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ふくい てんきゅう:福井 天弓

明治35年3月25日〜昭和63年10月29日(1902〜1988)
高梁市玉川町玉の人
川柳家

 本名新一。天弓は号、別に七古調がある。
 若い頃、満州(現・中国東北部)に渡り南満州鉄道会社に入社し撫順(ぶじゅん)で水道の仕事を行う。若い時から川柳(せんりゅう)を好み、昭和3年(1928)京都葵吟社撫順支部を設立する。次いで同5年(1930)蛇尾線(だびせん)吟社を設立し、自ら主宰し『蛇尾線』を発行するが間もなく社名を撫順川柳社と改める。また、同13年(1938)誌名を『琥珀(こはく)』と改める。
同22年(1947)川上郡玉川村(現:高梁市玉川町玉)に引上げ、玉川郵便局に勤務しながら『琥珀』を発行し、大陸川柳人同窓会のメンバ−として活躍した。 (参)「川柳総合事典」  
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ふくだ ぎん:福田 銀

弘化4年3月24日〜明治21年5月3日(1847〜1888)
高梁市落合町近似出身
明治時代の女性献体者

 川上郡近似村(現・高梁市落合町近似)の福田吉三郎の長女(墓表には三女)として生まれる。
 のち本町96番地に居住する。生まれつき順良であった。事情があって終身結婚しなかった。
 明治15年(1882)4月26日高梁キリスト教会創立の日に福西志計子・柴原宗助らと共に、岡山教会牧師金森通倫(みちとも)より受礼して入会。高梁キリスト教会最初の信者となる。キリスト教を信仰すること10数年に及び、よく教理を悟った。また日常の人としての教えを尊敬しないものはいなかった。
 不幸にして子宮癌に罹(かか)る。病状は益々重くなり回復できないことを知り、親族に「私が死んだら、医者にお願いして私の体を解剖して病源を探って、世の中の同病者を救って下さい。」と遺言し、闘病生活 3年、死去した。42歳。
 多くの医師により解剖され、医学に非常に役だった。キリスト教徒の解剖は、上房郡では勿論(もちろん)初めてであり、岡山県人としも最初の献体と言われている。死去の翌年2月に、高梁市頼久寺町のキリスト教会墓地(北側奥の中央)に中村長遷(鷲峰)撰文による「福田 銀墓表」が建てられた。
⇒福西志計子(すぐ下の項目)・柴原宗助金森通倫中村鷲峰 (参)「福田 銀墓表」 
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ふくにし しげこ:福西 志計子

弘化4年12月〜明治31年8月21日(1847〜1898)
高梁市御前町、のち向町 
教育者、順正女学校創設者
 備中松山藩士福西伊織の一人娘として生まれる。名は、繁、後年志計・志計子といった。
 7歳のとき父を失い母に育てられた。御前町の住まいが山田方谷の隣にあったので、世人が女子の学問を軽視する時代であったが、志計子は密かに方谷の門に出入りして学んだ。文久3年(1863)17歳の時、井上助五郎を婿に迎え、平和な家庭をつくった。
  明治8年(1875)(28歳)志を立て木村静と共に岡山に出て裁縫の修業をし、翌9年(1876)10月高梁小学校附属裁縫所の教師になる。
 同12年(1879)金森通倫(みちとも)、中川横太郎らがキリスト教伝道のため来高した時、感銘を受ける。翌13年(1880)京都同志社新島襄の伝道を聞き、婦人会創設に力を尽くした。同14年(1881)7月、キリスト教に対する反抗世論のため高梁小学校附属裁縫所教師を辞職し、12月10日木村静と共に高梁向町の黒野定太郎の屋敷(注1)を借りて新たに私立裁縫所を開設。同15年(1882)4月26日高梁キリスト教会創立の日に福田銀・柴原宗助らと共に、岡山教会牧師金森通倫より受礼を受け入会。 高梁キリスト教会最初の信者となる。
  同18年(1885)1月女子教育に文学科併置の必要を感じ、東奔西走の末、文学科併置となり裁縫所を私立順正女学校と改称。初代校長に柴原宗助が就任し、志計子は生涯経営者兼教師であった。同20年(1887)上京して神田職業学校に学び翌年帰高。校運は日一日と盛大に向かったが、それに満足せず同26年(1893)校舎新築趣意書を発して世上に訴え、日夜八方に奔走して、遂に同29年(1896)3月頼久寺町14番地に私立順正女学校の新校舎と寄宿舎が誕生した(注2)。
 しかし過労の結果、肺病に罹(かか)り、翌年病状は一進一退し、同31年(1898) 7月に卒業生及び在校生に告別し、8月21日病魔に冒されて没した。52歳。同38年(1905)8月、三島中洲撰文の「順正女学校創建碑」が高梁市伊賀町の高梁学園・順正短期大学の校庭に建立されている。
 祖父福西郡左衛門は備中松山藩士。中小姓並・9石2人扶持。
 夫の助五郎は鳥羽伏見の変・戊辰(ぼしん)の役(1868)の時、元備中松山藩主板倉勝静の箱館(函館)からの救出に上京した。またこの時に起きた野山西村(現・賀陽町)一揆の収拾に奔走した。
 ⇒山田方谷木村静金森通倫中川横太郎新島襄柴原宗助三島中洲板倉勝静
(参)「高梁市史」「高梁二十五賢祭~畧傳」「順正女学校創建碑」「有終」「上房郡誌」

