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みうら ぶつがん:三浦 佛巌

文政12年〜明治43年12月16日(1829〜1910)
高梁市向丁(現・高梁市立図書館の入り口)
備中松山藩士、漢学者(中小姓並、10石2人扶持)

 名は義端。字は正卿。通称は泰一郎。号は佛巌。漢学者。
  幼い頃から学問を好み、山田方谷の門に入り経史を研鑽(けんさん)。進鴻渓(しんこうけい)・三島中洲と並んで山田門下の三傑と称された。
 安政(1854〜60)前後に藩校有終館会頭となり、ついで奉行に進み大目付を兼ねた。また農兵頭、外交方を務め政務にも参画した。慶応年間(1865〜68)隣藩に使し、戊辰(ぼしん)の役(慶応 4年=1868)の時には大いに奔走・活躍した。
  明治2年(1869)賀陽郡種井村(現・総社市種井)に帰農。同5年(1872)小田県大属、次いで同15年(1882)岩手県師範学校教諭となる。同17年(1884)岡山に帰り、家塾「漢文専修学舎」を開き子弟に教える。
 同25年(1892)に上道郡西大寺村(現・岡山市西大寺)に転居。老いてもなお勉学をいそしみ、余技に詩を賦(ふ)し(作る)、書を揮毫(きごう)(かく)した。
 易学を父(三浦平太)から受け『周易説約徴象』の著書があり、三島中洲が序文を作ったが発刊には至らなかった。次男の大塚香(かおる)(鐵軒(てっけん))は、岡山県会議員(議長2回)、関西中学(現・関西高等学校)校長、天城中学(現・天城高等学校)を設立、校長を務めた。
  著書に『周易説約徴象』『佛巌遺稿』(象外烟霞詩屋詩草・東遊吟稿・参禅余唾・喜捷余吟・咏物小詩・客中文詩・辛丑吟稿・丁末吟稿・戊申吟稿の各編)がある。
⇒ 山田方谷進鴻渓・三島中洲(すぐ下の項目)・大塚香  (参)「高梁市史」「高梁二十五賢祭~畧傳」「高梁古今詞藻」「有終」 
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みしま ちゅうしゅう:三島 中洲

天保 元年12月 9日〜大正 8年 5月12日(1830〜1919)
倉敷市中島出身、高梁市小高下 
     備中松山藩士、漢学者・宮中顧問官

 名は毅。字(あざな)は遠叔。通称は幼い頃は廣次郎、21歳頃より貞一郎。号は桐南、41歳以降は生地に因み中洲、時には檜荘(かいそう)、晩年には陪鶴(ばいかく)、陪龍(ばいりゅう)とも号し、揮毫(きごう)(書画を書くこと)に用いた。
 川田剛と同じ天保 元年(1830)生まれ。生地も同じ備中南部。都窪郡中島村(現・倉敷市中島577番地)の里正(りせい)(庄屋)三島正晃(壽太郎)の二男。祖父・父ともに近くの西阿知の丸川松隠に師事し漢学を修めた。母は備中浅口郡の大庄屋小野光衛門以正の女(むすめ)で、柳(りゅう)。
  8歳のとき、父は貢米輸送(中島村は幕府の直轄領。祖父は里正、父は里正試補)で江戸に出張中に病死(33歳)。賢母に育てられ、寺子屋で学び、学問で名を挙げたいと考え、11〜12歳の頃漢学者・丸川松隠の女婿(むすめむこ)龍達が、近くの西阿知村の家を継ぎ、医業の傍ら学問を授けていたので、ここで句読を受け四書五経を学ぶ。その折、玄関の衝立に書いてあった山田方谷の13歳の作「諸葛孔明を詠ずる七律」を見て、意味は分からなかったが非常に感銘を受け、山田方谷を崇拝するようになる。
 天保14年(1843)14歳の時、1 日かけて中島から松山まで8里を徒歩で行き、山田方谷(38歳)の家塾「牛麓舎」に入門。16歳のとき詩を賞賛され「毅・遠叔」の名字を選んで貰った。この頃川田剛(甕江)を訪ね、終生盟友となる。
   主として陽明学を学び、嘉永 元年(1848)19歳で「牛麓舎」の塾長となる。以降、讃岐(現・香川県)、伊予松山(現・愛媛県)、伊勢の津(現・三重県)に遊学し、吉田松陰等当時の漢学者と交遊を図った。後に方谷は門下の俊英として「剛毅(ごうき)」の二字を分け川田に「剛(たけし)」三島に「毅(つよし)」の字を与えたという。
 同5年(1852)23歳のとき、伊勢(現・三重県)津に遊学し、文を斎藤拙堂に学ぶ。当時、津藩は学政が盛んで、蔵書も多く「文藩」と呼ばれていた。この時川田剛(甕江)が江戸に遊学の途中訪問した。
  同7年(1854)1月、二回目にペリーが日米通商条約締結のため来日した時には、備中松山藩より津へ中洲を尋ねてきた石川源太郎等と共に、横浜へ黒船の様子を見るために赴く。このときの様子を『探辺日録』に残している。
  安政 5年(1858)(29歳)江戸に遊学し、昌平(しょうへい)黌(こう)(幕府の学問所)に入り佐藤一齊、安積艮齊(あさかごんさい)に学ぶ。 翌 6年(1859)、山田方谷の推挙により、備中松山藩主板倉勝静(かつきよ)より出仕の命があり、藩士に取り立てられる。
 30歳のとき帰藩し、藩校有終館の会頭となり、のち学頭に昇る。この年、長岡(現・新潟県)藩士・河井継之助が山田方谷の師事を受けけるために来藩、親交・知見を広める。文久 2年(1862)、尊皇攘夷と倒幕で世情が不安定なため、老中を務めていた藩主板倉勝静の命をうけ中国、四国、九州の諸藩を探訪する。また、中洲は方谷と共に藩の顧問となり、諸藩の間を調整した。この年、寺田屋騒動が起き、以後倒幕運動は益々激しくなる。
   元治元年(1864)35 歳のとき、長州征伐に従軍。翌慶応 元年(1865)藩主側役(そばやく)として京都に上る。同2年(1866)倉敷代官所焼討事件などに対応する。この間中洲は、度仕(たくし)(大蔵大臣)として藩政の安定に務めた。
   39歳の同 4年(1868)1月3日、鳥羽伏見の変により幕府軍は破れ、藩主板倉勝静は朝敵として追討された。中洲・方谷・甕江らの朝廷への助命・板倉家の再興の運動が実り明治 2年(1869)実現した。この年、板倉勝弼(かつすけ)が高梁藩知事になると家令(秘書)を務め、傍ら小高下の自宅で家塾「虎口舎」を開き、子弟の指導にあたった。
 同 5年(1872) 8月、43歳のとき、朝廷の召しに応じて上京、法官となり翌年(1873)常陸(現・茨城県)の新治裁判所長となる。同8年(1875)東京に帰り判事となり、翌9年(1876)大審院特別判事。同10年(1877)現職大審院判事が廃官となり退職。
 同 5年(1872)頃から西洋の学問が急速に流行したが、人の心を鍛えるには東洋の道徳学問こそ重要であるという堅い信念に基づき、同10年(1877)東京・麹町に漢学塾「二松学舎」(現・二松学舎大学)を創設。以来、講学と民法成立に務め、東京高等師範学校、東京帝国大学教授(同14年/1881)を歴任。この頃、夏目漱石が二松学舎で学ぶ。同18年(1885)東京学士院会員。同21年(1888)大審院検事。同29年(1896)69歳の時川田甕江の死去により東宮侍講に任ぜられた。同32年(1899)文学博士となる。大正元年(1912)大正天皇践祚(せんそ)(天皇の位を受け継ぐこと)後も、侍講を務めた。同4年(1915)勲一等に叙せられたが翌年、病のため辞職、宮中顧問官に任ぜられた。同 8年(1919)90歳で逝去。正三位旭日大綬章を授ける。

