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はぎわら やさぶろう:萩原 弥三郎

嘉永5年1月20日〜昭和15年(1852〜1940)
高梁市宇治町
地方政治家(宇治村長)

 阿哲郡の庄屋格・津村為十郎の次男。宇治の萩原氏の養子となる。萩原氏は代々庄屋を務めた家柄であった。
 明治6年(1873)副戸長となり、その後戸長を務める。同22年(1889)から大正3年(1914)までの25年間宇治村長を務める。その間、明治43年(1910)2月25日に内務大臣より、村行政の実績が良好であったため選賞状を授与される。全国的にその業績を慕われ、九州から北海道まで、請われるままに講師となって各地を講演して回った。
 その業績の主なものは、道路整備として宇治に繋がる幹線道路の成羽線・高倉線・松原線の改良、村教育会・村奨学温情会・戸主会・婦人農談会・宇治矯風青年団・少女会・村高齢者慰安会などを設け、また学校建設・図書館を設置し地方自治の推進を図り村民を指導援助した。そして日清・北清・日露の各戦役における銃後行政の充実を行い、村基本財産・学校基本財産の蓄財条例の施行などを行った。
 宇治町丸山の自宅裏山は、丸山城址になっており、土塀の崩れたものが残っている。宇治の中心部から南を見るとプリンの形をしているところから「プリン山」と地元の人々から親しまれている。
 (参)「高梁市史」「川上郡案内誌」 
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はっとり さいけい:服部 犀渓(1)

文政2年〜明治20年4月15日(1819〜1887)
高梁市(東側の通り、北側より2軒目)
備中松山藩士、漢学者(歩小姓・6石2人扶持)

 名は義憲、通称陽輔のち荘八郎。犀渓は号。父は備中松山藩士の服部林平。山田方谷に藩校有終館で学ぶ。鎌田玄渓・進鴻渓と共に、方谷門下の高弟として有名な三渓の一人。
 嘉永・安政の頃(1848〜1860) に、有終館の教授また奉行役、農兵頭を歴任した。この頃に、加賀山程蔵と共にアメリカ渡来(1853)の頃より始まった長沼流の軍師として、鉄砲・弓・長柄(ながえ)(竹竿を用いた。) の調練(ちょうれん)(軍事訓練)を伊賀町(高梁市) の矢場で(時には桔梗川原) 行っていた。老若の藩士が入り交じり法螺(ほら)で合図し太鼓で進み鉦(かね)で止まり、「エイ・エイ」と声を掛けて、前進・後退の稽古をさせた。
 明治2年(1869)高梁藩が設置され板倉勝弼が藩知事になると、藩庁職員として租税司に任命された。
 廃藩後の同7年(1874)山田方谷の推薦により久米南条郡大戸(だいと)下(しも)村(現・柵原町大戸)にあった私塾知本館の教督となり子弟に学問を教えた。服部拳斉(膺(よう))は養嗣子。
 ⇒ 山田方谷鎌田玄渓進鴻渓・服部拳斉(すぐ下の項目)  (参)「高梁市史」「高梁古今詞藻」「昔夢一斑」 
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はっとり けんさい:服部 拳斉(2)

嘉永6年〜明治44年1月20日(1853〜1911)
高梁市出身
教育者

 名は膺(よう)。字は士善。初めの名は兵彌。号は拳斉又は撫瓢、迂史。
 備中松山藩士・渡辺貞介(牛壑(ぎゅうがく))(高梁市)の二男。服部犀渓(高梁市)の養子となる。有終館で山田方谷に学ぶ。
 明治5年(1872)学制改革が行われ、小学校ができ有終館が廃止されたが、三島中洲は山田方谷と協議し又、犀渓、拳斉、荘田霜渓等と相談し、有終館の復興を図った。
 同7年(1874)の末には、美作の北和村(現・柵原町) に矢吹正誠が温知館を設け、方谷の推挙で荘田霜渓が教師となるが、霜渓が大戸(現・柵原町) の知本館へ移った後を受け拳斉が教師を務めた。
 その後上京し、二松学舎で学び、助教となる。そして熊谷中学校の校長兼教師となるが廃校となる。次いで徳島、新潟、三重の各県の中学校で教える。また徳島師範学校の教諭を務めた。著書に『漢文軌範』二十巻がある。
 ⇒ 渡辺貞介(牛壑(ぎゅうがく))・服部犀渓(すぐ上の項目)・山田方谷三島中洲荘田霜渓  (参)「高梁市史」「高梁古今詞藻」 
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はやし きみお:林 癸未雄

