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つじ ひちろうざえもん:辻 七郎左衛門

文政10年〜明治21年9月12日(1827〜1888)
備中松山藩士・年寄役待遇(80石取)

 名は忠貞、通称は七郎左衛門、のち左右と改める。号は華潭(かたん)。
 桑名藩松平家(現・三重県)の江戸藩邸に生まれる。藩主板倉勝静(かつきよ)が桑名松平家より備中松山藩板倉家へ養子に迎えられた時、付き人として随伴。備中松山藩江戸公用人とし常に勝静の側近にあった。
 江戸藩邸の学問所で学び、近習・監察・寺社役・公用人・参政助勤・元締・側用人(そばようにん)などを歴任。年寄役待遇・80石取。戊辰の変(慶応4年=1868)の時は、藩主板倉勝静に同行し東北各地を流転、明治2年(1869)重原藩に拘留されたが、その年の末の12月23日に赦免され重原藩に転籍し、重原藩の藩校・養生館の教授となり、のち大参事を務めた。廃藩(明治4年=1871)後は、愛知県加茂郡長を務めた。
 絵画に長(た)けており、特に人物・花鳥が巧みであった。また漢詩も能くし『高梁古今詞藻』に残されている。著書に、藩主板倉勝静の鳥羽伏見の戦いから自訴に至までの1年10カ月の行動の様子を記(しる)した『艱難(かんなん)実録』がある。
⇒ 板倉勝静 (参)「高梁市史」「高梁古今詞藻」「備作人名大辞典」 
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つつ のりむね:津々 範宗

室町時代(戦国時代)末期の人(1500年代後期)
高梁市中井町津々
津々羅城主、備中国の武将

 加賀守と称した。備中松山城主庄氏の一族。
 高梁市中井町津々本村(ほんむら)の加葉山(かはやま)城に居城し、天文(てんぶん)2年(1533)備中松山城主庄 為資が三村家親に攻められ落城した時、範宗は為資救援のため出陣した。また、高梁市中井町津々の津々羅城は、範宗の居城(上房郡誌)とある。中井町津々と西方がよく見える高低差50bほどの小高い山にあり、前に津々川があり防御(ぼうぎょ)に適した位置にある。
 ⇒ 庄 為資三村家親 (参)「高梁市史」 
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つるみ くらのすけ:鶴見 内蔵助(1)

生年不詳〜元禄7年5月24日(1694)
江戸時代前期の武士
備中松山藩水谷家・家老(禄高2千石)

 名は権弥良直。備中松山藩主水谷(みずのや)勝美(かつよし)の城代家老として仕える。先代内蔵助(くらのすけ)の子で内蔵助は代々鶴見家当主の通名。3代目に当たる。名家老と言われた内蔵助忠俊は祖父。
 藩主水谷(みずのや)家の土木事業は有名であるが、これは内蔵助(くらのすけ)によるよる所が大きいと言われている。賀陽郡八田部村(現・総社市総社)の庄屋・大森元直を登用し備中南部・玉島の新田開発や高瀬通しによる水路建設などの土木事業を行い名を上げた。
 備中松山藩主水谷(みずのや)氏の第三代勝美(かつよし)が生来(せいらい)病気がちであり在城5年目の、元禄6年(1693)10月6日、31歳のとき備中松山(現・高梁市)で逝去した。このため勝美(かつよし)の父勝宗の弟 新左衛門勝能(かつよし)の子信濃守勝阜(かつおか)(従兄弟(いとこ))の長子弥七郎勝晴を養子として跡を継がせるように遺言。幕府に手続きをしたが、許可が下りない内に勝晴は痘瘡(とうそう)(注1)に罹(かか)り、翌11月27日13歳で早世した。このために水谷家は断絶し除封された。
 同12月21日、所領公収となり、播磨国(はりまのこく)(現・兵庫県)赤穂藩主浅野内匠頭長矩(たくみのかみながのり)に備中松山城の請取が命ぜられた。翌7年(1694)2月18日、家老大石内蔵助(36歳)は先鋒を率いて赤穂を出発、翌19日藩主浅野内匠頭は自ら本隊を率いて赤穂を出発し、22日に松山へ到着。大石内蔵助は収城使の家老として、水谷家の家老鶴見内蔵助以下と会見、説得し平穏無事に23日昼時には城地の授受が終わった。このことは「二人内蔵助」として後々まで言い伝えられている。大石内蔵助は藩主浅野内匠頭の名代として、翌8年(1695)5月、上野国(こうずけのくに)(現・群馬県)高崎より安藤重博が新藩主として入国するまで1年あまり在藩した。
 水谷家は断絶し除封されたが、祖先の功績により、水谷勝美の弟勝時に川上郡布賀村(現・備中町布賀)に三千石の知行地を与えられ、一代交替寄合となった。この家も幕末まで続いた。鶴見氏は布賀知行所2代の水谷勝英のとき、鶴見定右衛門が代官となる。子孫は代々これを継いで明治に至った。定右衛門から数えて5代後が、鶴見祐輔その子が鶴見俊輔・鶴見和子。
  ⇒水谷勝美水谷勝宗大石内蔵助・鶴見祐輔(すぐ下の項目) (参)「高梁市史」「備中布賀知行所」「備作人名大辞典」
注1:痘瘡(とうそう)…疱瘡(ほうそう)、天然痘(てんねんとう) 
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つるみ ゆうすけ:鶴見 祐輔 (2)