 学問の根源は、師山田方谷の学問にあり、即ち実用を重んじ、国を治め、民を助けることを主とするところにあり、古今諸家の学説を折衷している。最も偉大な功績は育英の事業であり、特に二松学舎を設立し、漢学の発展に寄与した点である。文は、同じ備中松山藩士であった川田甕江(おうこう)、歴史学者重野(しげの)成斎(せいさい)と共に明治の三大文宗と言われた。著書は50余種あり、刊行された主なものに『論語講義』『中洲講話』『中洲詩稿』『中洲文稿』『論学三百絶』などがある。

 高梁市の御前神社の南、秋葉山の西麓に、中洲の「生歯碑」がある。中洲の二人の夫人と夫々(それぞれ)の養女二人の墓の傍らに自分の生歯を埋め、明治36年(1903)3月、碑が建立(こんりゅう)されている。また生歯碑は倉敷の西阿知駅のすぐ近くにある三島家の菩提寺、実際寺の墓所の、中洲の母と兄の墓の傍らに生歯を埋め、同じ時に「生歯碑」が建立されている。
   また維新後松山藩は朝敵と見なされ藩の減封(5万石から2万石)、士族の減禄などが他藩より厳しく行われ、士族の困窮は甚だしかった。これを救済するため、中洲は板倉勝静、板倉勝弼(かつすけ)、川田甕江らと諮り明治12年(1879)、板倉家の財産と諸藩士の禄券(金禄公債証書)を合わせて資本金として第八十六国立銀行を高梁に設立した。この時頭取と成ることで準備を進めていた神戸(かんべ)秋山(しゅうざん)が開業(明治12年5月1日)前の4月15日急逝した。秋山の死去により、支配人の堀周平が頭取となるが、1円札と5円札はすでに印刷されており、改刷する事もできずそのまま発行された。中國銀行高梁支店(高梁市旭町)の玄関を入った左側に掲額されている。第八十六国立銀行の事業開始から 120年となる平成11年(1999)に、発祥の地である高梁市下町(現・高梁市観光駐車場)に中國銀行の淵源として記念碑が建立された。

 長男の三島桂は、実業家で、第八十六国立銀行の取締役に明治30年(1897)1月から6月まで、また株ェ十六銀行の取締役には同年7月から翌年11月まで就任していた。
  三男の雷堂(らいどう)(明治11年〜大正13年 2月 1日(1878〜1924))は、教育者。名は復。字は一陽。東京帝国大学文科を卒業後、二松学舎で教鞭を執った。著書に「陸象山哲学」「陸王哲学」「哲人山田方谷」など。『高梁古今詞藻』に詩を残している。

⇒ 川田剛(甕江)丸川松隠河井継之助山田方谷板倉勝静佐藤一齊板倉勝弼神戸秋山(しゅうざん)堀周平
(参)「高梁市史」「高梁二十五賢祭~畧傳」「高梁古今詞藻」「高梁川」「中國銀行五十年史」 
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みずかわ えんぞう:水川 圓蔵

生年不詳〜明治13年3月7日(?〜1880)
高梁市鉄砲町
備中松山藩士(士格並・4石扶持)

