幕末〜明治初期の人
高梁市頼久寺町(現・さくらクリニック)
備中松山藩士
幕末の備中松山藩士。取次格、100石取り。元治元年(1864)第一次長州征伐の時は、旗本備(本隊)の旗奉行を務める。倉敷の日本画家衣笠豪谷(きぬがさごうこく)(1850〜1897) の描いた斐人の肖像画が前田家に所蔵されている。 (参)「高梁市広報紙」
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天保10年〜明治35年1月31日(1839〜1902)
高梁市頼久寺町(現・さくらクリニック)
備中松山藩士
初め謙太郎、のち琢磨。江戸に出て昌平黌で学ぶ。近習、七人扶持(安政3年(1856)分限帳)。帰藩後、藩校有終館の教授を務めた。父は斐人(あやと)。取次格、 100石取り。
⇒ 前田斐人(すぐ上の項目) (参)「高梁古今詞藻」
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1700年前後の備中松山藩士
山中鹿之介の墓を建立
備中松山藩主石川総慶(ふさよし)の家臣
通称 市之進。
備中松山阿部の渡し(現・高梁市落合町阿部) で毛利輝元の家臣に討ち取られた尼子十勇士の一人、山中鹿之介の墓の印として植えられていた榎が、宝永・正徳(1710年頃)の大洪水により流失したため、正徳3年(1713)備中松山藩主石川主殿頭総慶(ふさよし)の家臣であった時棟が足軽佐々木郡六と協力して墓を建立。石碑の総高さは、 219p、台石は二段になり、下段は高さ25p・幅 111p四角、上段は高さ23p・幅77p、その上に高さ 171p・幅47p角の碑が建ち、正面に「山中鹿之介之墓」、右側に「正徳第三龍集葵己十月建」、裏面に「尼子十勇 儕輩絶倫 不得伸志 無遭于時 忠肝義膽 爰樹爰封 殊勲偉績 千載流芳 前田時棟 謹銘」と記してある。礎石は高さ 104p・幅148p角、側面に台石建立発起人として、阿部村(現・高梁市落合町阿部) ・神崎村(現・高梁市玉川町玉神崎) の有志名が刻まれ、最後に「明治十六年八月吉辰」とある。石碑は高梁市指定重要文化財となっている。
⇒ 石川総慶 (参)「高梁市史」
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嘉永2年9月1日〜明治37年9月3日(1849〜1904)
高梁市川端町出身
洋画家
幼名は稲造。備中松山藩士前田長兵衛(大小姓格・60石)の四男として高梁市川端町で生まれる。
同藩の間野凸渓(とっけい)に師事し日本画を学ぶ。のち神戸に出て長崎出身の木村静山が洋風画を描くのを見て感動し、以後独学で油彩画を修得した。同11年(1878) 5月、神戸師範学校(のち御影師範学校、兵庫県師範学校を経て神戸大学に合併)の二等助教諭となり主に鉛筆画を教えた。
同14年(1881)第二回内国勧業博覧会に油彩画『夕陽の景』を出品。同27年(1894)兵庫県八部郡須磨村(現・神戸市)に転籍。この頃、同郡池田村(現・神戸市)の妙楽寺に入僧して、蟻禅(然)と称した。同33年(1900)神港倶楽部で開催された神戸美術協会第一回美術品展覧会に金箔(きんぱく)の衝立(ついたて)に油絵具(あぶらえのぐ)で描いた『静の舞』を出品。
著書に『画法階梯』『小学用画学階梯』『小学校用画学階梯虫魚之部』『画学臨帳』など多くの図画教科書があり、美術教育に尽くした。油絵は『熊田恰像』(高梁市所蔵)『曳馬図』(御前神社所蔵:同30年(1897))などがある。墓は神戸の妙楽寺にある。
⇒ 間野凸渓・平木正次 (参)「高梁市史」「明治初期画壇回顧-平木正次」「高梁の人物」
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幕末の人
高梁市荒神町
備中松山藩士
幕末の備中松山藩士、6石5斗取り。荒神町の自宅で家塾(元・家本写真館)を開き、習字を男子、女子35人ほどに文久2年(1862)から明治4年(1871)まで教えた。墓は、高梁市寺町の寿覚院にある。 (参)「高梁市史」
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明治18年〜昭和44年7月19日(1885〜1969)
高梁市川面町出身、哲多町の人
地方史研究者
上房郡川面村(現・高梁市川面町)で生まれる。
川面尋常高等小学校卒業後、独学で明治38年(1905)に小学校准教員の検定試験に合格、続いて正教員の免許を取得。同43年(1910)川上郡黒忠尋常小学校訓導(教員)を振り出しに、阿哲郡正田尋常小学校などに勤めた。傍ら、日本史・東洋史の勉強に励み、昭和 5年(1930)には中等学校歴史科のうち日本史・東洋史の教員検定試験に合格、翌年正田尋常小学校を退職し、私立高梁商業学校教諭に転じ、 3年間在職した。
同校退職後は農業に従事する傍ら、検定試験のとき口頭試問を受けた渡辺世祐博士の指導を得て新見市を中心とする備中北部を舞台に地方史の研究に携わり、徹底した実地調査に基づく、優れた成果を発表した。
同28年(1953)には阿哲畜産連合会から『阿哲畜産史』の編纂(へんさん)を委嘱され同30年(1955)刊行した。また同37年(1962)から新見市史編輯(へんしゅう)委員として『新見市史』(昭和40年:1965刊行)を執筆した。
(参)「岡山県歴史人物事典」「阿哲畜産史」
