文化5年4月〜嘉永4年7月8日(1808〜1851)
高梁市下町の人
俳人
備中松山(現・高梁市)の下町で花屋という染色上絵業を営んでいた俳人赤木晋和(しんな)(一日(いちじつ)庵(あん))の次男。長兄は同じく俳人の赤木芹和(きんな)。
名は三郎右衛門、幼名は貫助。号は春里館吐雲。笠原家の養子となる。幼少より父赤木晋和に就いて俳諧を学び、その名は京都方面にも伝わっていた。
⇒ 赤木晋和・ (参)「高梁古今詞藻」「上房郡誌」
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明治28年12月7日〜昭和36年7月17日(1895〜1961)
高梁市松原町松岡(割出)出身。高梁市内山下居住
高梁市長、岡山県議会議員、弁護士
川上郡松原村松岡(割出)(現・高梁市松原町松岡)の柏木諸市の長男。
早くより勉学に励み岡山県師範学校を大正4年(1915)卒業、川上郡長谷・領家・田井の小学校の教師となるが同7年(1918)上京、同10年(1921)明治大学法学部を卒業、更に翌11年(1922)9月同大学高等研究科を修了。
11月より宮内省内匠寮に勤務。同12年(1923)12月弁護士試験に合格。翌13年(1924)宮内省を退職し、岡山で弁護士を開業するが、請われて高梁に帰り弁護士を開業。
昭和2年(1927)川上郡より岡山県議会議員選挙に立候補するが落選。次回の同6年(1931)9月岡山県議会議員に当選し、同22年(1947)4月まで県議会議員を務め、この間同18年(1943)5月から同22年(1947)4月まで副議長を務めた。
同29年(1954)5月高梁市の市制施行に伴い初代市長に当選。同33年(1958)5月再選されたが、2期目の任期途中の同36年(1961)3月、国道改良促進の陳情に上京した帰り発病し、そのまま入院し 3月17日逝去した。67歳。
市長在任の 7年間に行った主な事業は、臥牛山の日本猿の生息地を国の天然記念物として指定を受け、自然動物園を開園。老朽校舎の改築・整備、市庁舎・し尿処理場の建設、消防設備の充実、上水道事業の着手、都市計画事業として駅前貫通道路の建設、市営住宅の建築など市制発展の基盤をつくった。3月22日その功績を讚え盛大に市葬が執り行なわれた。
(参)「高梁市広報紙」「高梁市史」「川上郡案内誌」
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平安時代後期の武将
高梁市巨瀬町陰地の粧田山城(注1)を築城
八郎弘常。平安時代の治承(じしょう)年中(1177〜1181)高梁市巨瀬町陰地に粧田山城を築城。源義家の西海進撃の際、一族の経春・為春と共に二百余騎を従え、一の谷の合戦、屋島の戦、壇ノ浦の戦で抜群の功名を立て、その功により巨瀬庄(現・高梁市巨瀬町)の地頭に補せられ、屋敷を陰地東に構え粧田山城を築いた。
文治2年(1186)地頭職を解かれたが、そのままこの地に止(とど)まり支配した。
子孫は嘉吉(かきつ)の乱(注2)(1441)・応仁の乱(注3)(1467〜77)にも生き残り、永禄・元亀(げんき)(1558〜1572)の頃は三村氏に属していたが、天正3年(1575)備中松山城の落城に先立ち毛利氏の手に落ちた。
砂山のため水蝕作用により崩壊し、現在は何等遺跡と認められる物は無い。 (参)「高梁市史」「上房郡誌」
注1:粧田山城(別名、少田山城・古蹟が城)
高梁市巨瀬町陰地東より賀陽町上竹荘に通じる標高400mの山頂にある。北に多和山乢(だわ)、西に祇園寺・寺山城址(現・川面町)、南に木野山、東に俵原をいずれも水平線上に見られる。花崗岩の風化した山頂付近の土質はもろく、崩れ果ててその規模は明らかでない。(上房郡誌には、「巨瀬村字片岡にあり」と記されている。) (参)「高梁市史」
注2:嘉吉の乱(嘉吉元年=1441)
播磨国(現・兵庫県)の守護赤松満祐(みつすけ)が将軍足利義教(あしかがよしのり)を謀刹。山名氏ら諸将が満祐を討伐。赤松氏は衰退し、山名氏の勢力が強大となる。 (参)「日本歴史用語集」
注3:応仁の乱(応仁1〜文明9=1467〜77)
細川勝元と山名持豊の対立に将軍足利継嗣と畠山・斯波家の家督争いがからんで起こった11年間の大乱。その結果、公家勢力・将軍権威の失墜となり戦国時代に突入。 (参)「日本歴史用語集」
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文久2年〜昭和12年 1月26日(1862〜1937)
高梁市石火矢町
教員
名は定。字は子静。通称は泰治郎。別に木圭の号がある。
高梁市中之町の高梁女子尋常高等小学校で教鞭を執り、校長を務めると共に明治32年(1899)4月設立された高梁幼稚園の園長も務めた。又同33年(1900)6月私立上房郡教育会が設立されると理事・調査員に就任。同43年(1910)社団法人化された時、教育功労者として表彰された。76歳で没。墓は高梁市寺町の寿覚院山門の左にある。
(参)「高梁古今詞藻」「上房郡誌」
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明治22年4月11日〜昭和38年8月28日(1889〜1963)
高梁市石火矢町出身
新劇、映画俳優
高梁中学校(旧制)、大阪市岡中学校(旧制)を卒業後、早稲田(わせだ)大学英文科に入学。
早稲田大学在学中の明治42年(1909)、坪内逍遙(しょうよう)(注1)の文芸協会演劇研究所の第一期生。同44年(1911)卒業公演でハムレットを帝国劇場で公演。以後舞台に立ち大正14年(1925)東亞キネマで「潮(うしお)」に主演。