 嘉永 6年(1853) 6月、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリ−が黒船で来航して以来、世情は不安定になり、備中松山藩主板倉勝静は、旧に倍する文武奨励を藩士に申し渡した。これにより安政 2年(1855) 8月、横屋憲蔵(幸喬)と共に九州柳川藩(現・福岡県南西部)槍術師範加藤右衛門の塾に入り修行した。後に倅(せがれ)の義太郎を連れ再び同塾に入った。続いて吉田文治郎なども同塾に入門した。
 明治維新(1868)後に創立された啓蒙社(後の高梁小学校)に勤務。奥忠彦は満4歳で啓蒙社に入っているが、彼の圓蔵の印象は、「水川圓蔵という老人、これは藩の槍術師範であったが、この時は啓蒙社の世話役兼生徒監督を務めていたと思うが非常に真面目な人であったため一面にはよく学事の世話をすると共に一面生徒には叱り役と呼ばれて髪を茶筅(ちゃせん)に結(ゆ)ったむずかしい顔で絶えず校内を見回り、悪戯(わるさ)をしている者があると厳格な態度で説論を加えるのでこわいお爺さんとして恐れられていた。」と述べている。
 廃藩置県の後、啓蒙社は高梁小学校となるが、山田準(済斎)の述懐によると彼が小学校に入ったのは、明治5・6年(1872・73)の頃で、「首席教員として校長の仕事をしておられた吉田寛治(藍関)先生……生徒監督の水川圓蔵……などの人が思い出される。」といっている。その後松山小学校にも務めた。墓は、高梁市の頼久寺にある。
⇒ 板倉勝静横屋幸喬奥忠彦山田準(済斎)吉田寛治(藍関)吉田文治郎 (参)「高梁市史」「昔夢一斑」 
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みずの ぜんざえもん:水野 善左衛門

江戸時代初期の人(1600年前半の人)
備中松山藩士

 備中松山藩主池田長幸(ながよし)(1587〜1632)(初代)に仕える。 300石取。鉄砲十挺を預かる。忠勇でよく臣節を尽くした。
 池田長幸の子で第二代藩主池田長常(ながつね)は、生まれつき勇敢でよく藩士を愛し、武の道を講義し、常に祖父長吉(ながよし)以来の老将を近付けて政事を論じ、軍術を談じさせた。

 寛永の頃(1624-44)長常が言うには、高祖の勝人(池田信輝)は武勇で鳴らした人であり、自分はこれに習って、「今もし天下の為に義兵を挙げる事があれば自分から兵士に先だって、守りの堅い陣を造ろう。あなた方老臣は自分に代わって兵士に下知せよ」といった。一座はその壮志を感じた。その時80余歳の善左衛門は、おもむろに「ただいまのお言葉は、綺麗ではありますが、道理においてよくない。勝人公の時とは違い、主将は、兵士を統率して戦況を見て兵を動かす者こそ良将と思う」と憚(はばか)る事なく直諫(ちょくかん)(はばからずにその非をあげていさめること)した。これを喜んだ長常は「自分は大益を得た」と言って、盃を与え金銭を賞賜したと言う。
⇒ 池田長幸池田長常 (参)「備作人名大辞典」 
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みずのや かつうじ:水谷 勝氏(1)

生年不詳〜享禄元年9月15日(? 〜1528)
(初代) 伊勢(いせの)守(かみ)勝氏(かつうじ)

  文明10年(1478)常陸国(現・茨城県)の真壁郡下館(しもだて)に城を築き領内安堵のため羽黒大権現を勧請した。京都では結城(ゆうき)左近監と名乗り二ツ引御紋を許される。勝隆まで在城した。

(二代) 兵部大夫勝国 
?〜天文10年 7月28日(?〜1541)
(三代) 伊勢守勝之  
?〜天文21年 8月 2日(?〜1552)
      八田某の大軍を追い勝利を得る。
(四代) 兵部大夫勝吉 
?〜永禄10年 2月15日(?〜1567)
      八田某の所領12郷を攻略した
(五代) 伊勢守治持(はるもち)
?〜元亀 2年 9月25日(?〜1571)
    宇都宮城主某を攻め、中村12郷を攻略した。
(六代) 兵部大輔正村、号は出羽入道蟠竜斉(ばんりゅうさい)(水谷正村の項にあり)
(七代) 右京大夫勝俊(かつとし)(治持の次男) (水谷勝俊の項にあり)
(参)「水谷左京亮勝宗公三百年祭記」「水谷家系譜」

◎水谷家系譜
正村(蟠竜斉(ばんりゅうさい))
 | 
勝俊(かつとし)
 |
(1)勝隆(かつたか)
 |----------------|
 |            |
(2)勝宗(かつむね)    (勝俊の兄) 勝能(かつよし)(旗本・小坂部水谷氏)
 |-----------------------|
 |                 |
(3)勝美(かつよし)(除封)   勝時(かつとき) (旗本・布賀水谷氏)

   ■(1)(2)(3)は備中松山城主

 
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みずのや まさむら:水谷 正村(2)

大永 2年〜慶長 3年 6月 8日(1522〜1598)
水谷氏 第六代

 兵部大輔正村、号は出羽入道蟠竜斉(ばんりゅうさい)。
 下野国(しもつけのくに)(現・栃木県)芳賀郡久下田に新城を築き、わずか60騎の者と移り住んだ。
 永禄年間(1558〜70)に、北条・武田・上杉の間隙を縫って、揺(ゆ)るがない地歩(ちほ)(注1)を下館周辺に築いた。蟠竜斉と弟勝俊とは、天正10年(1582)の天目山(てんもくざん)の合戦で、武田勝頼を滅ぼした織田軍麾下(きか)(注2)の徳川家康に、甲州新府(武田勝頼の旧居城)の陣で謁(えつ)(注3)し浜松への凱旋に従った。
 この年、備中では高松城の水攻めがあり、続く摂津山崎の戦いで明智光秀を討った羽柴秀吉が、織田信長の後を継いで覇権に大きく近づいた年でもある。蟠竜斉は機敏にこの時期を捉(とら)えて秀吉にも誼(よしみ)を通じた。
 同18年(1590) 5月に、主君結城晴朝(はるとも)が小田原攻めに参陣した時、秀吉の養子の羽柴三河守秀康(注4)を晴朝の養子とすることにして、秀康は結城三河守を称した。蟠竜斉は陰の功労者として秀吉にも好感を持たれた。
 家康にもその信任の厚かった大僧正天海(注5)を通じ、なにかと働きかけた。蟠竜斉は慶長 3年(1598)6月 8日、76歳で没したが、その後を継ぐ男子がなく弟勝俊にそれを譲った。
⇒ 水谷勝俊(すぐ下の項目) (参)「高梁市史」「水谷左京亮勝宗公三百年祭記」 

