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よこた だんぺい:横田 団平

嘉永元年〜大正4年(1848〜1915)梁市中井町
地方政治家(中井村長)

 中井村(現・高梁市中井町) 西方に生まれる。
 初代の中井村長藤井収蔵が、在任8カ月で死去したのに伴い、二代目村長として明治23年(1890) 5月から同37年(1904)5月まで四期14年間に亘って村政を担当した。町村制施行期における自治行政の基礎をつくった。
 業績として特筆すべきは、学校の建設として同26年(1893)柴倉分教場(中井町西方) を新築。同28年(1895)には村内に赤痢が流行し、その対策に苦慮した。同29年(1896)に「小学校基本財産増殖に関する条例」を制定し、村内の全家庭に桐の苗木を配布し、成木を販売し資金を捻出して、同34年(1901) 校舎の敷地を定め、同36年(1903) 西方中河原の、現在の中井小学校の位置に、1.910 円の建設費を投じて新校舎を建設した。(参)「高梁市史」 
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よこみ げんぞう:横見 源蔵

文久3年〜昭和9年(1863〜1934)
高梁市津川町
地方政治家(津川村長)

 県庁・郡役所勤務、村議会議員、収入役などを歴任し明治34年(1901)から同42年(1909)まで三期12年間津川村長を務めた。村民から有為の人として信望を得ていた。
 村長在任中は植林事業に意を用い、村有林に広範囲に植林した。それが後に見事に実を結び新制津川中学校建築の大きな財源となった。日露戦争(1904〜05)後の同40年〜42年(1907〜09)に、津川小学校(現・高梁東中学校の一部)の建築、八川分教場(現在廃校)の建築という大事業を成し遂げた。同38年(1905) からは村内の道路の新設に努力した。 (参)「高梁市史」 
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よこや なんざん:横矢 南山

生年不詳〜嘉永年中没(?〜1850年頃)
備中松山藩士

 名は直温、字は士良、通称は庄太夫、号は南山。備中松山藩の用人役を務める。
 若い時に江戸に出て外桜田に住み、「沈(ちん) 南蘋(なんぴん)」の画法を慕い、岡田閑林に画を学びその奥義を極める。花鳥を得意とした。常に月の16日に自宅に文人や画家を集めて交歓した。
 間野凸渓(とっけい)は弟子。岡山県立高梁高等学校に「七福神」の画、「つばめ」の短冊がある。
(参)「上房郡誌」「岡山縣人名辭書」「有終」 
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よこや ゆきたか:横屋 幸喬

天保2年〜明治29年10月4日(1831〜1896)
高梁市中之町
備中松山藩士(大小姓格・60石取)

 幼名は本之進又は譲之介、ついで隆平のち憲蔵。名は幸喬。号は臼岡(きゅうこう)。黒野正辰(向町)の次男として生れ、横屋幸祐の養嗣子となる。
 幼少のとき、江戸に出て樫原流槍術を学び、安政2年(1855) 8月、19歳のとき九州柳川で腕を磨き、松山藩の槍術指南役となる。慶応 4年(1868)1月松山藩が朝敵となり岡山藩の征討を受け、岡山藩が美袋に到着したとき、正使の家老・大石隼雄に随行し、副使として三島中洲と共に嘆願した。 1月18日鎮撫使が城下に入ったとき目付役であったので、奉行役の進昌一郎(鴻溪)と共に城下の入り口木槿垣(むくげかき)に出迎え本丁(現・内山下)の総門まで案内し、その後城地金穀一切を岡山藩へ引き渡した。また松山城の開城(明治2年=1869−9月)受け取りに列席し活躍した。
 維新後は公用人となり、のち神奈川県大属を務めた。墓は、高梁市寺町の寿覚院にある。生家は、今でも高梁市中之町にある。
⇒ 大石隼雄三島中洲進昌一郎(鴻溪) (参)「高梁市史」「高梁古今詞藻」「墓碑」 
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よこやま ぎゅうなん:横山 牛南