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江戸時代後期の人(1800年前後)
江戸詰めの備中松山藩士
蘭学者・儒学者
右仲は「漆(うるし)の木から採取した原液(せしめうるし)を磨いた銅版に塗り、図を彫り込んだ後、酢などで腐蝕させ熱湯で漆を取り除いて、油煙(ゆえん)に荏油(えのゆ)を混ぜた墨を擦り込みよく拭き取ってから紙を置き、締め木にかける」という独自の方法を考案し同じ頃司馬江(しばこう)漢(かん)(注2)が作った銅版画より細密な出来だと評判をとった。
寛政10年(1798)大槻玄沢の塾で開催されたおらんだ阿蘭陀正月の余興に作られたと言う「蘭学者相撲見立番付」では東方前頭6枚目に名が見られる。
松平定信(注1)(幕府老中)の『退閑雑記』巻二には「備中松山の藩中に近頃銅版画を製する者あり、殊に細密製にたが違わず」と記してある。これは寛政8年(1796)にロシア使節レザノフのもたらした世界地図を基に作られた「万国(ばんこく)輿地(よち)全図(ぜんず)」(早稲田大学図書館蔵)を右仲が制作したものである。
その一方で、狸庵成田朝辰(ともとき)や尊王家高山彦九郎とも交わり、また水戸藩の立原翠軒、長久保赤水と交友があり、前野良沢から蘭学を学んだと思われる。識見・人柄の幅広さを伺わせる。また「エレキテル」や七絃の琴なども製作したらしい。(参)「高梁の人物」
注1:松平 定信(まつだいら さだのぶ)--板倉勝静(かつきよ)にアリ
注2:司馬 江漢(しば こうかん)
元文3年〜文政元年(1738〜1818)
前野良沢に蘭学を学び地動説を紹介、封建制を批判。平賀源内とも交わり天明3年(1783)日本銅版画を制作。 (参)「日本史用語集」
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文政4年9月13日〜明治31年2月28日(1821〜1898)
高梁市小高下
幕末の備中松山藩の絵師
通称は来治、字は遊民、号は松谷、凸渓、秋岳。幼少の頃、備中松山藩主板倉勝静(かつきよ)の小姓を務めた。
生まれつき画が好きで、江戸の勤番中に、備中松山藩の横矢南山や南宗派の谷文晁(ぶんちょう)門下の岡田閑林(かんりん)に画を学ぶ。また、余暇を利用して遠州流の茶の湯や挿花の秘伝をも極め、備中・備前・備後はもとより、京都・大阪などを歴遊してその名声は高かった。岡山県立高梁高等学校に「花鳥図」がある。
⇒ 板倉勝静・横矢南山 (参)「高梁市史」「上房郡誌」「備作人名大辞典」
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宝暦8年6月21日〜天保2年8月4日
(1758〜1831)倉敷市出身
新見藩儒、山田方谷の師
浅口郡西阿知村(現・倉敷市西阿知)で生まれる。
名は茂延、字は千秋、通称は一郎、号は松隠。
西阿知村の一部が新見藩領であったため、松隠の家系は代々新見藩に仕えた。両親とも学問を好み、教養が高かったため松隠も幼少より向学心が強かった。父太郎兵衛が江戸に出向いていたおり母を助け孝行したため、29歳のとき新見藩主・関(せき)公より表彰された。
寛政 元年(1789)33歳の時、大坂の中井竹山の塾に入り佐藤一斎ら天下の秀才と学ぶ。江戸幕府の老中松平定信(楽翁)より中井竹山を介して昌平黌の教授に招かれるが、これを断り同 6年(1794)新見藩主・関長誠(せきながのぶ)に呼び戻され、藩校「思誠館」の学督となり、15人扶持を賜り学制を改革し学規を定めた。
享和 3年(1803)45歳のとき藩政参与となり60石を与えられ人材育成と共に藩政改革に努める。文化 6年(1809)、松隠52歳のとき山田方谷( 5歳)が松隠の下へ入門。日々の指導を長男の省吾(号は慎済・18歳)に任せる。
後に方谷が松隠を祭った文の中で「幼年にして入門し、ただ楽しく戯れるばかりであり、その私に対する養育は父母の慈愛にまさり、花に月に必ず手を引いて下さった。」と感謝の意を述べている。
⇒ 山田方谷・佐藤一斎 (参)「高梁市史」「なかいしんぶん」「有終」
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生年不詳〜慶応4年1月20日(?〜1868)
新見藩士
号は注水。丸川松隠の孫。茂亮の長男。茂亮は松隠の次男で藩の督学・郡奉行などを努め民政に参与した。弘化4年(1847)51歳で没。
鹽(しお)谷世弘に学び、家を継ぎ、御側用人となる。戊辰戦争(慶応4年=1868)では、松山藩は賊軍となり、正月15日、新見藩は朝廷の命を受けた岡山藩伊木若狭の討伐の指令により、義三を一隊の隊長として今津口(高梁市津川町今津)へ出動させた。この時義三はにわかに大病に罹り19日帰藩、20日息子に家督を譲ると願いを出し、その日の午後病のため亡くなった。「新見市史」
しかし義三の死については異説も伝えられている。義三はかって松山藩との攻守同盟の使者を務めたり、また山田方谷と祖父松隠以来の関係などで限りない苦慮心痛があったと思われる。このため松山藩と岡山藩の間で無血開城となった翌19日の早朝、高梁市津川町今津・宮の馬場で自害したとの説もある。「備作人名大辞典」 (参)「高梁市史」
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