注1:地歩…立場、位置、地位。
注2:麾下…(大将の指図する旗の下の意から)将軍直属の家来。部下。
注3:謁 …貴人、目上の人にお目見え(面会)すること。
注4:羽柴三河守秀康…徳川家康の第二子で二代将軍秀忠の兄に当たり、秀吉の養子になっていた。
注5:天海…蟠竜斉は天海がまだ修行僧の時、下館に新宗光寺を建立(こんりゅう)し天海を迎え、勝俊も又、寺領 2百石を贈り、続いて勝隆は天海の要請を受け、不忍池に小島を造り、弁天堂を建立。又天海開山の東叡山寛永寺に宿坊を寄進するなど、水谷三代にわたって深い関係があった。
◎水谷家系譜
 
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みずのや かつとし:水谷 勝俊 (3)

天文10年〜慶長11年 6月 3日(1541〜1606)
常陸国(現・茨城県)下館(しもだて)城主
水谷(みずのや)氏 第七代

 右京大夫勝俊(かつとし)。治持(はるもち)の次男。幼名、弥五郎。伊勢守。
 勝俊は兄正村(蟠竜斉(ばんりゅうさい))同様勇将で26歳の時、常陸国(現・茨城県)真壁、下野国(しもつけのくに)(現・栃木県)芳賀(はが)の両郡の内に3千石を領した。
 これより先、上杉謙信は永禄 9年(1566)下総国(現・茨城県)臼井城を攻めたが、勝俊は結城晴朝(ゆうきはるとも)に従い、先鋒を務め、抜群の手柄を立て、又しんがりとなって敵兵を討ち取ったので、謙信は大いにこれを賞し、「下総国金地五千騎のうち勝俊を以て一本鎗(やり)と稱すべし」と感状を授けた。また徳川家康にも誼(よしみ)を通じ、上洛の供奉もつとめた。
 天正18年(1590)家康の入国の際には、案内の大役を果たし、慶長5年(1600)上杉景勝討伐、佐竹右京大夫討伐にも出陣した。慶長 3年(1598)、兄正村(蟠竜斉)の没後養子となり、その遺領を継いだ。3万石を常陸国に賜わり下館城主となる。慶長11年(1606)没。65歳。
 ⇒ 水谷正村(すぐ上の項目) (参)「高梁市史」「水谷左京亮勝宗公三百年祭記」
◎水谷家系譜
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みずのや かつたか:水谷 勝隆(4)

慶長2年〜寛文4年5月3日(1597〜1664)
初代備中松山藩主
水谷氏 第八代

 伊勢守勝隆。京都で生まれる。
 慶長11年(1606)勝隆が10歳の時、父水谷勝俊没後の遺領を常陸(ひたち)国(現・茨城県)・下野国(しもつけのくに)(現・栃木県)の内において3万2千石を継ぎ常陸国下館(しもだて)城に在城。
 はじめ彌太郎。この年始めて二代将軍徳川秀忠に謁(えっ)し、12歳の正月元日、従(じゅ)五位下(ごいのげ)伊勢守に叙任され、同14年(1609)には常陸国笠間城を守衛した。この年、江戸城の本丸と西城との間で桟橋を構え、四座の大夫を召して猿楽興行が行われたとき、徳川家康より「譜代の席の中に加えるように」と言われ、家老を江戸城に赴(おもむ)かせ列座した。
 同19年(1614)、大坂冬の陣のときには、18歳で桑名(現・三重県)の城番を勤めていたが、徳川秀忠の命により大坂玉造の攻め口を攻撃した。また元和元年(1615)大坂夏の陣にも出陣、功を立てた。同 3年(1617)、徳川家康入洛の時には供奉し、同 5年(1619)にも同様であった。同 9年(1623)徳川家光が入洛の時にも供奉し、寛永 3年(1626)の入洛の時には徳川秀忠の命を受けて大坂城の城番を勤めた。
 同 7年(1630)封地のうち下野国芳賀郡久下田の新墾田1万5千石が加増となり、合わせて4万7千石となる。同15年(1638)武蔵国河越(かわごえ)(現・埼玉県川越)の城番を勤めた。

翌16年(1639) 6月 5日封を備中国(現・岡山県西部)に移され備中国川上郡の4万石と播磨国(現・兵庫県)美袋郡の内1万石との合計5万石を受け、天草(現・熊本県)へ国替になった山崎氏の後の成羽(現・岡山県成羽町)へ入国した。
 備中松山城へは、同18年(1641)池田長常の除封後の翌19年(1642) 7月28日に入国した。備中松山入国より、新見、松山、玉島間の舟路を開き、商工業の保護・育成に努めると共に、慶安 4年(1651)には農地の実態を把握するための検地を実施し、新開田畑や荒れ地を開墾した。
 また松山川(現・高梁川)の下流デルタ地帯や海岸地方で長尾外新田、船穂中新田、玉島新田など次々と新田開発を行った。
 万治 2年(1659)八田部村(現・総社市)の庄屋大森次郎元直を新田開発の普請奉行に命じ、寛文 5年(1665)、236町の新田が完成した。そして船穂村(現・船穂町)水江より玉島港までの9qに及ぶ高瀬通し(運河)を開通させ、舟運の利便を図ると共に灌漑用水にも利用した。また、備北を支配するため、新見の町づくりを行い鉄山(かなやま)開発による鉄荷物やその他の物資の集散地とした。

 正保 2年(1645)3月23日松平右近輝興が所領播磨国(現・兵庫県)赤穂城を収公(注1)されたとき赤穂城を受け取り守衛した。又同4年(1647)には肥後国(現・佐賀県)唐津城主寺沢兵庫頭堅高が処罰改易(注2)された時、城番として唐津に赴(おもむ)き、万治2年(1659)には江戸城三重櫓の修築をつとめた。