明治10年〜没年不詳 ( 1877〜 ? )
高梁市中之町出身
銀行家

 名は昌次郎。号は牛南、別に藤鼓(とうこ)・黄木山人(こうぼくさんじん)・不如学舎(ふにょがくしゃ)主人の号がある。
 高梁市中之町の横屋幸喬(ゆきたか)(憲蔵)の三男。横山氏の養子となる。同志社に入り、のち米国の大学で学び、学位を授ける。帰国後日本銀行に入る。その後、北海道銀行、日本信託銀行の重役、また第十五銀行の常務取締役を歴任する。
⇒ 横屋幸喬(すぐ上の項目) (参)「高梁古今詞藻」 
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よこやま へいざえもん:横山 平左衛門

明治15年〜昭和15年(1882〜1940)
高梁市松山(大久保)
地方政治家(松山村長)

 大正15年8月28日〜昭和4年5月9日(1926〜1929)の間、第十二代松山村長に就任。高梁町と松山村の合併に尽力し、昭和4年5月10日に新高梁町が誕生した。池上仙二郎(のち長右衛門)高梁町長、薬師寺義鎮薬師院住職と共に町村合併の名トリオといわれた。
 ⇒ 十代目池上長右衛門(仙二郎)薬師寺義鎮 (参)「高梁市史」 
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よこやま ゆうさく:横山 有策

明治15年12月18日〜昭和 4年 4月 2日(1882〜1929)
高梁市玉川町下切(日名大谷)出身
明治〜昭和初期の英文学者

 高梁中学校卒業後、明治38年(1905)早稲田大学英文科を卒業。同40年(1907)渡米、ハ−バ−ド大学でシェイクスピア、英国演劇史、作劇法などを研究。同44年(1911)帰国。中学校で英語を教える。
 大正5年(1916)早稲田大学がシェ−クスピア生誕 300年祭を催したとき大いに活躍し、その年同大学英文科の講師となり、前年教壇を退いた坪内逍遥(しょうよう)の後を受けて英文学・特にシェイクスピアを講義した。のち教授となり、昭和 4年(1929)46歳で病没するまで教育に専念した。
 その文学観は、遺稿『シェイクスピア研究』で「芸術は人生の味を豊富ならしめる一種の人間教育」というように、文学による精神の浄化性を重んじた。著書には『文学概論』、『シェリ−の詩論と詩の擁護』、『英文学史要』、翻訳に『沙翁傑作集』(『世界文学全集』新潮社)などがある。
 (参)「川上郡案内誌」「20世紀日本人名事典」「日本近代文学大事典」 
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よさの あきこ:与謝野 晶子

明治11年〜昭和17年(1878 〜1942)
大阪府堺出身
明治〜昭和初期の女流歌人・詩人

 旧姓は鳳(おおとり)、名は晶(しょう)。
 与謝野鉄幹(寛)を慕って新詩社に入り、明治34年(1901)鉄幹と結婚。歌風は情熱的で華麗、自由奔放な歌風によって浪漫主義短歌の絶頂をなした。
 日露戦争中の明治37年(1904)「旅順港包囲軍の中にある弟を歎きて」の詩を『明星』に発表して戦争を批判。「君死にたまふことなかれ」の一句は有名
 。芳賀直次郎(高梁市大工町・写真館 芙蓉軒主人)の招きで昭和4年(1929) 11月、夫鉄幹と六女の藤子(6才)を伴い高梁町へ来高。高梁町長徳田蕃之等が同行し松山城に登城した。晶子は和服姿であり、草履(ぞうり)の緒(お)が切れてハンカチを割(さ)いて鼻緒(はなお)を結んでの難歩行であった。
 当時の城は天守閣の屋根、壁は落ちて、瓦礫(がれき)の中に松の大木が生えて荒れ放題で、僅(わず)かに正面の破風(はふ)を針金で引っ張り倒壊を免れていた。その後の昭和15年(1940)に松山城の解体修理が完成し、現在の城が残されている。
 松山城に登り詠んだ歌は
 "しらじらと溜れる霧の上走る 吉備の古城の 山の秋風"
歌集『みだれ髪』。
⇒ 与謝野鉄幹(すぐ下の項目) (参)「学芸百科事典」「日本歴史用語集」「高梁の名碑」「小説 鉄幹」 
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よさの てっかん:与謝野 鉄幹