注1:黒野定太郎の屋敷
     現・福西志計子公園・伊賀谷川沿の向町角・高梁税務署東
注2:現・順正短期大学図書館。岡山県重要文化財。明治41年に伊賀町30番地に新校舎が完成し、この建物は寄宿舎となった。 
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ふくもと りゅういち:福本 柳一

明治29年8月10日〜平成3年2月1日(1896〜1991)
高梁市川面町出身
政治家、実業家

 上房郡川面村(現・高梁市川面町)で福本萬右衛門・ますの次男として生まれる。屋号は日野屋。家業は農業の傍ら藍染の紺屋を営む。父は村議会議員を務める。
 高梁中学校(旧制)、第六高等学校を経て、大正11年(1922)東京帝国大学英法科を卒業。司法省に入り横浜、東京の地方裁判所に勤務したが辞職。同14年(1925)10月内務省に入り神奈川県橘樹郡長を務めるが、翌年郡制が廃止となり神奈川県勤務となる。
 そして福井、新潟の各県警察部長、内務省社会局軍事扶助課長、厚生省書記官、内務省土木局道路課長、内閣情報局第4部長などを経て、昭和17年(1942)7月愛知県知事となる。翌年東京都経済局長、埼玉・愛知各県知事、東海北陸行政事務局長官などを歴任の後同21年(1946)退官する。
 その後、全国自転車協議会理事長、大栄漁業社長(名古屋)などを経て、同27年(1952)日本ヘリコプタ−輸送株式会社常務取締役、同32年(1957)名古屋空港ビル取締役、同年全日本空輸株式会社(全日空)代表取締役常務となり、同37年(1962)専務取締役、翌年副社長、同42年(1967)顧問を歴任する。全日空創設時の資金問題に苦労し、わが国の民間航空の幕開け時代に尽力した。同47年(1972)退職。趣味はゴルフ、碁、小唄。自伝『私の人生航路』1〜3巻がある。画家の藤彦衛は同窓生。
藤彦衛 (参)「私の人生航路」 
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ふじい しんたろう:藤井 新太郎

明治31年〜昭和41年(1898〜1966)
高梁市川端町後49番地へ転居(現・森病院)
高梁町助役
  永井恒三郎町長のとき備中松山城が修復されたが、その時の助役。昭和14年(1939)11月1日起工し15年(1940)11月1日に完成した。同16年(1941)5月5日のNHKの全国向けラジオ放送で備中松山城について放送。この時発行した落成記念誌『備中松山城』の著者である。
 娘の富美子は作家 ・石川達三の弟吾平(ごへい)の妻。
 ⇒ 永井恒三郎石川達三 (参)「高梁市史」 
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ふじおか かずお:藤岡 一男