勝隆は信仰心も厚く、寿覚院、祇園寺、松連寺(高梁市内)などの建立(こんりゅう)・再建・寄進を行い、御前神社の「時の鐘」は勝隆が寄進し三百年鳴らされたが、第二次世界大戦の供出(きょうしゅつ)により失われ、鐘楼だけが残っている。また慶安元年(1648)より原村(高梁市和田町)八幡宮祭礼に五穀豊穣と町家の繁盛を祈って踊らせたのが松山踊りの「地踊り」(注3)の始まりである。
 下館城主として33年間、備中松山城主として25年間つとめた。寛文 4年(1664)没。68歳。墓は定林寺(高梁市和田町)にあり、「水谷公墓塔」は高梁市の重要文化財に指定されている。また同じく定林寺に所蔵されている「水谷勝隆公肖像・水谷勝宗公肖像(絵画)」も高梁市の重要文化財に指定されている。
⇒ 水谷勝俊(すぐ上の項目)・大森元直・水谷勝宗(すぐ下の項目) (参)「高梁市史」「水谷左京亮勝宗公三百年祭記」 
◎水谷家系譜

注1:収公…幕府に没収されること。
注2:改易…武士の身分を奪って、家緑・屋敷を没収すること。
注3:松山踊りの「地踊り」…「仕組踊り」は板倉勝澄が延享元年(1744)備中松山へ入国してから、町民の踊り「地踊り」を武士に見ることを許さず、武士の子弟に踊らせたのが始まり。
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みずのや かつむね:水谷 勝宗 (5)

元和9年〜元禄2年2月19日(1623〜1689)
第二代備中松山城主
水谷氏  第九代

 左京亮勝宗。初代備中松山城主水谷勝隆の長男として江戸に生まれる。母は肥後国唐津城主8万石寺沢志摩守藤原広高の娘。幼名は父と同名で弥太郎と言い、父27歳のときの子である。
 寛永19年(1642)、19歳のとき従(じゅ)五位下(ごいのげ)左京亮に叙任され、幕府に出仕した。寛文4年(1664) 7月18日、父の遺領5万石の内、4万8千石を継ぎ、遺領の内2千石を弟新左衛門勝能(かつよし)に与える。延宝5年(1677)新開地と合わせ5万石となる。天和元年〜同3年(1681〜83)にかけて、願い出て備中松山城の修築を行うと共に臥牛山の南麓に城主の居館兼政庁である御根小屋を完成させた。
 貞享(じょうきょう)元年(1684)徳川氏に対して、先々代正村(まさむら)からの結城(ゆうき)家や大僧正天海の関係、又譜代に近い気持ちもあり、願い出て譜代となる。帝鑑間(ていかんのま)詰めとなり、江戸桜田に屋敷を与えられた。江戸城への出仕が多くなり国元(備中松山)の政務は嫡男勝美(かつよし)と城代家老鶴見内蔵(くらの)助(すけ)良俊に執らせた。
 松山城下の建設も池田氏に引き続き力を入れ、家中屋敷として新丁を、町屋は南町(寛文10年=1670)、東町(貞享2年=1685)を取り立てた(注1)。そして南町に牛市場を開設し、牛・馬の取引を行った。
 また、父勝俊の後を継いで玉島の新田開発を進め、寛文10年(1670)に阿賀崎新田工事に着手し 8年後の延宝 6年(1678)完成した。町屋割りを行うと共に問屋の誘致を行い玉島の建設を行った。
 玉島新田の西側に玉島港と松山(現・高梁)を短絡する「高瀬通し(注2)」を建設した。この水路は、高瀬舟を通すと共に新田開発のための灌漑用水路にもなっていた。「高瀬通し」の一の口水門から二の水門までの間は閘門(こうもん)式運河(注3)になっており、30〜50艘(そう)の高瀬舟が一の口水門を入ると、舟を繋(つな)いで水位が2〜3bになるのを待って二の水門を開いて下降させた。この方式はパナマ運河に先立つこと約 150年で、世界最古の閘門式運河である。
 元禄2年(1689)1月14日致仕(ちし)(注4)、18日五代将軍綱吉に得物青江次吉の刀を献じ、御台所(みだいどころ)に土御門院・順徳院両院の宸筆(しんぴつ)(注5)の和歌を献上した。同年2月没。67歳。墓は高輪(たかなわ)泉岳寺(東京)にあり、健岑全勇栄興院と号した。妻は青山大蔵少輔幸成の娘。  
定林寺(高梁市和田町)に所蔵されている「水谷勝隆公肖像・水谷勝宗公肖像(絵画)」は高梁市の重要文化財に指定されている。
また天和元年〜同3年(1681〜83)にかけて修築した備中松山城の天守に守護神として安置した「松山城宝剣三振」は平成8年(1996)岡山県指定重要文化財に指定された。
⇒ 水谷勝隆(すぐ上の項目)・水谷勝俊(二つ上の項目)・水谷勝美・水谷勝能(すぐ下の項目)・鶴見内蔵助 (参)「高梁市史」「高梁二十五賢祭~畧傳」「水谷左京亮勝宗公三百年祭記」
◎水谷家系譜
注1:取り立て…建設
注2:高瀬通し…高瀬舟を通す水路(運河)。
注3:閘門(こうもん)式運河…船舶を水門の開閉により、高低差のある水面に昇降させる装置。
注4:致仕…官職を辞し隠居すること。
注5:宸筆…天子(天皇)の直筆。 
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みずのや かつよし:水谷 勝能 (5-1)