明治 6年〜昭和10年 3月26日(1873 〜1935)
京都市出身
明治〜昭和初期の歌人・詩人

 本名は寛(ひろし)。京都在住の僧(そう) 与謝野礼厳(れいごん)の子。
  雑誌『明星』を創刊。明治34年(1901)晶子(あきこ)と結婚。初め殺伐虎剣調であった。結婚後、星菫調と呼ばれ、ロマン性に富む。
 父が僧侶であった関係で、明治19〜21年(1886〜88) 、岡山市国富の兄・大円が住職をしていた安住院で14〜15歳の約2年間過ごした。このため岡山には友人がいてよく来岡した。芳賀直次郎の招きで昭和4年(1929) 11月、夫人晶子、六女藤子(当時6歳)を伴い高梁町へ来遊、松山城に登り歌を詠む。これに、高梁町長徳田蕃之等が同行し登城した。晶子婦人は和服姿であり、草履(ぞうり)の緒(お)が切れてハンカチを割(さ)いて鼻緒(はなお)を結んでの難歩行であった。当時の城は天守閣の屋根、壁は落ちて、瓦礫(がれき)の中に松の大木が生えて荒れ放題で、僅(わず)かに正面の破風(はふ)を針金で引っ張り倒壊を免れていた。その後の昭和15年(1940)に松山城の解体修理が完成し、現在の城が残されている。 松山城に登り詠んだ歌は
  "松山の渓を埋むる朝霧に わが立つ城の四方 白くなる"
 この歌の碑は松山城の二の丸の東側に建立されている。
⇒与謝野晶子(すぐ上の項目) (参)「学芸百科事典」「日本歴史用語集」「高梁の名碑」「小説 鉄幹」 
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よしだ のりよし:吉田 能芳(1)

生年不詳〜万延2年2月13日(?〜1861)
高梁市本丁…八重籬神社南隣(内山下123番地)

備中松山藩士(馬迴役・12石2人持)
 通称は勇介。字は子毅。名は能芳。父は弥左衛門。
 祖先は板倉重宗の臣として代々仕え、延享元年(1744)板倉勝澄が伊勢(現・三重県) 亀山より国替になったのに伴い江戸より松山城下に移る。このため江戸吉田と称した。
 剣術・槍術及び文学を学び、ともに度々褒賞を受けた。文政6年(1823)藩校有終館の句読師となり、後徒目付(かちめつけ)をもって藩主の撃剣相手をつとめる。天保8年(1837)引退した父の跡を継ぎ、作事奉行、大扈従、世子君剣道指南、山奉行、大目付などを歴任した。その間難局に当たり物事を解決した。
人なりは、方正厳毅、明弁多知であったため、藩主といえども尊敬したという。晩年は中風に罹り難儀をした。墓は、高梁市寺町の寿覚院にある。
⇒ 板倉重宗板倉勝澄 (参)「吉田能安先生年譜」「備作人名大辞典」 
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よしだ ぶんじろう:吉田 文治郎(2)

幕末〜明治の人
高梁市本丁…八重籬神社南隣(内山下123番地)
幕末の備中松山藩士

 吉田能芳(のりよし)の子。藩主板倉氏に代々仕える。幕末の動乱期を迎え、松山藩の文武修業策により、安政3年(1856)武者修行に出る。安政元年(1853)から明治5年まで家塾を開き20人ほどに教えていた。墓は、高梁市寺町の寿覚院にある。
⇒ 吉田能芳(すぐ上の項目) (参)「昔夢一斑」「高梁市」 
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よしだ よしたか:吉田 能敬(3)

慶応元年〜明治34年9月(1865〜1901)
高梁市本丁…八重籬神社南隣(内山下123番地)
教員

 幕末の備中松山藩士吉田文治郎の子。吉田能安の父。名は能敬、初め寅三郎、号は愼斉(しんさい)。小学校の教員を務めるが、37歳の若さで逝去。
 高梁古今詞藻に詩を残している。墓は、高梁市寺町の寿覚院にある。
⇒ 吉田能安(すぐ下の項目)・吉田文治郎(すぐ上の項目) (参)「高梁古今詞藻」 
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よしだ のうあん:吉田 能安(4)