トーキー初期の昭和4年(1929)水谷八重子(初代)と新興キネマの「大尉(たいい)の娘」で退役陸軍大尉役で共演、次第に映画俳優の方が本業となる。同11年(1936)新興キネマに正式に入社。
戦前は小津安二郎監督の映画に多数出演している。同16年・17年(1941・42)の元禄忠臣蔵では小野寺十内役で出演。新劇はもとより歌舞伎、新派などに出演していた。
舞台出身者だけに、芸域が広く演技力は優秀で脇役に回っても重厚な演技は映画を引き立てた。明治・大正・昭和の三時代の演劇史を体験し、多くの名優と親交があった。
戦後の同26年・27年(1951・52)ごろのNHKラジオ第2放送のサスペンスドラマ「灰色の部屋」に出演。
その後テレビにも出演してたが、病気がちで、脳出血のため逝去。出演した映画は80本にも及んだ。墓は安正寺。(参)「高梁市史」
注1:坪内逍遙(つぼうち しょうよう) (1859〜1935)
小説家、評論家、劇作家、英文学者、教育家。
岐阜県加茂郡の生まれ。本名勇蔵のち雄蔵。早稲田大学で教鞭を執る。『小説神髄』により日本近代文学の指針を示した先覚者。(参)「学芸百科辞典」
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江戸時代後期の人
高梁市松山(現・寺町)
御用紙漉き職人
松山藩札の五分札・参分札・二分札(延享元年=1744の版木)の紙は、御用紙漉き職人の竹治が、備中松山城下(現・高梁市)の伊賀丁矢場の近くの、伊賀谷川の南側の紙漉(かみす)き場で漉いていた。雁皮(がんぴ)の生漉(きすき)きで他に類(たぐい)がなく、偽札は種々あったが竹治の漉いた紙は紙質が良く、他の物と異なり一見素人にも真偽を見分けることができた程のものであった。 (参)「高梁市史」「昔夢一斑」
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明治8年12月10日〜昭和22年7月2日(1875〜1947)
高梁市津川町出身、御前町居住
教育者
上房郡今津村(現・高梁市津川町今津)の富農家小野良蔵の次男。教育者の小野康治(やすじ)は弟。自ら願い出て同家に働く金岡勇助の養子となる。苦学して明治26年(1893)岡山中学校を卒業。そして同28年(1895)岡山県尋常師範学校・小学校正教員補習科を卒業。30余歳で川面尋常小学校長となり、次いで有漢尋常小学校長となる。
同33年(1900)6月私立上房郡教育会が設立されると理事・調査員に就任。大正2年(1913)有漢准教員養成所(高梁日新高学校の淵源)の第四代所長に就任、10年間でこれを隆盛に導いた。同10年(1921)有漢実科高等女学校長に就任。同13年(1924)高梁に男子小学校正教員養成所を設立、昭和 3年(1928)有漢准教員養成所を閉鎖し高梁に移す。同5年(1930)財団法人高梁学園(高梁商業学校及び高梁高等技芸女学校)を設立し、弟小野康治の死去により備中高等女学校を引き継ぐ。
その後幾多の変遷を経て同24年(1949)私立高梁日新高等学校へと発展させ、備北の教育の振興・人材育成に尽くした。遠く台湾・朝鮮からの留学生もあり戦後も交流が続いた。その教えは、一源三流(誠を基本に知・情・意を注ぐ)主義にあり、その教育ぶりは溌剌(はつらつ)として、生気に満ち、画一主義ではなかった。また、明治43年(1910)3月私立上房郡教育会が「社団法人」に改組されると教育功労者として表彰される。同年11月私立上房郡教育会の委嘱を受け、郷土史『上房郡誌』の編纂委員に選任され、大正元年(1912)1月には編纂者総代を務め、翌2年10月発刊した。御前町で没。72歳。
⇒ 小野康治 (参)「高梁市史」「高梁の人物誌」「高梁日新高等学校沿革」「上房郡誌」
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江戸時代末期の人。
高梁市内山下(本丁・御殿坂北側)
備中松山藩士、家老・年寄役(300石・役料50石)
嘉永6年(1853) 6月、松山藩の年寄り役として藩主板倉勝静(かつきよ)が江戸に出府したとき、家来たちに文武の奨励を厳重に達したが、中にはこれを守ら無い者もおり、幕末の世情不安な時でもあり、12月に年寄役の外記の名で藩士に再び達しを行うなど国元を守った。
幕末の国難のとき(慶応4年=1868・正月)には、年寄役から家老職に昇り大石隼雄、桑野亀と共に備前藩と交渉に当たり、正月18日無事に城地の受け渡しを行う。この時外記の長男・寛人(19歳)と藩主の親族板倉千代太郎(18歳)は人質として藩主板倉勝静(かつきよ)の謹慎が解けるまで、1年余り備前藩へ差し出された。
また明治2年(1869)9月旧藩主板倉勝静の謹慎が解け、板倉栄次郎(のち勝弼(かつすけ))の家督相続が許され、松山の城地が引き渡されたときも家老として井上権兵衛と共に受け取った。これにより城外に立ち退いていた藩士たちは、元の屋敷に帰ってきた。娘の智恵は、日高納蔵の子録三郎に嫁いだ。
⇒ 板倉勝静・大石隼雄・桑野亀・板倉勝弼・井上権兵衛・日高納蔵 (参)「高梁市史」
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天保8年〜明治32年3月13日(1837〜1899)
高梁市鉄砲町
備中松山藩士、漢学者
名は芳、字は士蘭、通称駒太郎。号は邃所。備中松山藩士金田芳徳の長男。
初め江戸の昌平(しょうへい)黌(こう)(注1)で学び、帰藩後、山田方谷に従学し経史を学び詩を能くした。
