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くまがたけ:熊ケ嶽

寛政2年〜文政7年8月3日(1790〜1824)
高梁市落合町阿部の出身
江戸時代の関取

 名は喜曽右衛門。高梁市落合町阿部小瀬の出身で、大坂相撲の関取。指呼(しこ)名は熊ケ嶽。
東京相撲博物館の文献によると、文政元年(1818)の番付表で、西前頭13枚目にある。その後同6年(1823)まで江戸大相撲で活躍した。
落合町阿部の高梁病院側道のほとり(廃寺跡地)に、延命地蔵石仏と並んで、高さ 1.2m、幅35pの墓碑がある。正面に「金剛力士熊ケ嶽勇哲居士」、左側面に「八田部山(やたべやま)門弟、熊ケ嶽喜曽右衛門」、右側面に「文政七甲申(かのえさる) 歳閏(としうるう) 八月三日卒、年三十五」とある。 (参)「高梁観光百選」 
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くまた あたか:熊田 恰

文政8年1月20日〜慶応4年1月22日(1825〜1868)
高梁市本(ほん)丁(ちょう)(現・内山下・御殿坂下南側)
幕末の備中松山藩士、年寄役死後家老(200石取り死後300石に加増)
 高梁市本(ほん)丁(ちょう)(現・内山下)で熊田武兵衛矩清(のりきよ)の三男。名は矩芳(のりよし)、通称恰(あたか)。
父は備中松山藩の年寄役で家伝の剣術新影流の師範。このため幼少より武人としての心構えを教えられていた。 2人の兄が早世したので熊田家を継ぐ。熊田家は九郎右衛門玄豊が板倉重昌(板倉家初代・勝重の次男)に従い島原の乱(注1)に従軍し功をたて、禄270石を賜る。玄豊より数えて恰で8代目。
学問を藩校有終館に、剣を伊予宇和島に学び、この時剣術の試合で相手の竹刀(しない)の先皮が破れ恰の目を突き刺したので、隻眼(せきがん)(片目)となったがこれに屈する事なく技を磨き、精神修養も日夜励んだ。この頃「武士は死を恐れてはならない」という人生観を得た。約3ケ年の修行の後帰藩し近習(きんじゅう)となる。
弘化5年(1848)24歳のとき父が病没したので、その後を継いで門弟の指導・育成につとめた。物頭、番頭を経て執政と累進し、慶応2年(1866)11月、42歳のとき年寄役となり藩の重役として活躍した。
慶応4年(1868)正月、鳥羽伏見の戦いの時、藩主板倉勝静(かつきよ)の親衛隊長として大坂に詰つめて活躍した。その後、藩主板倉勝静は将軍徳川慶喜(よしのぶ)に従って江戸に東下したが、恰は藩主勝静より帰藩を命じられ、藩兵 158人を率いて、海路玉島(現・倉敷市)に着いた。この時松山藩は朝敵として岡山藩に包囲されていたが、恰が帰るのを知った岡山藩兵は転じて玉島に向かいこれを囲んだ。恰はこの時(1月22日)自刃して松山藩兵水野湛等 150余名の生命と玉島を戦火から救った。
岡山藩へ提出した松山藩兵の助命嘆願書の草案は川田剛(甕江(おうこう))が作成した。親戚の熊田大輔が介錯に用いた刀は、以前将軍徳川慶喜より藩主板倉勝静が賜ったものを、藩主勝静が「これを我と思え」と別れのとき大阪城で熊田恰が頂戴した正宗の名刀である。
恰は「この刀で介錯してもらうことは誠に本懐の至りである。」と言い、大輔に向かって「日頃のたしなみは今日にある、予の首級は実検に供するものである、一藩の面目を汚(けが)すことなかれ」と戒(いまし)め、静かに東に向かって一礼遥かに主君板倉勝静に別れを告げ、やがて型のごとく座を構え、白木の案(机)に載せた短刀を握り、鋒先を調べ左脇腹に一寸ばかりさし、一文字に引き刀を元の所へ戻し両手を膝において「よし」と力強く言った。大輔は「介錯」と言って刀を振り下ろし首尾よく役目を果たした。
柚木邸の恰自刃の間は、 140年近く経った今でも天井や壁に血痕が付着、当時の悲惨な状況が伺える。玉島の町民は恰を守り神として敬(うやま)い、明治3年(1870)1月、氏神羽黒神社境内に熊田神社を建立し、遺刃を納めて奉祀した。
 岡山藩主池田茂(もち)政(まさ)(将軍徳川慶喜の実弟)は、これに痛く感動して遺族に対し賞賛の書状と香花料として金15両と米20俵を送った。
 松山藩も家老職を追贈し白米30俵を与え、八重籬神社境内の藩祖の廟後に小社を建て、その功績を顕彰した。また嗣子金太郎(注1)に対し 100石の加増があり、家禄 300石を賜った。
慶応4年(1868)1月22日没。八重籬神社境内に、明治17年(1884)「熊田恰頌徳碑」を旧藩主板倉勝静が篆額(でんがく)(古文字の題字)し、自刃当時の状況を良く知っている川田剛(甕江)が撰文し建立されている。
 墓は高梁市和田町の道源寺にあり、助命された隊士たちは、冥福を祈り墓前には「荀(まこと)日新」と隊士一同の名を刻んだ大手水鉢と、庭前の石灯籠に「大阪詰合、159人中、明治元年12月」と刻み感謝し寄進している。
  ⇒ 板倉重昌板倉勝重板倉勝静・川田剛・熊田大輔(すぐ下の項目)
 (参)「高梁市史」「高梁川」「高梁の名碑」「ああ熊田大夫」