明治16年9月17日〜昭和22年10月26日(1883〜1947)
高梁市出身
経済学者(博士)・早稲田大学総長代理

 藤井種次郎の二男に生れ、母の実家・林家を継ぐ。
 高梁中学校から大阪の北野中学校に転校、早稲田専門学校英語専修科を経て、明治38年(1905)早稲田大学法学部を卒業、古河産業(注1)に入社、労働問題の調査研究にあたる。
 大正9年(1920)欧米を視察、翌年帰国し、母校の早稲田大学政治経済学部で、社会政策や工業経済の講義に当たる。同12年(1923)教授に就任。同大図書館長、政治経済学部長、常務理事、総長代理(昭和21年=1946)、日本図書協会理事長を歴任。
 その間、東京女子大学、津田英語塾に出講、「中央公論」などのジャ−ナリズムでも活躍するなど、わが国社会政策学会に多くの先駆的業績を残す。国家社会主義の理論体系を樹立することに努めた。
 著書に『国際労働運動史』『産業民主主義運動』『社会と宗教と芸術』『社会政策新原理』『社会問題各論』『国家社会主義原理』など。随筆『天邪鬼』 経済学博士。 (参)「20世紀日本人名事典」「上房郡案内誌」

注1 古河産業(古河鉱業合名会社)
    京都 岡崎生まれの、古河市兵衛(1832〜1903) が渋沢栄一の援助で1877年足尾銅山を買収、1885年阿仁・院内銀山の払い下げを受け、鉱山経営を発展させた。市兵衛没後の1905年古河鉱業合名会社が設立され財閥化する。(参)「日本史用語集」
古河電気工業は分離した企業。(参)「学芸百科事典」
 三島中洲等が渋沢栄一と親交があったため高梁からも、清水比庵井上公二・佐木能四郎(佐木煙村の息子)・林 葵未雄(この項目)らが就職し活躍した。 
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はやし じょすい:林 如酔

生没年不詳
高梁市東(現・:JTオカムラ内の北東角 )
幕末の備中松山藩士

 6石2人扶持.寺子屋を開き、習字を天保6年(1835)から明治2年(1869)まで男子・女子25人程に教えた。 (参)「高梁市史」 
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はやし とみたろう:林 富太郎