幕末から明治5年(1872)の学制頒布まで鉄砲町の自宅で家塾「愛日書屋」を開き子弟の教育を行った。その後懇請されて笠岡・矢掛・金浦などで塾を開き子弟に教え俊才を輩出した。詩に優れており『高梁古今詞藻』に収められている。人柄は廉潔・清貧に甘んじ、母に孝行を尽くし人々を感動させた。
⇒ 山田方谷 (参)「高梁市史」「高梁古今詞藻」「岡山縣人名辭書」
注1:昌平黌…石川 鷄峰にアリ
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天保6年11月24日〜明治40年3月16日(1835〜1907)
高梁市御前町(御前神社参道下・現日新高校体育館)
備中松山藩士
父・東平は者頭格・70石取。備中松山城下御前町に生まれ、明治になると頼久寺町、川端町、内山下に住む。
文久2年(1862)9月アメリカからスク―ネル型帆船(長さ18間・幅4間位・二本マスト、後快風丸と名づける)を備中松山藩が購入する。
この年の11月に快風丸を備中松山藩領玉島港に廻航する事になり、操船技術を学んだ格太郎は、塩田虎尾、柏原一二三等と乗船。
この船に軍艦操練・天文・数学や英語まで勉強していた、上州安中藩(板倉家の分家)の新島しめた七五三太(襄)が乗船し、江戸・玉島港を往復した。この間格太郎・新島の親交は深まった。また新島が渡米した時江戸から箱館まで快風丸に乗船した。
新島襄は明治13年(1880)2月、新島襄がキリスト教布教の為に高梁を訪れた時、格太郎と2回合い、
「風呂のご馳走になり、少し休み、夕方にはぜんざいのご馳走になったのですが、そのとき大笑いをしました。それは、私が東京で松山侯の快風丸に乗って函館に行くとき、加納様が別れの杯をしよう言って、無理に料理屋に行こうと誘われたのですが、私は酒はイヤ、しるこを呉れと言ったところ、別れの杯の代わりしるこをご馳走してくれたことがあったのです。そのことを加納様は忘れておらず、別れる時もしるこならまた合う時もしるこにしよう言って、その夕はぜんざいのご馳走をしてくださった次第なのです。」と、
15年も前のことを思い出しながら、妻八重子に宛てた手紙に書いている。
「もしも新島襄が快風丸に乗船しなかったら同志社は存在しなかった」という人もいる。(同志社大学理事長、野本真也氏…高梁の近代とその人物学2007記念講演「高梁の近代と新島襄 −快風丸からの出発-」 平成19年(2007年)11月3日、於 高梁市総合文化会館)
加納格太郎の墓は、高梁市・頼久寺の裏手の墓地にある。
⇒新島 襄・塩田虎尾TOPに戻る このページの先頭へ
文政10年〜明治7年11月29日(1827〜1874)
高梁市御前町47番地(南側・北向き・西ヨリ2軒目) 後、賀陽郡西村(賀陽町大和西)
幕末の備中松山藩士、漢学者
幕末の漢学者。幼名は仙策、仙次郎・信古などの名がある。のち剛治に改める。父は軍兵衛、中小姓並・10石二人扶持。
江戸の昌平(しょうへい)黌(こう)で学び帰藩後、若干30歳で藩校有終館の会頭を務める。
安政4年(1857)藩政改革の一つとして藩士の土着政策が打ち出されると、願い出て野山西村(現・賀陽町大和西、藩領の東南の台地)に移住し、野山学問所(注1)の会頭となる。
また、代官役を務め、傍(かたわ)ら教範塾を開き子弟の教育にあたる。明治2年(1689)高梁藩が設置されると藩庁職員となり吉田藍関等と共に文教助に任命された。
長女鹿は狩野素ぼく(「ぼく」は手偏に卜)の妻 嘉永元〜明治4 (1848〜1871)。
⇒ 狩野素ぼく(すぐ下の項目)・吉田藍関 (参)「高梁市史」「高梁古今詞藻」
注1:野山学問所
備中松山城の東南方向(岡山方面)が防衛上弱点であると言うことから、時の藩主板倉勝静が野山西村の大沢から湯原地区にかけて藩士32戸ほどを常駐させ、警護させた。その藩士の子弟教育のため安政4年(1857)大沢地区に野山学問所が設置された。敷地92坪に82坪の校舎が建てられ、5名の常勤教員の他に、藩から出張して教育に当たった。学科は、漢学、国学、医学文武両道を旨とした。
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天保9年9月9日〜明治43年10月25日(1838〜1910)
高梁市荒神町10番地
幕末の備中松山藩の画士
狩野半輔・久の長男として生まれる。家は代々松山藩の画士。
はじめ先業を継いで藩に仕えた。狩野派の画法に巧みであった。中小姓並・絵師・11石二人扶持。遺作に「備中松山城の図」がある。明治43年没、72歳。
妻・鹿は狩野剛治の長女(1848・12・6〜1871・4・9…嘉永元〜明治4)
⇒ 狩野剛治(すぐ上の項目) (参)「高梁市史」
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大正 7年12月18日〜平成 5年 2月27日(1918〜1993)
大阪市出身
考古学者、教育者(岡山理科大学教授)
大阪市南区南錦屋で生れ、郷里の岡山で小・中学校を経て早稲田大学法学部を卒業。会社員、食糧営団職員を経て昭和26年(1951)財団法人倉敷考古館の設立に参画し、入館。
同41年(1966) 3月学校法人加計学園岡山理科大学の講師、翌年教授となり、平成 2年(1990)退官。学生時代から、考古学に興味を持ち多くの発掘に参加。
西日本地方の旧石器時代・縄文時代の研究に勢力を注ぎ、世界的に知られた業績がある。
昭和50年(1975)に高梁市松原町陣山の、旧石器時代の遺跡の発掘を担当した。学生の面倒見がよく自宅の離れに住まわせ、夜を徹して議論した。 (参)「高梁市史」「群像おかやま」
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文政2年〜明治25年2月25日(1819〜1892)
