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ほり しゅうへい:堀 周平

文政3 年〜明治36年(1820〜1903)
高梁市片原町
備中松山藩士、第八十六国立銀行頭取

 はじめ右膳のちに周平。備中松山藩の勘定奉行・90石取。吉田流弓術師。
明治維新後、松山藩は朝敵と見なされ藩の減封(5万石から2万石)、士族の減禄などが他藩より厳しく行われ、士族の困窮は甚だしかった。これを救済するため元備中松山藩主板倉勝静は板倉勝弼(かつすけ)・三島中洲・川田甕江らに諮り、「高梁商法会所」を設置し、川上郡吹屋(現・成羽町吹屋)の吉岡鉱山を三菱の岩崎弥太郎に一万円で売却し、士族の授産資金として貸し付けし、子弟の奨学金や生活費として配分したが、周平はこの資金の運営を神戸秋山らと行った。
 また明治12年(1879)、板倉家の財産と諸藩士の禄券(金禄公債証書)を合わせて資本金として第八十六国立銀行(注1)が設立の運びとなるが、神戸秋山(しゅうざん)(謙二郎)が頭取と成ることで準備を進めていたが開業(明治12年5月1日)前の4月15日急逝したため急遽(きゅうきょ) 周平が頭取となる。
 以後18年間にわたり第八十六国立銀行の経営に携わったが、高齢のため同30年(1897)1月10日退任した。生家は、高梁市片原町に残っている。
板倉勝静板倉勝弼(かつすけ)三島中洲川田甕江神戸秋山(しゅうざん) (参)「高梁市史」「昔夢一斑」「中國銀行五十年史」

注1:第八十六国立銀行   
         神戸秋山の死去により、支配人の堀周平が頭取となるが、1円札と5円札は、頭取・神戸秋山、支配人・堀周平と記され、すでに印刷されており、改刷する事も出来ずそのまま発行された。中國銀行高梁支店(高梁市旭町)の玄関を入った左側に掲額されている。第八十六国立銀行の事業開始から 120年となる平成11年(1999)に、発祥の地である高梁市下町(現・高梁市観光駐車場)に記念碑が建立された。  
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ほり せいきち:堀 清吉

文久2年〜大正15年(1862〜1926)
高梁市玉川町玉
地方政治家(玉川村長)
 明治26年(1893)から1期、同31年(1898)から1期、同39年(1906)から4期、通算6期・23年間玉川村長を務める。その間日清戦役の銃後村政、道路整備その他文化向上に尽力した。
 特に顕著な事業としては、村内を東西に貫通する道路(高梁・笠岡線)の改良(大正6〜7年)による県道への編入。玉・増原・下切の避病舎を統合し、玉地区(現在市営住宅が建設されている)に敷地 420坪、建坪 300坪、病室10室の近隣に誇る伝染病隔離病舎建設(大正6) 。
 また、大正5年(1916)には、玉・増原・下切の三小学校の統合を議決した。位置の問題で実現しなかったが、教育面での先見性が伺えた。 (参)「高梁市史」 
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