寛永3年〜延宝8年8月5日(1626〜1680)
旗本・小坂部水谷氏の初代当主。

 備中松山藩主水谷勝隆の次男。初め弥四郎、新右衛門と称した。
 慶安3年(1650)9月、初めて将軍徳川家光に拝謁し、この日徳川家綱に付属せられ西城御小姓組の藩士に列す。のち本城に勤仕して承応元年(1652)12月廩米(りんまい)(注1)3百俵を賜る。
 寛文4年(1664)7月、父勝隆の遺領の内、備中国阿賀郡小坂部村・永富村・小南村などの2千石を分封され、小坂部村(現・小坂部町)に知行所を置く。
 その後、勝能(かつよし)は長男勝阜(かつおか)に千7百石、次男勝睦(かつちか)に小南村3百石を分与し、共にその家は幕末まで続いた。延宝8年(1680)日光山御殿及び本坊修理の奉行を務めた。
⇒ 水谷勝隆・水谷勝阜(すぐ下の項目)・水谷勝睦(二つ下の項目) (参)「高梁市史」「水谷左京亮勝宗公三百年祭記」
注1…廩米(りんまい):禄米(ろくまい)、扶持米(ふちまい) 
◎水谷家系譜
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みずのや かつおか:水谷 勝阜 (5-2)

 生年不詳〜享保5年(?〜1720)
 旗本・小坂部水谷氏

 水谷勝能(かつよし)の嗣子。幼名弥之助、信濃守、従五位。延宝8年(1680)父勝能の遺領備中国阿賀郡小坂部村、千7百石を継ぐ。元禄12年(1699)5百石の加増を賜る。勝能より 205年を経て明治元年(1868)まで続いた。 
⇒ 水谷勝能(すぐ上の項目) (参)「高梁市史」「水谷左京亮勝宗公三百年祭記」 
◎水谷家系譜
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みずのや かつちか:水谷 勝睦 (5)-3

生年不詳〜正徳 元年(?〜1711)
旗本・小南知行所の祖

 水谷勝能(かつよし)の次男。幼名小助、小左衛門。
  延宝8年(1680)父勝能の遺領備中国阿賀郡小南村、3百石の分与を賜り、小南知行所の祖。勝睦(かつちか)より 189年を経て明治元年(1868)まで続いた。
 ⇒ 水谷勝能(二つ上の項目) (参)「高梁市史」 「水谷左京亮勝宗公三百年祭記」 
◎水谷家系譜
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みずのや かつよし:水谷 勝美(6)

寛文3年〜元禄6年10月6日(1663〜1693)
第三代備中松山城主、水谷氏十代

 出羽守勝美。第二代藩主水谷勝宗の嫡男として生まれる。母は、青山大蔵少輔幸成の娘。 幼名を犬千代、勝明(かつあき)、勝賢(かつかた)、のち勝美(かつよし)と改める。
 寛文12年(1672)、10歳のとき四代将軍家綱に初見の礼を行い、延宝 4年(1676)12月26日、従五位下(じゅごいのげ)、出羽守に叙任される。元禄 2年(1689) 1月14日、27歳のとき父勝宗の隠居により、家督を相続。
 祖父勝隆(かつたか)・父勝宗の後を継いで土木事業を行い、民政に心を用いた。
 生来(せいらい)病気がちで在城 5年の、同 6年(1693)10月 6日、31歳のとき備中松山で逝去した。このため父勝宗の弟新左衛門勝能(かつよし)の子信濃守勝阜(かつおか)(従兄弟(いとこ))の長子弥七郎勝晴を養子として跡を継がせるように遺言し幕府に手続きをしたが許可が下りない内に勝晴は痘瘡(とうそう)(注1)に罹(かか)り、翌11月27日13歳で早世した。このため水谷家は断絶し除封された。しかし、祖先の功績により、勝美の弟勝時に川上郡布賀村(現・備中町布賀)に3千石の知行地を与えられ、一代交替寄合となった。この家は幕末まで続いた。
 勝美の墓は定林寺(高梁市和田町)にあり、祖父の初代勝隆の墓と共にある。「水谷公墓塔」は高梁市の重要文化財に指定されている。また高梁市落合町近似にある山王神社に元禄 6年(1693)勝美が寄進した「水谷出羽守寄進石燈籠」・「水谷公寄進(きしん)の手水鉢(ちょうずばち)」も高梁市の重要文化財に指定されている。 
⇒ 水谷勝隆水谷勝宗・水谷勝時(すぐ下の項目)・水谷勝能・水谷勝阜(二つ上の項目) (参)「高梁市史」「水谷左京亮勝宗公三百年祭記」
注1…痘瘡(とうそう)…疱瘡(ほうそう)、天然痘(てんねんとう)
◎水谷家系譜
 
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みずのや かつとき:水谷 勝時 (6-1)

寛文3年〜正徳4年8月10日(1663〜1714)
旗本・布賀水谷氏初代当主 

 第二代備中松山藩主水谷勝宗の子。第三代城主勝美と同年生まれ。幼名虎之助。はじめ家臣三上外記の養子となり三上水主(もんど)と称した。
元禄 6年(1693)11月、勝美(かつよし)の逝去により水谷家は断絶し除封された。しかし、祖先の功績により、勝美の弟勝時に川上郡布賀村(現・備中町布賀)に3千石の知行地を与えられる。旗本寄合に列せられ、同11年(1698)江戸(現・東京)三田新掘に屋敷を与えられた。
 元禄14年(1701)布賀陣屋を開設。この家は勝時より7代、 176年を経て明治元年(1868)に至る。正徳4年(1714)没。52歳。水谷勝美に仕えた家老鶴見内蔵助の子孫は、この知行所の代官を明治まで務め、現在も続いている。
⇒ 水谷勝宗・水谷勝美(すぐ上の項目)・鶴見内蔵助 (参)「高梁市史」「水谷左京亮勝宗公三百年祭記」
◎水谷家系譜
 
