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わきた たくしょ:脇田 琢所

文化12年〜安政5年5月31日(1815〜1858)
備中松山藩士・漢学者

 名は貞基、字は公固、幼名は才佐、のち全三と改める。
 初め医術を学び、のち漢学者昌谷精溪(さかやせいけい)・野田笛浦に従学し、帰藩し儒官となる。
 嘉永5年(1852)松山藩江戸藩邸の会頭になり、その後学頭となる。あい前後して会頭となった木村豊・狩野東吾、赤川次郎らと協力して学制を改革、江戸藩邸の学問を急速に発展させた。安政 2年(1855)江戸の大地震で校舎が壊滅したため、翌年新たに外桜田の上屋敷に校舎が新築された。同5年(1858)琢所の死去により川田剛(甕江)が学頭となった。
 著書に『草石樓詩塵』『九経説園』『業餘惜陰録』などがある。
⇒ 木村豊(木村信行の父)・川田剛(甕江) (参)「高梁古今詞藻」 
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わたなべ ていすけ:渡辺 貞介

生没年不詳・幕末〜明治中期の人
備中松山藩士・漢学者
初め高梁市、のち巨瀬村(町)

 名は剛。通称は貞介(ていすけ)、貞吉。号は牛壑(ぎゅうかく)、老年は残夢と改称した。備中松山藩士・中小姓並・8石2人扶持。
  山田方谷に学び幕末の動乱に藩を助ける。初め高梁市に居住するが、明治元年(1868)巨瀬村馬場(巨瀬小学校裏)に転居。の旧宅には吉田藍関が入居した。
漢学に熟達し、明治5年(1835〜72)まで私塾「松条軒」で30人程度の子弟に教えていた。巨瀬村では子弟に教育し、暇さえあれば田畑を耕し、草刈りをしていた。同6年から9年(1873〜76)巨瀬小学校の教師となり子弟の教育に努めた。詩文に長じ高梁古今詞藻に残している。また遺墨も多い。服部犀溪の養嗣子拳斉は2男。明治中期に没した。
⇒ 服部犀溪服部拳斉 (参)「高梁市史」「高梁古今詞藻」「巨瀬村史」「岡山縣人名辭書」 
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わたなべ らいざん:渡辺 磊山

明治29年〜昭和18年(1896〜1943)
高梁市落合町近似(鍛冶屋町)
漆芸・彫刻家

 川上郡成羽町日名に生れ、山陽銀行高梁支店に勤務。
 余暇を利用して、漆芸・彫刻を成羽町の平松梁岳に師事して技を磨いた。職を辞して後は、市内近似鍛冶屋町に居を構え、風流を友として竹木を刻した。漆芸は県下一とも称され、後楽園荒手茶寮に多くの作品が残っている。また彫刻は豪放で刀(とう)の切れ味は抜群であった。 (参)「高梁市史」  
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