明治24年9月26日〜昭和60年11月15日(1891 〜1985)
高梁市本丁…八重籬神社南隣(内山下123番地)
弓道十段範士・大範士

 号は紫鳳。高梁市内山下(元・本丁…八重籬神社南隣) 吉田能敬(よしたか)の長男。
 先祖代々備中松山藩主板倉家に仕える。早くに両親に死別し、祖父文治郎に育てられる。明治43年(1910)旧制高梁中学校を卒業して上京。叔父のもとに奇遇し早稲田大学予科へ入学、のち商科に進む。
 幼少の頃から祖父に教わった剣道を捨て、同43年 7月弓道を始める。大学2年で中退し、京都帝国大学政治学科の聴講生となる。のち中国に渡り、ドイツ商社との貿易に従事するなど紆余(うよ)曲折(きょくせつ)した波乱の青年時代を過ごす。大正11年(1922)帰国し、泉サダと結婚、東京都杉並区西荻窪に居を構える。
 当時の世相に憤慨し思想運動に身を投じ神兵隊に参画するが、一転して武士道精神の普及、涵養(かんよう)に意を決する。昭和2年(1927)仙台に赴き、弓道師範阿波研造のもとで修養に励む。翌年東京に戻り、自宅内に「遊神館(ゆうしんかん)弓道吉田教場」を開設し、館長となる。
 昭和5年(1930)計理士の免許を取得し、計理士業務を行う。同16年(1941)6月、陸軍士官学校の教官となり、8月に行われた日光東照宮主催の全国武道大会の特別演義として固物射(かたものい)貫(ぬき)を演じ「武将(ぶしょう)兜(かぶと)」を串刺しに射貫く神技を演じた。これは明治より現在まで唯一人の偉業である。この時の心境を『くろがねも射貫くに秘術などあらじ、神にかよう心一筋』と自詠している。
 同17年(1942)2月、東京範教練士第一回個人選手権大会で優勝、次いで 5月宮内省済寧館における天覧武道大会で優勝し、短刀を拝受する。
  第二次大戦後、弓道は連合軍の指令により禁止されるが、能安が東奔西走し許可され、同22年(1947)、全日本弓道聯盟(現在の日本弓道連盟)を発足させる。また昭和23年(1948)には国民体育大会に弓道を復活させた。翌24年(1949)弓道十段範士となる。同28年(1953)大日本武徳会の再建を果たす。同30年(1955)大範士となる。また大日本武徳会の会長などを歴任し日本弓道会の育成・発展に尽力した。
能安の射義射法(しゃぎしゃほう)は『日置流竹林派正法流(へきちりゅうちくりんはせいほうりゅう)』と命名されている。同60年(1985)95歳で没するまで自宅内の道場で子弟の育成に努めた。没後は養女のレイが引継ぎ後進の指導に当たっている。
平成 4年(1992)能安の遺品の額などが高梁市に寄贈され、また平成 8年(1996) 3月妻サダが逝去したのに伴い、同年 9月養女レイより東京都西荻窪の土地・建物・弓道具など一切が高梁市に寄贈された。これらの寄贈品は同9年(1997)7月高梁文化交流館で遺品展が開催された。墓は高梁市寺町の寿覚院にある。
⇒ 吉田能芳(三つ上の項目)・吉田文治郎(二つ上の項目)・吉田能敬(すぐ上の項目) (参)「吉田能安先生年譜」 
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よしだ らんかん:吉田 藍関 