文化10年〜明治4年3月16日(1813〜1871)
倉敷市玉島出身
備中松山藩士

 名は保。字は定卿。通称は富太郎。号は抑齋(よくさい)または雨村。
 玉島通町(現・倉敷市) の豪商豊後屋貫通の子。幼少のときより学問を好み、漢学を横溝かく里(*「かく」は草冠に霍)(注1)に学ぶ。儒学のほかに剣術・柔術などの武芸の鍛練を怠(おこた)らず、家業にも精出して親に孝行を尽くした。そうした品行により若くして村役(むらやく)となる。
 嘉永 6年(1853)玉島に郷学を設置するに当たっては、山田方谷の内意を受けて、これを発議し、三宅半兵衛から経済的な援助を受け鎌田玄渓を教授に迎えた。備中松山藩主より特に佩刀(ばいとう)を許され、安政 2年(1855)郷士格に取り立てられ二人扶持を賜り、藩内を巡教した。同 5年(1858)に八人扶持を賜り、中小姓に昇り、藩校有終館の助教となる。翌年松山(現・高梁市) へ移り、物産方を兼ねる。三島中洲・進鴻溪・荘田霜溪らと交わり、藩政の刷新に当たる。元治(げんじ)元年(1864)50石を賜り、勘定方、隣好方を兼ね、そして撫育総裁などの要職を歴任、村年寄も兼務した。
 山田方谷をよく訪ね親しく教えを請うた。越後(現・新潟県) 長岡藩の重臣河合継之助が山田方谷に師事し備中松山藩に滞在していた安政 6年(1859)9月18日、四国・九州の旅に出たとき玉島の抑齋を尋ね、酒を酌み交わし時局を論じあった仲であった。
 鳥羽伏見の変(1868)により藩主板倉勝静が将軍徳川慶喜に従い行動を共にしたため松山藩は朝敵となり、備前藩に城地を接収された時、富太郎は同士と共に藩の賊名払拭、領地安堵、勝静父子の救出のため京都、大坂、東京で米屋亀内と変名し奔走する。明治3年(1870)勝静父子が禁固に処せられた事などにより気に病み致仕した(退職)。
 玉島竹の浦の新墓に葬られ、三島毅(中洲)撰文の「亡友林抑斉墓碣銘」の墓碑がある。後は上房中学の教師も務めた三男の親興(ちかおき)(注2)が継いだ。末弟の元三郎は漕運業を営み、県議会議員となる。
⇒ 山田方谷鎌田玄渓河合継之助三島中洲進鴻溪荘田霜溪板倉勝静(参)「高梁市史」「高梁古今詞藻」「高梁二十五賢祭~畧傳」「高梁川」

注1:横溝かく里(よこみぞ かくり)(*「かく」は草冠に霍) 
   生年不詳〜 天保 5年 7月(1834)
   漢学者
    倉敷市玉島赤碕の人。西山拙斎の門下の俊秀で、昌平黌の古賀精里にその才を認められたが、病身の父を介護するために仕官を断って帰郷し、自宅で私塾を開いた。真面目な人柄や学究態度は門人たちに大きな影響を及ぼした。天保5年7月没。54歳。(参)「高梁川」

注2:林 親興(はやし ちかおき)
   安政 6年〜大正10年 6月22日(1859〜1921)
   教育者
    林 富太郎の三男。幼名彦太郎、号は遜軒(そんけん)。上京して二松学舎で学ぶ。慶応義塾および同人社に入る。上房中学の教師(英語・習字)となる。次いで上京して文部省に入る。(参)「高梁市史」「高梁古今詞藻」 
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はらだ いのすけ:原田 伊之助

万延元年〜昭和19年3月25日(1860〜1944)
高梁市(日本専売公社西 )
実業家(麦稈(ばっかん)真田(さなだ)の功労者)

 滋賀県に生まれ大阪から明治19年(1886)高梁松山(間ノ町)へ移籍した。
 同年松山村字原に麦稈(ばっかん)真田(さなだ)の工場建設(現・高梁総合文化会館)に着手し、同23年(1890)落成させた麦稈真田の功労者である。これにより同20年(1887)地方産業功労者として緑綬褒章を賜る。
 同30年(1897)10月8日に開業した株式会社高梁銀行の取締役に就任。その後、養蚕振興に着目し、大正9年(1920)2月起工の黄微(きび)生糸販売利用信用組合の組合長に就任し、生産から消費へ一貫した製糸工場の操業を開始する。
 翌年3月2日火災で全焼するが、7月には操業を再開。しかし損害が大きく同12年(1923)組合を解散。しかし養蚕業は益々盛んになり再建にとりかかり、同13年(1924)5月合資会社原田製糸工場を創立して社長となる。常に良質な製品を製造することを経営の柱とし、地方産業発展に寄与した。
 しかし中小企業の経営は厳しく、昭和15(1940)年8月、日本製糸鰍ヨ売却。同社の高梁工場として製糸業を続け、その後日本レイヨン鰍ノ引き継がれ、同31年(1956)に閉鎖されるまで高梁地方の主要な企業として貢献した。
 また、備中松山城の修築工事のために、昭和6年(1931)には保存・修理の協議会に参画、復興に尽力し同15年(1940)に修築工事は完成した。同19年(1944)没。墓は定林寺にある。  (参)「高梁市史」「上房郡誌」 
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はらだ かめたろう:原田 亀太郎