総社市出身
幕末の備中松山藩士、漢学者・漢詩人
名は博、字は子文、通称は宗平。号は玉島(現・倉敷市)に移住した頃は浮鴎、玄渓または新里、篁園(こうえん)。
下道郡新庄村(現・総社市新本)の医師鎌田由斎(毅)の長男。父は医師であったため、地方ではまれな学者で、幼少より弟玄淑と共にその教えを厳しく受けた。
天保 9年(1838)20歳のとき大坂に出て、藤沢東?(とうがい)に陽明学を学び、次いで江戸に出て昌谷精渓(さかやせいけい)に朱子学を学んだ。翌10年(1839)帰郷して家業を継いだが、医師を好まず、同14年(1843)25歳のとき家を弟に譲り、柚木玉州(ゆのきぎょくしゅう)(竹叟(ちくそう))らに招かれて玉島の団平町に私塾「有餘館(ゆうよかん)」を開き、子弟に教える。
この時、門弟のうちに川田甕江(おうこう)が入り、天保14年(1843)から嘉永5年(1852) までの10年間、玄渓の教えを受けた。甕江が14歳のときから23歳までの間で、寸暇を惜しんで勉強し、玄渓門下の第一人者と言われるまでになった。同年 甕江が23歳のとき江戸へ遊学させた。また、柚木玉邨もこの頃入門していた。
同 6年(1853)備中松山藩が玉島に郷校として藩校有終館の分校を設置したとき玄渓は教師となる。この時備中松山藩士となり苗字帯刀を許され、二人扶持を支給された。
慶応2年(1866) に中小姓に昇り、藩校有終館の督学、藩主板倉勝静(かつきよ)の侍講(じこう)(注1)を務め、備中松山(現・高梁市)に移り住んだ。これにより玉島分校は廃校となった
。維新後の明治2年(1869)高梁藩になるとその職員となり文教官副を務めた。同4年(1871) の廃藩置県により藩校有終館の督学を辞し、生家にほど近い下道郡久代村(現・総社市久代)山中の玄渓(くろたに)(黒谷)に隠栖(いんせい)した。
同7年(1874)山田方谷の推挙により、閑谷学校の督学となり方谷の跡を継いで子弟を教育した。 1年ほどで辞任し、再び玄渓(くろたに)に帰り近所の子供達に読み書きを教えた。玄渓の顔は一見恐ろしいようであったが、性格は優しく、人に親しみやすかった。
晩年は好きな詩と酒を友とし、書や絵をかいて余生を送り、再び世に出ることはなかった。郷里の親しい人々に、天照大神の神号を書いて送り、自分は全国を巡遊するといって旅に出たが、播州赤穂郡(現・兵庫県赤穂市)塩屋で病に倒れ、同25年(1892)2月25日逝去。74歳。
墓は赤穂の興福寺にある。玄渓の顕彰碑は、大正4年(1915)3月に玉島時代に教えを受けた柚木玉邨ら門人によって玉島羽黒神社境内に建立された。その撰文を川田甕江に依頼していたが、明治29年(1896)甕江が逝去したため、同45年(1912)6月三島中洲によって撰文された。著書『玄渓遺稿』(玄渓と三男の平山の詩を田辺碧堂が選鈔したもの)。
⇒山田方谷・板倉勝静・川田甕江・柚木玉邨・鎌田平山(すぐ下の項目)
(参)「高梁市史」「高梁古今詞藻」「玄渓鎌田翁碑」「高梁川」「上房郡誌」
注1:侍講…主君に学問を教授すること。はじめ侍読(じどく)と言ったが後世は侍講(じこう)。
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弘化2年〜明治25年11月(1845〜1892)
倉敷市玉島の人
幕末の備中松山藩士、漢学者・漢詩人
名は賢三郎。鎌田玄渓の三男。父玄渓は、幕末の備中松山藩士・漢学者・漢詩人で藩校有終館の督学、藩主勝静(かつきよ)の侍講(じこう)を務めた。
英才の声が高く幼少の頃は父玄渓に漢学を学び、次いで山田方谷に学ぶ。上京して三島中洲の二松学舎で学ぶ。
明治13年(1880)の冬、倉敷市玉島の矢出町に私塾「成章学舎」を開き多くの子弟に教えた。一時塾の経営にいき詰まり、酒に溺れたが三島中洲の忠告により立ち直り同25年(1892)11月病のため48歳の若さで没するまでの12年間子弟教育を行った。父鎌田玄渓の没後 9ケ月であった。
漢詩を能(よ)くし、昭和13年(1938)柚木玉邨により『玄渓遺稿・附平山遺稿』が発刊された。また、『二松学舎外塾記』、『呈家兄書』、『信陸育君論』、『尺蠖堂記』、『家君六十寿序』等の文鈔も作った。
⇒鎌田玄渓(すぐ上の項目)・山田方谷・三島中洲・柚木玉邨 (参)「高梁古今詞藻」「高梁川」「岡山縣人名辭書」
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安政3年10月24日〜昭和8年12月20日(1856〜1934)
高梁市鉄砲町のち八幡町
教育者
名は直、通称壯吉。字を子温、俳号は守分軒一枝、号は鷦巣(しょうそう)。
有終館で学ぶ。次いで小田県及び岡山県師範学校を修了し、小学校で教鞭を執る。また上房郡役所、煙草専売公社に奉職した。明治45年(1912)3月から大正8年(1919)3月まで高梁中学校(旧制)の漢文教員師として教鞭を執った。岡山県立高梁高等学校に書がある。
高梁市大工町正善寺に山田準撰文の「神谷壮吉夫婦之墓」がある。
(参)「高梁古今詞藻」「有終」
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文政10年1月1日〜慶応4年8月16日(1827〜1868)
新潟県長岡市
幕末の越後長岡藩上席家老
河井代右衛門秋紀の長男として越後国長岡城下(現・新潟県長岡市)の同心町で生まれる。名は秋義。通称継之助。
嘉永6年(1853)春、27歳のとき初めて江戸に出て斉藤拙堂(注1)に入門し、次いで古賀茶溪(謹一郎)の私塾「久敬舎」で漢学、洋学を学んだ。また、佐久間象山(注2)に学ぶ。
