享和元年〜嘉永4年6月10日(1801〜1851)
倉敷市玉島の人
備中松山藩士、書家。
名は満啓。字は子発。玉嶼は号。
浅口郡玉島新田村(現・倉敷市)で武哲の子として生まれる。柚木家は浅口郡亀山村(現・倉敷市玉島富田)より寛文年間(1660年代)玉島に移住し、備中松山藩御用逹となり代々吟味役のち、奉行格に進み又玉島村庄屋を務めた家柄で、玉嶼は4代目になる。
16歳で備中松山藩小姓格となり、24歳で家を継ぎ、馬迴役、吟味役、禄 100石を賜り奉行格となる。弓道、乗馬、剣道を好み、また書も巧みで唐の書家・顔魯公(顔真卿) の書法を学んだ。 (参)「岡山縣人名辭書」「高梁川」
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文政8年7月22日〜明治34年8月11日(1825〜1901)
倉敷市玉島の人
備中松山藩士・画人
画人。名は行啓(ぎょうけい)。字は子篤。はじめ久太郎、のち廉平と改める。号は玉洲・竹叟(ちくそう)。浅口郡玉島村(現・倉敷市)で柚木玉嶼(ぎょくしょ)の子として生まれる。
漢書を山田方谷に学び、14歳で備中松山藩板倉侯の表小姓となり、のち大小姓格にあげられ、嘉永7年(1854)父の後を継ぎ、禄90石を賜った。
また、明治12年(1879) 5月 1日開業した第八十六国立銀行(本店高梁)の創立者の一人として同26年(1893) 7月10日まで取締役を務め、その後を養子の方啓に譲った。
漢詩及び南画の墨竹画を描き、晩年は茶事を嗜(たしな)み薮内(やぶのうち)流の皆伝を受けた。鎌田玄渓を玉島団平町に招き、私塾「有餘館」を開かせ子弟に教授させた。
墓碑の撰文は友人の三島中洲が書いた。南画家久我小年の父。明治34年没。77歳。
⇒ 柚木玉嶼(すぐ上の項目)・山田方谷・三島中洲 (参)「岡山縣人名辭書」「高梁川」「中國銀行五十年史」
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天保5年〜明治24年7月16日(1834〜1891)
倉敷市玉島出身
女流画家
名は常。のち久米。浅口郡玉島村(現・倉敷市)で柚木玉嶼(ぎょくしょ)の三女に生まれる。
幼少時に武道を好み、種子島流の砲術も能くした。鎌田呉陽、中原国華に就いて画を学び、写生派の山水花草を得意とした。小田郡西浜(現・笠岡市金浦)の久我松韻に嫁し和歌を学んだ。
⇒ 柚木玉嶼(二つ上の項目) (参)「柚木玉邨」
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慶応元年8月22日〜昭和18年10月25日(1865〜1943)
倉敷市玉島の人
日本画家・書家
名は方啓。通称は梶雄。字は子爰(しえん)、号は瓊島(けいとう)仙客(せんきゃく)・雙璧斎主(そうへきさいしゅ)・雲館主人・西爽亭(さいそうてい)主人。
浅口郡玉島村(現・倉敷市)で柚木正兵衛の子として生まれ、のち柚木玉洲の養子となる。初め儒学を松田呑舟、信原藤陰、鎌田玄渓、鎌田平山に、また、詩を森春濤、三島中洲、高野竹隱らに、書を日下部鳴鶴に学んだ。
明治23年(1890)東京農林学校(現・東京大学農学部)を卒業後、第八十六国立銀行(高梁市) 取締役(明治26年〜同30年/1893 〜97)、ついで椛謾ェ十六銀行(高梁市) 取締役(同30年〜同33年/1897 〜1900)、玉島商業銀行監査役、共益銀行取締役などを歴任、また岡山県農業会幹事兼技師として、産業方面でも活躍した。
南画を玉島に来訪していた清国人の胡鉄梅に就いて学び、また訪中して宋・元の絵画をも研究した。画格が高く、流麗な水墨画を描く一方、詩文、書道にも通じ、諸芸に精通する知識人として、県下に指導的な役割を果たした。
昭和2年(1927)日本書道作振会展に出品した「尢桝雛鱒}(けいらんそうらんず)」は、文人画部第一席推薦東日賞となった。泰東書道院、平安書道会の審査員、泰東書道院岡山支部長、興亜書道連盟総務などを歴任し、同16年(1941)には合同新聞社(山陽新聞社の前身)文化賞を受賞。
著書に『玉邨画話』、『瓊島仙(けいとうせん)館画存』、『雙璧斎(そうへきさい)瑣談』、『西爽亭(さいそうてい)墨談』、『玉邨道人翰墨集』などがある。岡山県立高梁高等学校に軸が所蔵されている。
⇒ 柚木玉洲(二つ上の項目)・鎌田玄渓・鎌田平山 (参)「柚木玉邨」「中國銀行五十年史」「高梁古今詩藻」「有終」
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明治18年10月22日〜昭和46年10月28日 (1885〜1971)
倉敷市玉島の人
洋画家
幼名は彌。号は晩年は寫山人(しゃさんじん)。倉敷市玉島の南画家・柚木玉邨の長男。
明治39年(1906)岡山中学校(現・岡山朝日高等学校) 卒業後、明治40年(1907) 太平洋画会研究所に入り洋画家満谷国四郎、中村不折の指導を受ける。
同42年(1909)、太平洋画会第七回展で「塋門(えいもん)」が初入選。同44年(1911)、第五回文部省美術展覧会(文展)で「鞆津の朝」が初入選。同年、満谷国四郎、与謝野鉄幹らと共に渡欧、パリでアカデミ−・ジュリアンのジャン・ポール・ローランスに師事する。
大正4年(1915)欧州大戦の勃発によりスペイン、スイスを廻り帰国。一時郷里の玉島に帰り、滞欧作品展を東京と玉島で開催した。翌年、東京田端にアトリエを構え、書写山と名付ける。
同年の第十回文展に出品した「護書の図」が特選を受賞。さらに「水郷の夕」(第一回帝国美術院展=帝展(大正8年=1919)、「麦秋」(第四回帝展) (大正11年=1922) 、が続けて特選を受賞、画壇の注目を集める。昭和3年(1928) から延べ4回にわたり帝展審査員、評議員を務める。その間中国へ2回(1924/1926)訪れた。
同20年(1945) 戦災のためアトリエを焼失し主要な作品を失った。戦後は倉敷市玉島へ帰り、日展、新日展に出品を続ける。この間審査員、評議員を務め、同45年(1970) には日展参与となる。
また、同30年(1955) に和田三造らと新世紀美術協会を創設。後進の指導に当たった。
風景画の秀作が多いが父譲りの日本画も手がけた。後半生には、客観的な写実を離れ自己の心象風景ともいえる清涼味あふれる独特の作品を残した。
山陽新聞賞、倉敷市文化賞、三木記念賞などを受け、同43年(1968) 勲四等瑞宝章、同45年(1970) 紺綬褒章を受章。画集に『柚木久太画帳』(1966年刊)。
⇒ 柚木玉邨(すぐ上の項目)・与謝野鉄幹 (参)「柚木碑久太展・図録」
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