注1:『島原の乱』寛永14〜15年(1637〜38)
   九州島原半島・天草島の農民がキリシタン信者と結合して、領主の悪政・弾圧に耐え兼ねて起こした大一揆。板倉重昌(板倉家初代・勝重の次男)は幕府の上使(将軍からの使い)として九州諸大名の軍の指揮を執ったが、戦功が上がらず、これを恥じて寛永15年(1638)元旦に総攻撃したが失敗し自らも戦死した。その後、老中松平信綱が後任として派遣され兵糧攻めの末、2月28日陥落した。(参)「学芸百科事典」
注2:熊田金太郎:後に「恰」を襲名。明治になり高梁藩になった時、日高訥蔵と共に武教官に任命された。⇒ 日高訥蔵 
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くまた だいすけ:熊田 大輔

文政8年12月8日〜明治26年10月6日(1825〜1893)
上房郡高梁柿木町 5番邸(現・高梁市柿木町8番地。)(元高梁北小学校校庭南西の角。現・高梁中央公園)
幕末の備中松山藩士(近習・35俵三人扶持(ぶち))
 熊田稲兵衛の長男、名は矩光、通称大輔。
 妻 けい(明治6年4月22日生)は山田耕蔵(知足斎)の二女。
 養子の鉄次郎(熊田彬斎)は木村豊(現・高梁市甲賀町8番地 )の次男、木村信行(水洞)は長兄、山田準(済斎)は弟。
 慶応4年(1868)1月、鳥羽伏見の戦いの時、藩主板倉勝静(かつきよ)の親衛隊として大坂に詰めた。その後、藩主板倉勝静は将軍徳川慶喜(よしのぶ)に従って江戸に東下したため、藩主勝静より帰藩を命じられ、藩兵 158人と共に、海路玉島(現・倉敷市)に着いた。
 熊田恰一隊が帰るのを知った岡山藩兵は玉島を囲んだ。熊田恰は、この時自刃して松山藩兵水野湛等 150余名の生命と玉島を戦火から救ったが、親戚であった大輔(矩光)が熊田恰の自刃の時、介錯をした。
 介錯に用いた刀は、以前将軍徳川慶喜より藩主板倉勝静が賜ったものを、藩主勝静が「これを我と思え」と別れのとき大坂城で熊田恰が頂戴した正宗の名刀である。恰は「この刀で介錯してもらうことは誠に本懐の至りである。」と言い、大輔に向かって「日頃のたしなみは今日にある、予の首級は実検に供するものである、一藩の面目を汚(けが)すことなかれ」と戒(いまし)め、静かに東に向かって一礼遥かに主君板倉勝静に別れを告げ、やがて型のごとく座を構え、白木の案(机)に載せた短刀を握り、鋒先を調べ左脇腹に一寸ばかりさし、一文字に引き刀を元の所へ戻し両手を膝において「よし」と力強く言った。大輔は「介錯」と言って刀を振り下ろし首尾よく役目を果たした。
 柚木邸の恰自刃の間は、140年近く経った今でも天井や壁に血痕が付着、当時の悲惨な状況が伺える。
 ⇒ 山田準(済斎(せいさい))木村信行(水洞(すいとう))板倉勝静・熊田恰(すぐ上の項目)  (参)「高梁川」  
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くまた てつじろう:熊田 鉄次郎

元治元年〜明治40年5月28日(1864〜1907)
高梁市甲賀町出身、のち柿木町
教員
 名は鉄次郎。字は黒金。号は彬斉(ひんさい)。
 備中松山藩士で藩校有終館の会頭を務めた木村豊の次男。兄は木村信行(水洞(すいとう))、弟は山田準(済斎(せいさい))。14歳のとき、熊田大輔の養子となる。
 有終館で学び、その後上京して二松学舎で学ぶ。そして東京大学古典科漢書課を卒業。山梨県・鹿児島県・高梁の中学の教諭を務める。鹿児島時代の明治30年代後半には弟の山田準は鹿児島の第七高等学校で教鞭を執っており、兄弟ともに鹿児島にいた。また、大阪地方幼年学校の教授も務めた。同40年 5月、兵庫県明石で没。
 ⇒山田準(済斎(せいさい))木村信行(水洞(すいとう))板倉勝静・熊田大輔(すぐ上の項目) (参)「高梁古今詞藻」 
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くるしま よしひろ:久留島 義太