安政5年(1858)7月、備中松山藩(現・岡山県高梁市)を訪ね「拙者は、先生の講説を聞かんがために来たのではない。むしろ先生の事業作用を学ばんと願うのみ」と山田方谷に師事。
松山城下の旅籠「花屋」(注3)では戊辰(ぼしん)戦争(慶応4年=1868)でいっしょに戦った会津藩士・土屋鉄之助や秋月悌次郎等にも会っている。長崎を見学して西洋の事情を知り、攘夷(じょうい)論に反対した。
長岡藩上席家老として藩政を改革し、戊辰の戦いには中立の立場を取ったが聞き入られず、遂に抗戦となった。長岡城奪還の後に左膝(ひざ)下に受けた銃創のため会津に逃れる途中、奥会津只見の塩沢の医師・矢沢宗篇(そうへん)の家で悲運の最後を遂げた。42歳。
長岡市悠久山にある河井継之助の碑文は三島中洲が撰文している。
⇒ 山田方谷・三島中洲 (参)「高梁市史」「長岡市パンフレット」「高梁川」
注1:斉藤 拙堂(さいとう せつどう)
寛政9年〜慶応元年(1797〜1865)
伊勢国(現・三重県)津藩の儒者
江戸時代後期の程朱学(宗学)派の儒者。
名は正謙。通称徳蔵。号は拙堂・鉄研道人など。江戸の津藩邸で生まれる。本性は増村で、斉藤氏の養子となる。昌平黌で古賀精里に学ぶ。文政4年(1821)津藩主藤堂(とうどう)高兌(たかさわ)の藩校創設のとき学職に就き、督学として永年勤続した。進歩的で洋学・兵学の摂取を奨励した。 (参)「学芸百科事典」
注2:佐久間 象山(さくま しょうざん)
文化8年〜元治元年(1811〜1864)
信濃松代藩士
江川英庵に砲術を学び、吉田松陰、勝海舟らに砲術・兵学を教えた。松陰の米国密航計画に連座して下獄。開国論、公武合体論を力説し、攘夷派に暗殺される。(参)「日本史用語集」
注3:旅籠「花屋」
文武宿。高梁市紺屋川(伊賀谷川)沿いの鍛治町郵便局の所にあった。幕末の頃は諸国から山田方谷に師事する者や、武芸の修行者が投宿した。
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嘉永4年3月15日〜明治41年3月14日(1851〜1908)
倉敷市西阿知出身
日本画家
名は龍。字は子淵(しえん)。号は栗邨。通称春畝(しゅんぽ)。
浅口郡西阿知村(現・倉敷市西阿知町)の染物屋・吉井家に生まれる。そして後月郡川相村(現・芳井町)の酒造業を営む河合宗衛(通称惣右衛門)に請われて養子となり家業を継ぐ。
生まれつき淡白で話し好き、常に滑稽な事を言い人をよく笑わした。幼少の頃より絵に興味を持ち、高梁の画家白神(しらが)澹庵(たんあん)(小野竹喬の祖父)に南画を、漢詩を鎌田玄渓(備中松山藩士)に学び、俳句も能くした。
家業は衰微したため、画業に専念するため井原村本町(現・井原市井原町本町)に移り住む。「栗邨画房」と名付けて多くの弟子の指導にあたった。山水画、花鳥画に優れていた。日本画家河合文林は長男。二人の画が高梁市宇治町の元仲田邸(高梁市所蔵) にある。
⇒ 白神澹庵・小野竹喬・鎌田玄渓 (参)「崑山片玉集」「岡山縣人名辭書」
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明治39年4月24日〜平成8年12月30日(1906〜1996)
高梁市玉川町玉
高梁市長
昭和2年(1927)朝鮮新義州公立商業学校を卒業。翌年(1928)朝鮮総督巡査、同20年朝鮮総督府警視。
同22年(1947)から同29年(1954)まで川上郡玉川村(現・高梁市玉川町)村長。同年町村合併により高梁市事務吏員となり保険衛生課長、総務課長などを務め、同36年(1961)から同40年(1965)まで収入役、同年から同47年(1972)まで助役を2期務める。
鈴木雄祥市長の死去に伴い同47年(1972)12月第三代の高梁市長となり、同59年(1984)12月まで3期12年務めた。同47年(1972)の豪雨の災害復旧、公共下水道の着工、上水道・簡易水道の拡張などの都市基盤・生活基盤の整備。福祉センター・市民体育館・運動公園・児童公園・文化会館などの建設に取組み、福祉・体育・文化の整備を行った。こうした地方自治の功績が認められ同60年(1985)11月、勲4等旭日少綬章を受章、更に同63年(1988)には岡山県三木記念賞を授ける。平成8年(1996)没。90歳。
⇒ 鈴木雄祥 (参)「高梁市広報紙」
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明治33年6月20日〜昭和60年1月4日(1900〜1985)
高梁市鍛冶町83番地(本籍南町)
錺(かざり)金具(かなぐ)製作技術保持者(高梁市無形文化財)
小学校一、二年の頃から父について、家業の板金技術を修得。大正 3年(1914)に男子高梁尋常小学校を卒業するとすぐに、一人前の待遇を受けた。
板金技術の上達に伴い、錺(かざり)金具(かなぐ)(注1)に深い関心を持ち、17〜18歳の頃始めて自作の錺金具を船箪笥(たんす)に付けた。「毎夜枕元に置き夜中でも目が覚めたら触(ふ)れないではいられなかった。」という。
優れた作品を師とし、自らも工夫を重ね、努力の上に努力を続け、伝統の神髄を会得(えとく)した。
作品は重厚で緻密(ちみつ)、かつ誠実であった。そして素材の持つ美しさを最高に引き出そうとする思いやりがにじみ出ており、高ぶらない感情が溢れている。これにより昭和48年 (1973)2月21日高梁市より、錺金具製作技術保持者(高梁市無形文化財)に指定された。 (参)「高梁市史」
注1:錺金具(かざりかなぐ)