明治44年1月10日〜平成6年1月9日(1911〜1994)
高梁市落合町福地(しろち)出身
       地質学者、大学教授
 旧姓山下。川上郡落合村福地(現・高梁市落合町福地)に生まれる。高梁中学校(旧制)を経て広島高等師範学校を卒業。
 高等師範学校在学中から成羽地域に分布する三畳系植物化石の研究を始め、北海道帝国大学大石三郎助教授の指導を受け、昭和9年(1934)北海道帝国大学理学部地質学鉱物学科に入学、引き続き大石助教授に師事する。同12年(1937)卒業後理学部副手、同年12月理学部助手となり、植物化石の研究に従事した。
 同17年(1942)秋田鉱山専門学校教授とる。同24年(1949)北海道帝国大学から理学博士の学位を授与される。同25年(1950)学制改革により、秋田大学(鉱山学部)教授に配置換えとなり、同51年(1976)定年で退官するまで勤め、秋田大学名誉教授の称号を受ける。
 秋田大学在職中の研究は一貫して中世代及び新生代の植物化石の研究を行ってきた。学会関係では日本地質学会評議員、学術審議会専門委員、石油及び可燃性天然ガス資源開発審議会専門委員。秋田大学内では秋田大学評議員、秋田大学付属図書館長を歴任し、大学運営に携わった。
 一方、学外では新潟大学理学部・東北大学理学部・山形大学文理学部・東京大学理学部の各講師、工業技術地質調査所調査委員を歴任した。また秋田県内では、八郎潟干拓事業企画委員会委員、秋田県文化財専門委員、秋田県総合開発審議会委員、秋田県地下資源開発促進協議会委員、秋田県公害審査会委員なども歴任した。
 長年にわたる植物化石の研究の出発点は、高梁中学校在学中に成羽に多産する三畳紀植物化石の採取にあった。その後も広島高等師範学校、北海道帝国大学時代を通じて上部三畳系成羽層群の植物化石の研究を続け、成羽の植物化石を世界的に有名にした功績は大きい。
 昭和29年(1954)には、成羽町文化功労賞、同39年(1964)には秋田県文化功労賞を受け、同60年(1985)に勲三等旭日中綬章を受賞、同63年(1988)に成羽町名誉町民に推(お)される。 (参)「成羽の化石少年」 
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ふじ ひこえ:藤 彦衛

明治30年 7月 2日〜昭和43年 6月28日(1897〜1968)
高梁市津川町今津出身
洋画家

 彦衛門(びこえ)の筆名を用いることもあった。上房郡津川村(現・高梁市津川町)今津出口に生まれる。
 高梁中学校(旧制)を経て、大正12年(1923)東京美術学校(現・東京芸術大学)西洋画科卒業。同13年(1924)同校研究科を修了する。同14年(1925)『静物』で第六回帝国美術院展(帝展)に初入選。さらに文部省美術展(文展)、新文部省美術展(新文展)にも入選を続ける。
昭和12年(1937)『皇后陛下横須賀海軍病院行啓(ぎょうけい)』の作品が、宮内省のお買い上げとなる。同年中国へ写生旅行。同14年(1939)光風会々友となる。同15年(1940)、紀元2600年奉祝展に『舞衣(まいぎぬ)』が入選、同17年(1942)第五回新文展から無鑑査となる。
 同年父の死去により、郷里の津川村(現・高梁市津川町)へ帰る。翌年光風会の新会員となる。終戦後も郷里で創作活動を続け、同31年(1956)には日本美術展(日展)委嘱となる。また、日展は第三回〜第十回(1960〜67)は委嘱。この間順正短期大学(高梁市)の教授をつとめる。
 作品は、写実的な作風で、家族や身近な人々をモデルにした人物画が多い。代表作は、昭和11年(1936)の文部省美術展入選の「お茶時」(150号)や翌年同じく入選の「水上家族」(150号)など。晩年の作品に岡山文化センタ−寄贈の「野良着」、高梁市へ寄贈の「せせらぎ」などがある。全日空副社長を務めた福本柳一は同窓生。
福本柳一 (参)「高梁市史」「有終」 
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