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みぞぐち やすお:溝口 靖夫

明治39年 9月 2日〜昭和53年 4月14日(1906〜1978)
高梁市柿木町出身
社会学者、神戸女学院大学学長・文学博士

 高梁キリスト教会牧師溝口貞五郎の子として生まれる。
 昭和4年(1929)同志社大学文学部神学科を卒業の後、渡米。シカゴ神学校を経て同6年(1931)シカゴ大学大学院神学部を卒業。更に京都大学大学院で学ぶ。
 同8年(1933)から神戸女学院専門学校教授。同23年(1948)学制改革で神戸女学院大学教授となり、同44〜47年(1969〜72)の間学長を務める。また図書館長、院長代行を兼務。同47年(1972)定年退職。その後、四国学院大学の教授の傍ら、日本基督教団正教師として伝道に従事した。
 専攻は宗教社会学。同24年(1949)キリスト教史学会創立の発起人の一人として奔走した。
著書に『宗教社会学研究』『差別感情とタブ−』『東洋文化史上の基督教』『旅人的人間』『松山高吉』『キリスト教の主要思想』など。
  (参)「岡山県人名辞典」「兵庫県大百科事典」 
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みのうち こういちろう:蓑内 鉱一郎

文久2年〜大正9年2月19日(1862〜1920)
高梁市向町
高梁町長・教育者

 名は鑛。字は錬卿。通称鉱一郎。号は耕雨、浩堂、蘭溪などがある。
 有終館で学ぶ。また吉田寛治(藍関)にも学ぶ。高梁尋常小学校の訓導(教員)となり、第四代の校長を務めた。
 明治14年(1881)12月10日、福西志計子・木村静が私立裁縫所(後の順正女学校)を高梁市向町に開設したとき、この創立に清水質(ただし)と共に助力を与えた。
 その後、高梁町長を同26年4月5日から大正6年11月28日(1893 〜1917) の間三代、六代〜九代の5期務めた。町長在任中の明治28年(1895)3月、順正女学校の第五代校長に就任。向町の私立裁縫所は生徒数が多くなったため、校舎建設の新築委員となり建築資金を調達し、同29年(1896)3月向町より頼久寺町に新校舎と寄宿舎を新築し移転した(のち伊賀町)。同31年(1898) 11 月、伊吹岩五郎が校長に就任するまで 3年余り校長を務めた。
 また同30年(1897)10月8日開業した轄wタ銀行の最初の常務取締役に同30年6月27日から同36年7月15日(1897〜1903) まで就任した。
  ⇒ 吉田寛治(藍関)福西志計子木村静伊吹岩五郎清水 質 (参)「高梁市史」「中國銀行五十年史」「高梁小学校統合百年の歩み」 
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みむら いえちか:三村 家親 (1)

生年不詳〜永禄9年2月5日(?〜1566)
 鶴首(かくしゅ)城主(成羽町)のち備中松山城主

 室町時代後期(1500年代中期)の備中国の武将。修理亮。備中守。
天文2年(1533)川上郡成羽の鶴首城主。のち上房郡松山城(現・高梁市)城主。攻城戦野の功を積み、智謀万人に優れた勇士であった。
 始め周防山口(現・山口市) の大内氏の旗下に属し、同9年(1540)出雲富田(とだ)城(現・島根県広瀬町)城主尼子晴久が備後(現・広島県東部)へ侵攻し、大内方の三次城(現・三次市)を包囲したとき、賀陽郡経山(きょうやま)城(現・総社市黒尾)城主中島(二階堂)氏行、上房郡野山城(現・賀陽町)城主野山宮内少輔らと大内氏に加勢して備後東条(現・広島県東条町)と出雲横田(現・島根県横田町)を結ぶ大坂峠に要害を構えて兵糧の通路を断ち、背後から晴久の本陣を攻めて多くの兵を討ち取った。
 翌10年(1541)尼子勢が再び備後に侵攻、毛利元就(もとなり)の守る郡山(こおりやま)城(現・広島県吉田町)を包囲したときにも、野山宮内少輔、川上郡丸山城(現・高梁市宇治町宇治)城主赤木忠国と再び大坂峠へ出陣、兵糧の通路を断ち尼子勢を撤退に追い込んだ。
 同12年(1543)大内義隆が出雲へ攻め入った時には、中島氏行らと先駆(さきがけ)けし出雲赤穴城(赤名城、現・島根県赤来町)を攻め落とした。
 同20年(1551)大内義隆が陶隆房(すえたかふさ)によって滅ぼされると、郡山城主毛利元就の旗下に属した。
 同22年(1553)元就の加勢を得て備中猿掛城(現・真備町、矢掛町境)を攻め城主庄(穂(ほ)井田(いだ))為資を降ろし、元就の命により家親の嫡子元祐を為資一族の猿懸城主穂田(ほいた)(庄)実近の養子に入れ猿懸城主とした。弘治元年(1555)元就が周防若山城(現・山口県徳山市)に立てこもる陶隆房を攻めたとき備中勢と共に加勢に出陣、武功を挙げた。
 永禄 4年(1561)毛利氏の将小早川隆景の加勢を得て尼子方の吉田義辰の守る上房郡松山城(現・高梁市 )を攻撃、成羽から松山城へ移った。この頃、元就は尼子氏征討の軍を出雲へ出陣、家親も備中勢と共に加勢し伯耆(現・鳥取県)に出陣、長期に渡って在陣した。同8年(1565)元就の許しを得て松山城に帰城、まもなく美作へ進行して大庭郡高田城(現・勝山町)を攻略、進んで勝南郡三星城を攻めた。しかし攻め落とすことはできず、翌年矛先を久米南条郡に向け、備前境に近い籾(もみ)村(現・久米南町)興善寺に陣を敷いていたとき、上道郡沼城(現・岡山市沼)城主宇喜多直家の命を受けた遠藤又三郎(のち浮田河内守)に鉄砲で撃たれ死亡した。
 高梁市頼久寺町の頼久寺に家親、子の元親、孫の勝法師丸の墓があり、家親の「三村公家親碑」が大正4年(1915)2月、三島中洲の撰文により建立されている。また孫の勝法師丸の供養碑も昭和50年(1975)に建立された。
⇒ 赤木忠国・三村元親(すぐ下の項目)・勝法師丸庄為資三島中洲 (参)「高梁市史」「高梁の名碑」 
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みむら もとちか:三村 元親 (2)