和家具・建具などの強度を増すため、引き手の把手(取っ手)、錠前の外、組み手や胴付の部分に付ける。または、単に装飾のために付ける鉄や、真鍮(しんちゅう)の金具。小さい物は印箱・硯箱、大きい物は箪笥・船箪笥などに使われた。これらの物は非常に堅牢で、長い間使われ、また磨かれて年輪が刻み込まれた美しさがある。
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文化8年〜明治28年3月8日(1811〜1895)
高梁市八幡町(南側・一番奥)
備中松山藩士、歌人
名は、織人。幕末の備中松山藩士、近習。井上覺睡、石川鶯谷と共に和歌を総社の安原玉樹に学ぶ。高梁古今詞藻に和歌を残している。墓は、高梁市寺町の寿覚院にある。
⇒ 井上覺睡・石川鶯谷・安原玉樹 (参)「高梁古今詞藻」
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天保元年6月13日〜明治29年2月2日(1830〜1896)
倉敷市玉島出身
備中松山藩士(目付役・50石取)、漢学者・文学博士
備中浅口郡阿賀崎村新田(現・倉敷市玉島中央町)港問屋大国屋佐兵衛(川田資嘉)の次男。三島毅(中洲)と同年生れ。名は、剛(たけし)、字は毅卿、幼名竹次郎のち城之助と改める。号は甕江。
3歳のとき父を、6歳のとき母を亡くした。母の実家、下道郡矢田村(現・真備町箭田)の伯父瀬尾惟徳に育てられ、14歳のとき玉島の生家に帰り、兄資始が小野務に和歌を習っていたので剛も入門したが、小野務は剛の才能を見抜き和歌作りを断念させ、玉島団平町の鎌田玄溪(のち備中松山藩士)の私塾「有餘館(ゆうよかん)」に入門させる。天保14年(1843)から嘉永5年(1852)までの10年間玄渓の教えを受ける。
剛が14歳のときから23歳までの間で、寸暇を惜しんで勉強し、玄渓門下の第一人者と言われるまでになり、師玄渓は「自ら其師たるに足らず」と、嘉永5年(1852)甕江(おうこう)が23歳のとき江戸へ遊学させた。途中伊勢の津(現・三重県)の斉藤拙堂塾の塾長をしていた三島毅(中洲)を訪ねた。
江戸に出て苦学して古賀茶溪、大橋訥庵(とつあん)に経史を、塩谷宕陰(とういん)、芳野金陵、安井息軒、藤森弘庵等の大家に就いて陽明学、朱子学及び漢文を学んだ。
安政3年(1856)27歳のとき剛の学識を聞いた近江国(現・滋賀県)大溝藩主分部光貞の客儒として迎えられ 1年後には藩儒として 100石を給する約束で、中江藤樹(注1)年譜を完成させた。
ちょうどこの時、備中松山藩山田方谷の使者として三島毅が「藩政改革のため人材が必要なので郷里の松山藩へ来て欲しい」と懇請し、大溝藩 100石の扶持を断り、同4年(1857)秋、剛が28歳のとき、50石で松山藩へ出仕した。恩師鎌田玄溪へも松山藩士となった喜びをつたえた。翌5年(1858)江戸藩邸学問所の学頭となる。
慶応元年(1865)藩主板倉勝静(かつきよ)が懇望され再び老中職になったとき、内外共に騒然としており幕府は非常に厳しく収拾困難な時であったので、山田方谷等と共に老中職を辞退するよう勧めたが聞き入れられなかった。
慶応 4年(1868)1月、鳥羽・伏見の戦いが勃発したとき、剛は目付役で江戸詰であったが、京・大坂の情勢を調査に来た時、熊田(くまだ)恰(あたか)(年寄役、死後家老格となる)の一隊と出会い大坂より玉島に帰ったが松山藩は朝敵となっており剛は藩士等の寛大な処置を岡山藩に対し嘆願したが許されず熊田恰の自刃により藩士等はその後帰藩を許された。熊田恰が岡山藩へ藩士等の助命を願った嘆願書草案は剛が作成した。これにより玉島の町は戦火を免(まぬが)れた。
前藩主板倉勝静父子は賊徒となり日光、奥州、箱館を流転の後東京に帰ったが、新政府への謝罪自訴を皆が勧めたが死罪になるのではないかと決断しかねていたとき、剛は「公に万一事あれば臣剛は即刻お供仕(つかまつ)る」と勝静を説得し自訴を決意させた。松山藩復封の時には板倉家十代藩主勝政(松山藩主 四代)の次男勝喬(かつたか)の4男栄二郎(のち勝弼(かつすけ))君(ぎみ)を丁稚(でっち)に仕立て、剛は呉服商人に変装し、備中松山へ連れて帰った。また復藩活動のため京都に潜入して商人姿で玉屋文作と名乗り、朝廷側の情勢を探り三島毅(中洲・変名島屋禎蔵)等へ報告した。かくして明治2年(1869)9月太政官より板倉栄二郎勝弼に家督相続が許された。
同年11月2日太政官より所領5万石は2万石に減ぜられ、松山藩は高梁藩となり、勝弼が高梁藩知事となり再興された。
同3年(1870)高梁藩権小参事に任命されたが辞して上京し、深川、牛込で塾を開き諸侯の子弟など160名余りが集まり名声が上がった。翌年2月太政官に徴せられ大学小博士に任ぜられ、次いで権大外史となり同5年(1872)8月職を辞し育英に従事し、同6年(1873)文部省の嘱により史局を自宅に置き史料の編纂に当たった。
同8年(1875)正院歴史課から修史局と整備され最上級の一等修撰を経て宮内省四等出仕となり、同14年(1881)7月、明治天皇東北ご巡幸の籠に従い、その紀行「随鑾(ずいらん)紀程」8巻を同18年(1885)3月完結させた。同17年(1884)9月東京大学教授を兼任、同23年(1890)4月古事類苑検閲委員長となり宮中御所蔵の歴代伝わる難解な古文書大部を整理解読する大事業に携わり同28年(1895)4月に同総裁となったが完成前に没した。
同23年(1890)9月には国会開設に伴い有識者として貴族院議員に勅選された。同24年(1891) 1月 6日、経書を明治天皇に御進講申し上げ、学者として最高の名誉を得た。
この年、明治3年(1870) に上京以来はじめて玉島へ帰省した。歴史学者としても権威があり、同22年(1889)1月に宮内省諸陵頭に任ぜられたが、同28年(1895)歴代の御陵が定まったので、勅使に従い諸陵頭として山陵を巡拝し、宮中錦鶏間伺候となった。