天保9年6月17日〜明治20年11月1日(1838〜1887)
高梁市荒神町に生まれ、後
幕末の備中松山藩士・目付・漢学者・教育者

 名は寛治、通称は謙蔵、号は藍関。
 備中松山(現・高梁市)荒神町の森岡弥六の次男として生れ、44番邸吉田角太郎の養子となる。備中松山藩士。有終館で漢学を学び、安政 6年(1859)、江戸に出て林復斉の門に入り、また昌平學でも学を修めた。のち藩邸学問所の会頭となり、板倉侯世子栄次郎(勝弼(かつすけ))の侍読を兼ねた。
 徳川幕府の終りの慶応 3年(1867)大政奉還があり、その年の暮れ(12月26日)には山田方谷の命を受けて、元締役神戸謙二郎と共に藩主板倉勝静(老中首座)へ時局収拾意見十条の内意を受けて上坂。翌日藩主板倉勝静の命により神戸謙二郎(秋山)が幕府若年寄永井玄蕃へ、謙蔵(藍関)は会津・桑名へそれぞれ説得に出向いた。それぞれ尤(もっと)もであるとの事であったが、しかし時すでに遅く、明けて慶応 4年(1868)正月 3日鳥羽・伏見の戦いが勃発した。謙蔵は熊田恰(あたか)に従い番頭水野湛・同磯村雄之介・公用人神戸一郎・目付川田剛(甕江)らと共に玉島に帰った。
 帰藩してのちは自宅(現・森病院)で明治 元年(1868)から同 5年(1872)まで家塾「静観自得舎」を開き漢学を子弟45人ほどに教えた。同 7年(1874) 9月高梁小学校訓導となり、同11年(1878)9月からは首席訓導(校長)。10余年間初等教育に従事した。墓は、高梁市の頼久寺にある。  妻滿佐(まさ)は弘化3年(1846)10月6日生れ。八幡町村井依継妹景山長女。 
⇒ 山田方谷神戸謙二郎(秋山)板倉勝静熊田恰神戸一郎川田甕江 (参)「高梁市史」「上房郡誌」「岡山縣人名辭書」 
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よしの ぜんすけ:吉野 善介

明治10年5月5日〜昭和39年12月11日(1877〜1964)
高梁市本町
植物研究家

 高梁小学校卒業の後、家業の薬種商を手伝う傍(かたわ)ら得意先周りの途中に植物採集を始める。明治32年(1899)野生のカザグルマを日本で初めて発見。翌年高梁中学校に着任した西原一之教諭の指導を受け、植物の名前を教わる。
 大正から昭和の始めにかけて、東京帝国大学の牧野富太郎、本田正次、中井猛之進、小泉源一、大井次三、北村四郎、田川基二ほか植物学権威者の通信指導を受け、ナツアサドリ、キビノクロウメモドキ、キビナワシロイチゴ、ナガバヤクシソウ、ヨシノアザミ、ビッチュウミヤコグサなど多くの新種の発見に貢献。多くの植物の学名に"Yoshino" の名を残している。
 原産地が不明だったチトセカズラの自生地を見つけ、フキヤミツバを日本で初めて発見した。「山陽新報」への寄稿などで備中には朝鮮半島や中国大陸と関係の深い植物が多いと指摘、珍しい植物の保護も訴え高く評価された。
 長年採取した標本を基に昭和4年(1929)1.370種の採集植物を収めた「備中植物誌」を発行。同5年(1930)『補遺T』、翌年に『補遺U』を出し、1.730種となった。
 同7年(1932)家業を廃して、大阪の武田商店(現・武田薬品)付属研究所に入社し、大阪に居住して近畿地方の植物採集や調査をしたが、同20年(1945)帰郷し再び備中の植物を研究した。
 同23年(1948)第一回岡山県文化賞を受賞。同28年(1953)吉野植物研究所を設立、『備中の植物』誌を刊行、同33年(1958)まで刊行を続けた。一方臥牛山に「自然植物園」をつくり、 220種の植物を集めた。
(参)「高梁市史」「備中松山城」  
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よねかわ てるじゅ:米川 暉寿(1)

明治2年10月17日〜昭和21年4月6日(1871〜1946)
高梁市間之町
箏曲家

 本名は貞。米川常太郎(注1)の長女として生まれる。生まれつき目が不自由なため、幼少の頃から継母の利喜が岡山へ泊り込み、葛原勾当(広島県神辺出身) 門下の福田絹寿(岡山)に師事し、箏曲を習得させる。
 のち自宅で開業し、高梁では一・二を争うほど弟子が多かった。長姉として家計を助けると共に、殆どの弟や妹に箏曲や三弦を教える。父の死去により高梁を離れ、弟(長男・速水)を頼り神戸で開軒。
 昭和2年(1927)56歳のとき、弟(親敏・正夫)に呼ばれて上京し開軒。同21年(1946)東京杉並の正夫の家で息を引き取った。
 箏曲の人間国宝(重要無形文化財保持者)であった米川文子は末妹。箏曲家の米川親敏、ロシア文学者の米川正夫も実弟。