生年不詳〜天正3年6月2日(?〜1575)
安土・桃山時代の備中国の武将
備中松山城主

 上房郡松山城(現・高梁市)城主三村家親の二男。修理進。
 父家親が永禄 9年(1566)久米南条郡の備前境に近い籾(もみ)村(現・久米南町)興善寺に陣を敷いていたとき、上道郡沼城(現・岡山市沼)城主宇喜多直家の命を受けた遠藤又三郎(のち浮田河内守)に鉄砲で撃たれ死亡したため、元親が家督を相続し備中松山城主となり、毛利氏の旗下(きか)に属した。
 翌10年(1567)父家親の仇を討つため毛利方の備中勢を催し、その総大将として旭川を越え旭東へ進攻、龍(たつ)の口山麓から一気に沼城を突こうとしたが、宇喜多勢の攻撃のために味方が総崩れとなり、兄の備中猿掛城(現・真備町、矢掛町境)城主穂田(ほいた)(庄)元祐、幸山(こうざん)城(現・山手村・清音村境)城主石川久智、経山(きょうやま)城(現・総社市黒尾)城主中島輝行らも討たれた。この明禅寺合戦で敗れた後、元親の勢力は一時後退を余儀なくされ、同年 8月には上房郡才田城(現・北房町)も宇喜多直家に攻め取られ、元親は深手を負った。
 同12年(1569)毛利元清の加勢を得て才田城の奪回を試みたが失敗し、元亀 元年(1570)再び元清の加勢を得てようやく才田城を奪回した。
 叔父の親成を川上郡鶴首(かくしゅ)城(現・成羽町)に、弟元範を哲多郡楪(ゆずりは)城(現・新見市上市)に、末の弟実親を下道郡鬼ノ身城(現・総社市山田)に、妹婿の三村(上野)隆徳を児島郡常山城(現・玉野市・灘崎町境)に、そして川上郡国吉城(現・川上町)・上房郡才田城・下道郡猿掛城(現・真備町・矢掛町境)などの主要な城に一族を配して、備中の中・北部を支配した。
 天正元年(1573)織田信長に軍を追われた将軍足利義昭が毛利氏を頼って備後鞆(とも)(現・福山市鞆町)へ下向、その仲介により毛利氏と宇喜多氏が和を結ぶと、これを嫌って叔父親成の諌言(かんげん)(忠言)を聞かず織田信長と結んだ。このため翌 2年(1574)12月毛利・宇喜多の追討を受け、松山城に籠城、翌 3年(1575) 5月まで半年余りにわたり防戦したが、城兵に敵方に密通する者や降伏する者が続出、 5月22日に城を出て高梁川を渡り阿部山に隠れた。 6月 2日阿部山を出て奥万田の松連寺(後に現在の上谷町に移転)へ行き、通りかかった樵夫(きこり)に毛利氏本陣へ通報を頼み、駆け付けた検使役栗屋元方を前に辞世を詠み、介錯を頼み自害した。

 文化 6年(1809)「元親公辞世の碑」が奥万田の元親池(三村元親に因(ちな)み名付けられた)の堤に建立されている。
自然石の表面に  
鑵湯爐炭清涼殿 劔樹刀山遊戯城
   人といふ名をかるほどや末の露 きえてぞ帰るもとの雫に
裏面に  文化六己年 氏子中造立
 自害の時「鑵湯爐炭清涼殿 劔樹刀山遊戯城」と唱えたという。また辞世の和歌を詠んでいるように、元親は和歌に親しみ、細川幽齊と親交があり、幽齊は籠城中に「八雲集」を送り届けていたといわれ、また毛利輝元の歌道の師大庭加賀守とも親交を重ねていたという。
墓は高梁市頼久寺町の頼久寺に父家親の墓と共にあり、また子の勝法師丸の供養碑も昭和50年(1975)に建立された。
⇒ 三村家親(すぐ上の項目) (参)「高梁市史」「高梁の名碑」 
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みよし たかはる:三好 尊春

生年不詳〜嘉吉(かきつ)元年9月14日(?〜1441)
高梁市川面町
室町時代初期の武将、寺山城主(川面町)
 阿波守。室町時代初期の武将(1400年代前期)。
 応(おう)永(えい)年間(1394〜1427:室町時代初期)の初めに四国から川面町に来て寺山城を築城。嘉吉元年(1441)までの約40年間在城した。
 寺山城は、川面市場の北の壁となっている三つの峰からなる標高約 300bの屋根形の山頂にある。城の規模はそれ程大きくない。尊春が入国した理由や誰に属していたか、支配地域などは一切わかっていない。当時備中松山城主は、秋庭頼重。
 川面町田路迫にある松宝山吉祥寺は、同10年(1403)3月、夢庵春大和尚の開祖で曹洞宗・後月郡西江原永祥寺末であり、尊春の開基と伝えられている。ここに尊春の位牌があり、法号を「吉祥寺殿傑叟是雄大禅定門、嘉吉元年(1441)9月14日薨去(こうきょ)(注1)」と記してある。山川邑部大輔法時が菩提所・吉祥寺に祀った。墓は境内のやや上手にある。このため寺山城と名づけられたのであろう。尊春の没後、廃城となっていたが、備中兵乱(1574〜75)の頃には、杉三郎兵衛尉により復活していた。
 ⇒ 秋庭頼重  (参)「高梁市史」 註1:薨去(こうきょ)--大名の死に言う。皇族又は三位以上の人の死去に言う語。 
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