同年9月東宮御用掛りとなり、次いで東宮侍講を務め、東宮(後の大正天皇)の御指導を行った。このため大正天皇は歴代天皇の中では漢詩を一番多く作られたと言われている。
同29年(1896)1月、甕江(剛)の病気を聞き東宮より種々のお見舞いの品を賜り、31日には梅・松二鉢の盆栽を頂き感涙にむせびつつ2月2日没。67歳。甕江の没後、同郷の三島中州が東宮侍講を務めた。
甕江の墓は旧藩主板倉勝静が「余が死した後までも側近にしてほしい」と遺言したことにより東京駒込吉祥寺の、勝静の墓の近くにある。ここに三島中洲撰文の「川田甕江先生之碑」が建立されている。
山田方谷は甕江と中洲を門下の俊英として愛し「剛毅(ごうき)」の二字を分け、川田に「剛」、三島に「毅」を与えた。
また、明治になり、旧藩士の生活が窮乏したが、これを救済するため旧藩主板倉勝静、三島中洲等と図り第八十六国立銀行を明治12年(1879)5月1日高梁へ開業させた。
長男川田鷹は、明治3年(1870)生れ。16歳で米国に留学、同27年(1894)24歳の時に帰国。日本郵船に入社、後東京鉄道に移るなど、実業界で活躍。
第一回の芸術院賞を受賞した川田順(芸術院会員)は三男。明治になり最後の将軍徳川慶喜(よしのぶ)家で娘たちに短歌を教授した。
⇒ 三島毅(中洲)・板倉勝静・山田方谷・熊田恰・板倉勝弼・川田順(すぐ下の項目)・斉藤拙堂(河井継之助にアリ)
(参)「高梁市史」「高梁古今詞藻」「高梁川」「上房郡誌」「徳川慶喜家の子ども部屋」
注1:中江 藤樹(なかえ とうじゅ)
慶長13年〜慶安元年 (1608〜48)
近江国(現・滋賀県 )の人。
江戸初期の儒学者。
日本における陽明学の祖。近江聖人といわれる。朱子学から陽明学に転じ、格物致知論を究明。郷里の小川村に藤樹書院を開く。(参)「日本史用語集」
明治15年〜昭和41年(1882〜1966)
東京都浅草生れ
実業家、歌人(芸術院会員)
備中松山藩士、漢学者、文学博士の川田甕江(おうこう)の三男。東京大学法学部を卒業。
昭和11年(1936)まで大阪の住友本社に勤務し、実業界人として敏腕をふるった。
和歌は明治30年(1897)佐佐木信綱主宰の竹柏会(ちくはくかい)に入門し、『技芸天(ぎげいてん)』のような浪漫的な作風を示したが、大正中期から写実的傾向をとるようになった。特に『山海経』はその一転機を示したものである。さらに歌誌『日光』に加わり、昭和15年(1940)には『鷲』が第一回の芸術院賞を受賞した。
中世の和歌の優れた研究家であり、特に西行(さいぎょう)の研究に大きな業績を残した。また、最後の将軍徳川慶喜(よしのぶ)家の娘たちに短歌を教授した。
「夢殿は のぼるに低き 石の段 蜂ひとつ居て 春の日の照り」
『高梁二十五賢祭~畧傳』の後書きを寄せている。また、玉島の熊田神社百年祭に和歌をよせ「うたよみの良寛は ここのひとならず 熊田をまつれ 吉備のたましま」の一首を詠じた。
(参)「学芸百科事典」「徳川慶喜家の子ども部屋」「高梁川」
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生没年不詳
安土・桃山時代の備中国の武将(1500年代後半)
三村元親の家臣
通称六郎左衛門尉(中国兵乱記は六郎右衛門)。備中松山(現・高梁市)城主三村元親の譜代の家臣。
天正2年(1574) 毛利氏が三村元親の父家親を殺害した宇喜多氏と和睦したため、元親は毛利氏を離反し織田信長と手を結んだ。これにより備中兵乱となる。
天正3年(1575) 5月元親の父家親の代からの家臣であった直久と竹井宗左衛門直定が毛利氏に内通しているという噂があったが、直久と竹井はこれを打ち消すため、元親の妹婿の石川久式(ひさのり)(都窪郡幸山城主…現・山手、清音村境)に謀反の気持ちがないことを伝え、久式(ひさのり)が元親の守る備中松山城・小松山に出向いた隙に、備中松山城天神の丸を乗っ取り、久式の妻子を人質にした。これにより兵の結束は乱れ、備中松山城の落城を早めた。
⇒ 三村元親・石川久式 (参)「高梁市史」「備中兵乱記」「上房郡誌」
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天保3年〜明治3年7月7日(1832〜1870)
高梁市大工町1番地(紺屋町の文武宿花屋(現・鍛冶町郵便局)の裏側)
幕末の備中松山藩士(大小姓格、10人扶持)
名は友愛、通称宗哲のち一郎または黙太郎とも言った。号は景顔(けいがん)。父は医師の宗庵。
山田方谷に学び、のち昌平(しょうへい)黌(こう)(幕府直轄の学校。昌平坂学問所)で学ぶ。また林鶯溪・栗原柳庵に師事。
代々医師の家柄であったが、還俗を仰せ付けられる。有終館の会頭となる。監察となり奉行格を務める。
慶応3年(1867)12月、徳川幕府は大政奉還・辞官納地などにより複雑微妙な時局を迎えており、大坂にいた藩主板倉勝静は、山田方谷の下(もと)へ急ぎ公用人の神戸一郎を特派し、善後策について尋ねた。一郎は、方谷の意見十ケ条を藩主板倉勝静の下へ持ち帰った。方谷はこの意見書のみでは不安であり、藩の元締である神戸謙二郎(秋山)を同12月26日に上坂させ勝静に進言させた。しかし時既(すで)に利あらず明けて翌4年(1868)1月3日鳥羽伏見の戦が勃発した。
藩主板倉勝静は将軍徳川慶喜に同行し江戸に帰ったため、一郎は熊田(くまだ)恰(あたか)に従い海路、吉田謙蔵(藍関)・川田剛(たけし)(甕江(おうこう))等と共に1月16日に児島の下津井を経て玉島に帰った。熊田恰の自刃に立ち会い、熊田大輔(矩光)が介錯したとき、一郎が「お手際(てぎわ)」と叫んだ。玉島の柚木家には、恰の自刃した部屋がそのまま保存されている。
