3)

安政6年〜大正6年(1859〜1917)
高梁市御前丁(山田方谷旧宅)
教育者

 名は龍男、梁州はその号。進鴻渓(しんこうけい)の二男。
 幼少より父に家で学ぶ。東京に出て三島中洲の二松学舎で学び、次いで司法省法学校に入るが中退。山陽新報、日本新聞などを経て、札幌北鳴学校・農学校の教授となる。のち台湾総督府殖産局の吏員となる。漢詩を『高梁古今詞藻』に残している。
⇒進鴻渓(二つ上の項目)・三島中洲 (参)「高梁古今詞藻」 
TOPに戻る このページの先頭へ