注1:米川 常太郎(よねかわ つねたろう)
 天保12年5月13日〜大正8年1月16日(1841〜1919)
 高梁市間之町の人
  農家に生まれるが、跡継ぎの無かった米川家の株を買い士族となる。官吏を努めていたとき後妻の利喜と知り合い結婚する。先妻の子は暉寿と次女の二人。利喜との間に四男三女を設ける。米屋を開くが失敗し、妻の利喜が質屋を開き常太郎は家事を預かった。後に琴の師匠となった暉寿が家計を助けた。
⇒ 米川文子(三つ下の項目)・米川親敏(すぐ下の項目)・米川正夫(二つ下の項目) (参)「米川文子・人と芸」「高梁川」「鈍・根・才」 
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よねかわ ちかとし:米川 親敏(2)

明治10年12月25日〜昭和44年1月24日(1877〜1969)
高梁市間之町
箏曲家

 小学校2〜3年の頃トラホームに罹り失明寸前になり、退学して、姉暉寿(てるじゅ)に箏の手ほどきを受け、15歳で浅口郡船穂村(現・船穂町)の斉藤芳之都(よしのいつ)に師事、明治38年(1905)頃家族と共に上京。
 東京で小井出といに師事、三弦を習う。結婚後、弟子が少なくなり、大正 元年(1912)姫路の人から誘われ、姫路市総社辺(あた)りに住むが再び上京、東京・麹町(こうじまち)で開軒した。
 大正 5年(1916)尺八の中尾道三の勧めで琴と三弦を持ちロシアに渡り、赤十字病院などを慰問し歓待を受ける。大正 8年(1919)生田流研箏会を設立。13線楽譜を考案、作曲にも意欲を燃やした。
 主な作品として『玉の宮居』、『収穫の野』、『潮の響』、与謝野晶子作詞の『山の雨』、米川正夫の『空の小鳥』などがある。また、宮城道雄らと生田流協会を創始し、新しい仕事に取り組んだ。
 昭和33年(1958)親敏の名を長男恭男に譲り、自らは琴翁(きんおう)と号した。箏曲の人間国宝(重要無形文化財保持者)であった米川文子は実妹、ロシア文学者の米川正夫は実弟。長女敏子(大正2年〜平成17年=1913-2005)は平成8年(1996)に人間国宝(重要無形文化財保持者)に認定されている。
⇒ 米川暉寿(すぐ上の項目)・米川文子(二つ下の項目)・米川正夫(すぐ下の項目)・与謝野晶子 (参)「米川文子・人と芸」「高梁川」「鈍・根・才」 
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よねかわ まさお:米川 正夫 (3)

明治24年〜昭和40年12月29日(1891〜1965)
高梁市間之町
ロシア文学者

 上房郡高梁町(現・高梁市) に生まれる。父常太郎は松山(高梁)城下近在の農家に生まれ、米川の株を買い取り藩士となり、明治維新後は官吏を務め、退職後は質屋を開いていた。
 家族は多く、姉4人、兄3人、妹1人がいた。箏曲の暉寿(てるじゅ)は長姉、生田流箏曲の親敏(ちかとし)は次兄。箏曲・三弦で人間国宝・高梁市名誉市民の米川文子は妹。目の不自由な25歳年上の暉寿が家で箏曲を教えていた関係で、幼い頃から箏曲を聞きながら育つ。
 高梁中学校に進学してから、文学に目覚め、雑誌「文章世界」を愛読し、これに投稿を始める。カボチャの花からとって号を黄花と言った。
 投稿仲間に岡山中学校の内田百間や津山中学校の矢野峰人(禾積)がいた。百間とは琴の縁も重なり、のち親交を結ぶ。「文章世界」には二葉亭四迷訳の『あいびき』や『片恋』などが掲載され、これを読みふけるうちに、翻訳の道に進むことを考える。東京外国語学校か、一高・東大コ−スを選ぶか迷っていたが、近松秋江の「これから文学をやろうとするものは、すべからく外語に入ってロシア語を学ぶべきである」という新聞の文芸記事を読んで、東京外国語露語科に進む。東京で琴の師匠をしていた兄・親敏の家に同居し、邦楽に益々磨きがかかった。