生年不詳〜宝暦 7年11月29日(?〜1757)
備中松山藩士の子
和算家
 通称喜内。隠居後の号は沾数(てんすう)。
 父村上左助義寄は備中松山藩(現・高梁市)の水谷(みずのや)勝宗の物頭を務め、200石取。元禄6年(1693)に水谷家が断絶となったため、浪人となり姓を久留島と改め初め大坂に出る。のち江戸に出て和算塾を開いた。
 中西正好に中西流測量術を学び、大島喜侍に伝えた(一説には大島喜侍に学んだともある)。義太は独学で数学に達し子弟に教えた。
 享保(きょうほう)15年(1730)5月、磐城国(現・福島県)平(たいら)藩主内藤政樹に10人扶持で召し抱えられる。延享 4年(1747)藩主内藤政樹が九州日向(ひゅうが)国(現・宮崎県)延岡に国替になり同行。 6年間仕え、宝暦4年(1754)致仕(隠居)し跡を子の慶之進に譲った。
 義太は数学の発見をしたものを自身では書き残さず、その成果を弟子が書いていたと伝えられており、そのほとんどが草稿又は心覚え程度の断片的なもので、整理し系統立てたものは極めて少ない。しかしその中で特に秀でた業績は「円理に関する研究」「極大極小に関する研究」「行列式に関する研究」「角術の研究」、「方だ(「だ」は土偏に乃、その下に木を書く)術の研究」、「不知段数の研究」、「方陣の研究」、「整数論に関する研究」、「六斜術の研究」等がある。「平方零約術」は平方根の近似値を分数として求める方法。「行列式に関する研究」は西洋の研究に先立つものであり西洋の文献に見られないものみられるが、鎖国の時代であり西洋に伝わることは無かった。
 困難な問題を解決することに対して非凡な才能があり、詰将棋の作家としても知られているが、和算と同じく成書が無い。文政 9年(1826)発刊の『古今名人?(さん)者鑑』に「関脇、名人、延岡、△久留島喜内義太」(△印は故人)とある。
⇒ 水谷勝宗 (参)「明治前日本数学史・第2巻」 
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くわの ひさし:桑野 亀(1)

江戸時代末期〜明治初期の人
高梁市本丁(現・内山下)
備中松山藩士(年寄役、300石取・役料50石 )
 慶応4年(1868)1月、鳥羽伏見の戦いにより、藩主板倉勝静(かつきよ)が将軍徳川慶喜と行動を共にしたため松山藩は朝敵となった。この時備前藩(岡山)に鎮撫(反乱をしずめなだめること)の命が下り、松山(現・高梁)へ攻めてきたとき謝罪、恭順の意を示す嘆願書を亀と大石隼雄、金子外記の3名の連署で差し出し、無血開城が行われ松山城下を戦火から守った。
 また明治2年(1869)、元藩主板倉勝静の謹慎が解かれ9月17日、御根小屋「九竜の間」(奥書院)で家老として井上権兵衛(のち水野正之)と共に備前藩より城地の引き渡し受けた。同14年(1881)12月、亀の屋敷に多少の修理を加えて校舎とし、上房中学が開校された。岡山県立高梁高等学校に画がある。
 ⇒ 熊田恰(四つ上の項目)・板倉勝静大石隼雄井上権兵衛 (参)「高梁市史」「昔夢一斑」「有終」  
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くわの たけひこ:桑野 武彦(2)

天保14年6月15日〜大正9年9月10日(1843〜1920)
高梁市本丁(内山下の西向・北の端、八重籬神社の南側 )
幕末の備中松山藩士、剣術師範
 幕末の備中松山藩・家老桑野亀(ひさし)の三男。分家の桑野孫兵衛(注1)の養子となる。
 幼少より剣を好み、熊田恰(あたか)に新影流を学ぶ。のち津山藩の井汲唯一の門に入り神道無念流を学ぶ。帰藩後、近習役・藩校有終館の剣術師範となる。
 維新後の明治2年(1869)11月高梁藩が設置されると、その職員となり武助教(4人の内の一人)を務めた。同25年(1892)岡山県監獄署武術掛となる。同30年(1897)より大正 7年(1918)までの約20年間高梁中学校武術教師をつとめ、剣道が最も盛んな時期であった。
 明治39年(1906)大日本武徳会より教士を授ける。中国地方随一の名剣士と言われた。高梁中学校退職後の大正7年(1918)神戸の須磨(現・兵庫県)に移り静養。同9年(1920)没。
 勇健で武術に優れ、忠義を重んじ、正直で徳が深かったことは、人に良く知られていた。高梁市内山下の八重籬神社境内に「桑野武彦先生碑銘」が、建立されている。墓は、高梁市の頼久寺にある。
 ⇒ 熊田恰(五つ上の項目) (参)「高梁市史」「八重籬神社・桑野武彦先生碑銘」「昔夢一斑」
  注1:桑野孫兵衛---高梁市本丁(内山下・御殿坂)。取次格、60石取。素槍の師範。  
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