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きつの とみひこ:橘野 富彦

昭和 5年〜平成 6年(1930〜1994)
山口県出身
洋画家

 母は高梁市宇治町の出身。
 東京芸術大学に入り油絵を学ぶ。在学中の昭和29年(1954)、第28回国画会展に初出品。翌年芸大を卒業、第29回国画会展でプールブ賞を受賞。その後、多くの賞を受賞。作品は20歳代には具象的絵画が多く、30歳代になると抽象的絵画が多い。晩年は人物画を中心に落ち着きのある均整の取れた作品が多く残されている。高梁市に作品が寄付され、文化交流館に所蔵されている。(参)「高梁文化交流館資料」 
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きむら しづ:木村 静

天保 8年1月〜明治33年2月11日(1837〜1900)
備中松山藩士の娘として江戸藩邸で生まれる
教育者(福西志計子と共に順正女学校を創設)

 備中松山藩士・木村忠蔵の長女として江戸桜田の備中松山藩江戸藩邸で生まれる。嘉永6年(1853)16歳の時初めて備中松山(現・高梁市)に帰る。
 安政 3年(1856)19歳のとき本家の木村氏に嫁ぎ二女を設ける。慶応3年(1867)夫を失う。
 明治8年(1875)38歳の時生計を立てるために、福西志計子と共に「岡山裁縫伝習所」に学び、翌年 7月帰高。福西と共に10月より高梁小学校に新設された女紅場の教師となる。同10年(1877)高梁小学校付属裁縫所の教師となる。
 同13年(1880)2月、京都の同志社の新島襄が来高して、高梁小学校付属裁縫所で開催したキリスト教の講演会を聞き、これに感銘し福西らと共にキリスト教婦人会を組織した。同15年(1882)4月26日高梁教会の設立の日に福西ら15名で初めて、金森通倫(みちとも)により洗礼を受ける。
 同14年(1881)7月には、高梁小学校付属裁縫所を福西と共に退職し、12月10日私立裁縫所を高梁向町の黒野定太郎の屋敷を借りて開設した(福西志計子公園。高梁税務署の東側)。同18年(1885)順正女学校と名称変更、同29年(1896)伊賀町に移転。
 同31年(1898) 8月福西志計子が死去すると後追うように明治33年(1900)死去。私立裁縫所を起こしてから、福西志計子と歩んだ20年は、進退・苦楽・行動を共にした苦節の時代であつたが、生徒にとっては、慈母のような教師であり、福西志計子にとっては、陰にあって助け励ます協力者であった。
⇒ 福西志計子金森通倫新島襄 (参)「高梁市史」「有終」 
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きむら のぶゆき:木村 信行 

万(まん)延(えん)元年5月7日〜昭和15年11月16日(1860〜1940)
高梁市甲賀町
実業家

 名は信行、幼名は力太郎、号は水筒(すいとう)。
 備中松山藩士で藩校有終館会頭を務めた木村豊・満喜の長男。熊田鉄次郎(彬斎(ひんさい))、山田方谷の義孫・山田準は弟。荘田霜溪に美作の知本館で学ぶ。後上京し、明治法律学校で法学を修め、警察官となる。その後会社及び新聞事業を行う。漢詩を能くし高梁古今詞藻に収められている。
⇒ 熊田鉄次郎山田準荘田霜溪 (参)「高梁市史」「高梁古今詞藻」 
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