明治18年1月3日〜昭和48年11月1日(1885〜1973)
群馬県出身
政治家・評論家・小説家・メルボルン大学名誉法学博士

 紡績会社に勤務していた父の転勤で、群馬県で生まれる。先祖は江戸時代前期(1600年代後期)の備中松山藩士(水谷(みずのや)氏の家老・鶴見内蔵助(くらのすけ))。
 岡山中学校、第一高等学校(旧制)を経て、明治43年(1910)東京帝国大学法科大学を卒業、官界に入る。大正2年(1913)政界の大物・後藤新平(外務大臣・東京市長)の長女と結婚。大正13年(1924)鉄道省総務課長を最後に退職。欧州・アメリカ・オーストラリア・インドの大学に遊説し、太平洋会議にも毎回出席し、我国の民間外交に対する国際的な理解を深める為に尽力した。
 昭和3年(1928)岡山一区から衆議院議員選挙(中立)に3度目の挑戦でトップ当選。次の同5年(1930)の改選では落選。以後は義父後藤新平の出身地・岩手県に移り、衆議院に3期連続当選した。戦後は進歩党結成に参画し、初代幹事長に就任するが公職追放となる。
 同27年(1952)三木武夫(後に総理大臣)らと共に改進党を結成。翌28年(1953)参議院議員全国区に当選(1期)、翌29年(1954)第1次鳩山内閣の厚生大臣に就任。この間、太平洋協会会長、自民党顧問などを歴任。同28年(1953)インドで開かれた世界平和会議に日本代表として出席した。
 雄弁家で特に英語演説は第一人者といわれた。その傍ら多彩な才能の持ち主で、昭和初期にベストセラーとなった長編小説『母』など多数の小説、伝記、政治評論を執筆した。著書の主なものは『子』『英雄待望論』『後藤新平』『感激の生活』など。
 評論家鶴見俊輔(注1)、和子(注2)の父。岡山県立高梁高等学校に「空山不見人」の書がある。
 ⇒ 鶴見内蔵助(すぐ上の項目)  (参)「コンサイス日本人名事典」「有終」

注1:鶴見俊輔(つるみ しゅんすけ)
 大正11年(1922)東京に生まれる。哲学者・評論家。東京高等師範付属中学卒、15歳で渡米し、ハーバード大学哲学科に学ぶ。戦後、先駆社を創立、丸山真男らと「思想の科学」を刊行した。大衆文化研究など、日常性に根ざした独自の哲学を展開。60年安保で東京工大教授を辞職、以後、安保闘争、ベトナム反戦運動でも大きな役割を果たし、平和運動の分野でも活躍している。
 主な著書に『いま、人間として』『語りつぐ戦後史』『限界芸術論』『戦後日本の大衆文化史』『高野長英』『柳宗悦』『児童文学の周辺』『鶴見俊輔著作集』全5巻がある。
注2:鶴見和子(つるみ かずこ)
 大正7年(1918)東京生れ。津田英学塾(現:津田塾大学)を卒業し、ブリジストン大学で社会学博士。上智大学教授を経て、上智大学名誉教授。専攻は社会学。民俗学の手法を取り入れた独自の社会学の研究を行う。
 主著に『好奇心と日本人』『社会変動と個人』(英文)『標泊と定住と…柳田国男の社会変動論』『内発的発展論』など。著書『南方(みなかた)熊楠(くまぐす)』(日本民俗文化大系・第4巻)で昭和45年度(1970)の毎日出版文化賞を受賞。平成4年(1992)7月には高梁で南方(みなかた)熊楠(くまぐす)の講演を行う。平成7年(1995)脳梗塞で倒れ半身不随になるが不屈の精神でリハビリを行い歌集『回生』を出版する。和服がトレードマークであった。平成18年(2006)7月31日没。88歳。(広報たかはし、山陽新聞) 
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