 明治45年(1912) 3月東京外国語露語科を首席で卒業。日露戦争後の不況で、就職難の中、鉄道省に採用されず、やがて三菱合資会社長崎支社に就職するが計算が出来ず仕事が頭に入らないためあきらめて、旭川第七師団のロシア語教師として就職。そ
 の頃すでにロシア文学翻訳者としての文名が世に知られていた。大正 2年(1913)創刊の新潮文庫にドストエフスキーの「白痴」を処女出版した。同 5年(1916)の暮れ師団が大陸に転じたため旭川を辞め、妻子と共に一時高梁へ帰郷したが翌年 2月上京した。昭和 2年(1927)ソビエトの革命十周年記念祝典には国賓として招待される。大正10年(1921)陸軍大学校のロシア語の教官となり、昭和16年(1941)までの19年半勤める。大学校は依願退職の形であったが、実際はリベラルな点を敬遠された事実上の解任であった。その直後、スパイの嫌疑で警察に11日間留置される。

  戦後は早稲田大学露文科の教授となり、同37年(1962)定年で退職。この間日ソ親善協会理事などを務める一方で、精力的にロシア文学の紹介に取り組んだ。ロシア古代文学からソビエト現代文学にわたって『トルストイ全集』の翻訳その他数多くの翻訳や紹介をし、同28年(1953)『ドストエフスキー全集』の翻訳で読売文学賞を受賞。またその年にはアイルランドのダブリンで開催された世界ペンクラブ大会、ハンガリーのブタベストで開催の平和会議に参加し、帰途ソビエトを訪問、中国を経て帰国した。
 同37年(1962) 7月文化使節団長として四度目の訪ソをした。日ソ図書館長・日ソ親善協会理事などをつとめた。随筆集『酒・音楽・思出』、自伝『鈍・根・才』の著書がある。趣味の琴は素人芸を超えており、内田百間ら文壇人と「桑原会」をつくり演奏会を開いたことがある。
⇒ 米川暉寿(二つ上の項目)・米川親敏(すぐ上の項目)・米川文子(すぐ下の項目) (参)「高梁市史」「米川文子・人と芸」「鈍・根・才」「新・人国記」 
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よねかわ ふみこ:米川 文子 (4)

明治27年6月〜平成7年5月31日(1894〜1995) 高梁市間之町生れ
箏曲家・人間国宝・高梁市名誉市民

  昭和41年(1966) 6月21日、二人目の高梁市名誉市民に推戴さる。
 高梁町間之町で9人兄弟の末っ子として生れ、3歳のときに師と仰ぐ長姉の暉寿(てるじゅ)より琴の手ほどきを受け、厳しい調練をうける。この時より箏曲、地唄、三弦を修行。大正 6年(1917)東京で箏、三弦の教授所を開設し、多くの子弟の育成と幾多の名曲を世に送る。
 古典長唄・三弦本手組曲・箏古典組曲・近代楽譜法式等の修行を重ね、昭和35年(1960)、同36年(1961)、同38年(1963)には文部省芸術祭奨励賞、同39年(1964)に文部省芸術祭文部大臣賞、同40年(1965)紫綬褒章を受賞。
 同41年(1966)箏曲の最高芸術技能保持者として、人間国宝(重要無形文化財保持者)の指定を受る。箏曲生田流家元として、日本三曲会々長をはじめ数々の要職を歴任し、音曲芸能の発展振興に尽力した。
 同52年(1977)5月14日、高梁市はその偉大な業績と栄誉を称(たた)えるため、高梁市郷土史料館前に顕彰碑を建立。また高梁市立図書館内の「米川記念室」には箏だけではなく多くの書籍、レコ−ド、書など貴重な品々を寄付したものが所蔵されている。そして愛用の箏、三弦を高梁市に寄贈、母校の高梁小学校には「米川園」という庭園が寄付されている。
 同年8月31日文化部門で第十回岡山県三木記念賞を受賞。翌53年(1978)12月15日推されて芸術員会員となる。
 ロシア文学者の権威として名高い米川正夫は実兄。箏曲の暉寿は長姉、生田流箏曲の親敏(ちかとし)は次兄。平成7年5月31日百歳の長寿でこの世を去った。
  ⇒ 米川正夫(すぐ上の項目)・米川暉寿(三つ上の項目)・米川親敏(二つ上の項目) (参)「高梁市史」「米川文子・人と芸」「高梁川」「備中松山城」「鈍・根・才」 
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