天保9年8月15日〜元治(げんじ)元年7月19日(1838〜1864)
高梁市新町出身
幕末の勤皇の志士

 高梁市新町の煙草(たばこ)商原田市十郎の長男に生まれる。名は広。号は千齢。通称は始め亀太郎、のち一作。
 幼少より向学心に燃え進鴻渓(昌一郎) について学び、書をよく読んだ。安政元年(1854)江戸に出て岸淵蔵に蘭学を学ぶ。藩主板倉勝静(かつきよ)はその才能を見込み士格に準じ、三人扶持を給した。
 次いで倉敷の森田節済の門に入り、尊皇攘夷の思想が芽生えた。間もなく辞して和泉(いずみ)(現・大阪府) で谷三山の門で学び、また剣を広瀬季忠に学ぶ。そして近畿(京阪地方)の士と交わる。
 亀太郎は平素から尊王攘夷の説を主張していたが、米船が浦賀に来港し和親貿易を迫ったとき(1853)、幕府の処置に憤慨し、文久3年(1863)8月、元侍従中山忠光(注1)の大和(やまと)挙兵(天誅組の乱(注2))に当たって勇躍その軍に参じ、各地に転戦したが破れ、遂に捕らえられて元治(げんじ)元年(1864)7月19日、京都堀川の獄舎で同囚32人と共に斬に処せられた。
 処刑数日後、父市十郎は亀太郎の獄中の書と、石川晃山の描いた画像とを倉敷の森田節済の所へ持参し、これに節済が画像記を書いた。これが稀有(けう)の名文であったため、亀太郎の名声は益々喧伝(けんでん)された。
 明治7年(1874)5月朝廷より祭粢金(さいしきん)(神前の供え物料)を賜り、同24年(1891)9月靖国神社に合祀され、同36年(1903)には従五位に追贈された。墓は高梁市和田町、道源寺の山門の右下にある。墓の右下に三島毅(中洲)撰文の「原田亀太郎顕頌碑(けんしょうひ)」がある。

 新島襄(じょう)とは、安政 元年(1854)江戸に出て数年蘭学を学んだ時期にでも知り合いになったのか、襄が明治13年(1880) 2月キリスト教の布教に高梁へ来た時に、妻の八重子へ宛てた手紙に「私の旧友原田亀太郎と申す者の家を尋候(たずねそうろう)に老父煙草屋(たばこや)市十郎存命にあられ、私に昔話をなし 袖に涙をしぼりつつ、大和の軍より遂に亀太郎の京獄に入れられ獄中より父にあてし文(ふみ)など示し呉(くれ)、私に逢ひしは倅(せがれ)に逢ひし同様と申され 大いに喜び呉(くれ)候(そうろう)。」と、したためている。
⇒ 板倉勝静三島中洲進鴻溪新島襄 (参)「高梁市史」「高梁二十五賢祭~畧傳」「原田亀太郎顕頌碑」

注1:中山 忠光(なかやま ただみつ)
   弘化 2年〜元治(げんじ)元年12月(1845〜1864)
   幕末の尊皇攘夷派の公家
   小壮(しょうそう)の尊皇攘夷派の公家として活躍。文久 3年(1863)京都を脱出して長州(現・山口県) に向かい、5月10日の攘夷戦に参加。次いで吉村寅太郎らと大和国(現・奈良県) 五条で天誅組の乱を起こし、首領となるが破れて長州に逃れる。元治元年(1864)12月長州藩保守派により暗殺される。(参)「学芸百科事典」

注2:天誅組の乱(てんちゅうぐみのらん)
 文久3年(1863)中山忠光を擁した尊攘派国学者伴林(ともばやし)光平(みつひら)・土佐藩士吉村寅 太郎らの天誅組が大和国(現・奈良県) 五条の代官所を襲撃、吉野に転戦したが諸藩兵に包囲され壊滅した。 (参)「日本歴史用語集」 
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