板倉家の再興のため、上京して潜行し情報収集し、国元(備中松山藩)との連絡に当たった。板倉藩が再興され、明治2年(1869)9月17日に岡山藩より松山城地の引き渡しを根小屋(御殿)の九竜間で受けたとき、これに立ち会った。明治3年没。39歳。
⇒ 山田方谷・板倉勝静・神戸謙二郎(秋山)(すぐ下の項目)・熊田恰・吉田謙蔵(藍関)・川田剛(甕江)(三つ上の項目) (参)「高梁市史」「高梁古今詞澡」
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文政6〜明治12年4月15日(1823〜1879)
高梁市(中…現・間の町)、のち野山西村(現・賀陽町大和西)に轉住。
幕末の備中松山藩士(一代士格・50石役料10石)、第八十六国立銀行(中國銀行の淵源) の初代頭取。
名は友諒。通称は柳二郎、後謙次郎。号は秋山。
京都の服部家に生まれ、祖父柳裕は医師。父は柳造。母は備中玉島の秋山氏の娘で、謙次郎出生後父柳造が家を出たため、母は備中松山藩士の堀氏(現・高梁市片原町)へ再婚した。父の弟与兵衛が服部家を嗣(つ)ぎ、謙次郎を育てた。しかし与兵衛はたちまち財産を潰したため14歳のとき商人のところへ傭人に出されたが後大坂へ脱出、そして母を頼って再婚先である備中松山藩の堀氏に来る。
当時、間之町の松山藩士・神戸友綱が死去し、跡取りがなかったため藩主・板倉勝静は謙次郎に神戸家を嗣(つ)がせた。士格(藩の職制で下級の職)に加えられ、俸米20俵を賜る。
山田方谷について学び、又江戸に出て昌平(しょうへい)黌(こう)(幕府直轄の学校。昌平坂学問所)に学ぶが、眼病に罹(かか)り勉学半ばで帰郷する。そして藩校有終館の句読(くとう)師(し)(教師)から会頭(副館長)へ進む。
次に、山田方谷に才能を見込まれ、代官(年貢・戸籍などを司る役人)となり人望も厚く民事をよく処理した。又、採鉱・樹芸・運輸なども管理し国産を殖(ふや)した。
安政 4年(1857)藩政改革の一つとして藩士の土着政策が打ち出されると、いち早く野山西村(藩領の東南の台地、現・賀陽町大和西)に移住した。ここより出仕し、文久年間(1861〜64)に50石を賜り吟味役となり、ついで野山西村の郷兵の隊長をも兼任した。近習頭を経て、度支(たくし)(元締・会計長官)に昇進し、官禄(役料)10石を賜り藩の財政を担当した。
慶応3年(1867)10月15日の大政奉還により 260年続いた徳川政権は幕を降ろし、ついで12月9日には将軍徳川慶喜の辞職が認められ、王政復古が宣言され慶喜の辞官納地(内大臣辞任と幕府領400万石の半分を返上)が決定された。これにより旧幕府の旗本や会津・桑名などの譜代の将兵は憤慨し不穏な情勢となった。
老中首座を務めていた備中松山藩主板倉勝静は在藩の山田方谷に事態の善後策について下問。方谷は藩の元締めである謙二郎(秋山)を同12月26日に上阪させ大意を藩主勝静に進言させた。
謙二郎は藩主勝静の命を受け若年寄り永井尚(なお)志(むね)へ、吉田謙蔵(藍関)は会津・桑名の両藩へ大政奉還の初志を貫徹するよう説得に行くが、しかし時既(ときすで)に遅く明けて同4年(1868)1月3日鳥羽伏見の戦が勃発した。
熊田恰(あたか)らは海路帰藩したが謙二郎は鳥羽伏見の戦の後始末のため唯一人大坂に残り、銀主との善後策の処理や京都の様子を探索しその状況を国表(くにおもて)に報告し、機を見て陸路帰国した。明治維新・松山藩の再興などの、多難な時の藩財政を乗り切れたのは謙二郎の手腕であった。
維新後松山藩は朝敵と見なされ藩の減封(5万石から2万石)、士族の減禄などが他藩より厳しく行われ、士族の困窮は甚だしかった。これを救済するため板倉勝静は板倉勝弼(かつすけ)・三島毅(中洲)らと諮り明治12年(1879)、板倉家の財産と諸藩士の禄券(金禄公債証書)を合わせて資本金として第八十六国立銀行(注1)を設立し、謙二郎が頭取と成ることで準備を進めていたが開業(明治12年5月1日 )前の 4月15日急逝した。56歳。墓は賀陽町大和西の、石橋の原(仕方畝の東、国道484号線の南)に先妻、後妻、子供達の墓に囲まれた杉小立の丘にある。
先妻亀尾(かめお)は神戸友綱の娘で子供は無く、明治5年6月18日没。44歳。
後妻定(さだ)は三原氏で、4男2女を設(もう)け、大正4年(1915)5月23日没。82歳。
生まれつき近視で、鼻が高く、性格は明敏で廉介(れんかい)(欲がない)、胆気(たんき)(胆が大きい)があり若い時は酔えば人を罵倒(ばとう)するなど元気が良かったが壮年になると気性は沈着で思慮深く臨機応変に物事を処理した。このため、山田方谷は自分の後任に据えた。三島毅(中洲)が撰文した「秋山神戸君墓碣(ぼけつ)銘」(注2)の碑が八重籬神社境内にある。
⇒山田方谷・三島毅(中洲)・板倉勝静・板倉勝弼・吉田謙蔵(藍関)
(参)「高梁市史」「秋山神戸君墓碣銘」「中國銀行五十年史」
注1:第八十六国立銀行
秋山の死去により、支配人の堀周平が頭取となったが、1円札と5円札はすでに印刷されており、改刷することもできずそのまま発行された。中國銀行高梁支店(高梁市旭町)の玄関を入った左側に掲額されている。第八十六国立銀行の事業開始から 120年となる平成11年(1999)に、中國銀行の源淵である発祥の地、高梁市下町(現・高梁市観光駐車場)に記念碑が建立された。⇒堀周平
注2:墓碣(ぼけつ)銘
・墓碣…石碑 ・銘…賞賛のことば
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