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ひがし けんじろう:東 謙次郎      

天保12年〜明治29年7月(1841〜1896)
高梁市伊賀町
備中松山藩士、漢学者

 名は謙文。字は耿介。号は灌花園(かんかえん)。
 進鴻渓(しんこうけい)、服部犀渓(はっとりさいけい)に学ぶ。また山田方谷にも学ぶ。後江戸に出て昌平黌(徳川幕府の学問所)で学び、帰藩の後、松山藩校有終館の会頭となる。明治維新の後、明治5年3月から7年6月(1872〜74)まで小田県高梁支庁、また司法省に奉職。
 有終館の再興は、同10年(1877)山田方谷が没したため一時挫折したが、同12年(1879)謙次郎・足立克譲が上京して、三島中洲、川田甕江及び板倉家と協議しその年の 9月14日再興し、荘田霜渓を館長に迎えた。
  同14年(1881)1月、第八十六国立銀行(本店・高梁) の支配人に就任(同16年(1883)1月まで)、同年7月より支配人兼務で取締役に就任し、同28年(1895)12月まで務める。
 父・東虎吉は備中松山藩士で中小姓並・5石2斗二人扶持。
 嗣子の東謙三郎は、吉田藍関に学び、次いで有終館で学ぶ。上京して二松学舎に入り、のち第一高等中学に入るが中退。中央大学を卒業。官吏、教師を経て翻訳に従事する。
 ⇒ 進鴻渓服部犀渓山田方谷三島中洲川田甕江荘田霜渓吉田藍関 (参)「高梁市史」「高梁古今詞藻」「中國銀行五十年史」 
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ひがし さんせい:東 三省

生年不詳〜大正9年4月(?〜1920)
高梁市高倉町の人
医師
 大阪及び山口で医術を学び、27歳で医師となる。そして大阪で開業し、大阪警察医となり、法医学の手腕を振るう。
その後帰郷して開業。傍ら川上郡医師会長、川面・高倉小学校の校医を務め、地域医療に尽くし信望が厚かった。また県会議員、郡会議員に推され地方政治家としても名声を博した。 (参)「川上郡案内誌」 
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ひがし りょうざぶろう:東 良三郎

文久3年1月18日〜大正5年1月24日(1863〜1916)
高梁市松原町松岡出身
政治家(衆議院議員)、弁護士

 川上郡西野々村(現・高梁市松原町)の庄屋・東 登茂平(ともへい)の長男として生まれる。
 幼少のとき吹屋(ふきや)校(川上郡成羽町吹屋)で学び、次いで高梁の吉田藍関、庭瀬の森田月瀬に、また明治13年(1880)井原の興譲館に入り坂田警軒に師事して漢学を修める。
 同16年(1883)上京し司法省法学校(のち東京大学に合併)に入学、同19年(1886)卒業。成績が優秀であったので選抜されて判事補となり、松江地方裁判所で実務を習得し、翌20年(1887)判事となる。次いで東京、大阪の地方裁判所の判事を務め、同26年(1893)退職し、大阪で弁護士事務所を開業。当時の大阪控訴院長・男爵北畑治房の娘と結婚。
  同27年(1894)3月、31歳のとき第三回衆議院議員選挙の岡山5区(上房、川上、哲多、阿賀郡)より立候補し初当選する。半年で解散となり、第四回、第五回には立候補せず、同31年(1898)の第6回選挙で2回目の当選を果たし、同35年(1902)まで在職した。初め進歩党に属したが、のち国民党に変わる。その後大阪で再び弁護士活動を行う。
 学識が深く民事、刑事の両法に精通していた。大正5年(1916)1月24日大阪区裁判所の法廷で、脳溢血で倒れ死去。高野山に葬られた。高梁市松原町松岡の先祖代々の墓地の墓には犬養毅撰文が刻まれている。撰文に「彼は性重厚にして己を持するに矜持(きょうじ)(注1)たり、而して人に接するに淳直(じゅんちょく)……」と良三郎の人となりを記している。高梁市松原公民館に顕彰の写真が掲げられている。 
  (参)「高梁の人物」「松原文化クラブ・顕彰のことば」
注1:矜持…自分の能力を信じて、誇ること。誇り。(参)「広辞苑」 
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ひだか とつぞう:日高 訥蔵

文政6年〜明治38年2月17日(1822〜1905)
高梁市川端町のち上房郡津川村八川(現・高梁市津川町)
幕末の備中松山藩士
 初めの名は、茂見、のち訥蔵。
 父は 又左衛門。番頭役、140石取で大目付、澤田流(たくでんりゅう)砲術を究め藩士に教えていた。日高家は、板倉重宗が下総国関宿藩主になった時(明暦2年=1656)より家臣となり、伊勢国亀山・備中松山と板倉家と共に移り住んだ。幕末には西洋流の砲術が盛んになり、山田方谷が江戸より西洋流の砲術を学び、初めて木炮(もくほう)を持ち帰り藩士に扱い方を教えた。
 訥蔵も父と共に、江戸で修行するよう仰せつかり、澤田流(たくでんりゅう)の砲術を学ぶ。後に、砲術を習得した者の武衛流、荻野流、澤田流(たくでんりゅう)、三流合併して御家(ごか)流と改め松山藩の西洋銃陣の法とした。安政6年(1859)から慶応3年(1867)の間、後に県会議員を務めた阿哲郡野馳村の杉重明(注1)に英式練兵法を指南した。
  慶応4年(1868)2月初旬より3月中旬にかけて備中松山藩領内で一揆が発生し、野山(賀陽町大和)でも起こった時(野山一揆)、備前岡山藩の鎮撫使に代わり旧松山藩の訥蔵の一隊が守衛した。明治2年(1869)高梁藩が設置されると武教官に任命された。その後上房郡津川村八川(現・高梁市津川町)に隠棲し、家塾を開き15人程に明治5年まで子弟教育に励んだ。砲術に長けていたため、明治政府から出仕の誘いがあったがこれを断った。
 ⇒ 山田方谷 (参)「昔夢一斑」「高梁市史」「岡山縣人名辭書」「祖父から聞いた備中松山藩士の幕末維新」

注:1 杉 重明(すぎ しげあき)
    天保12年〜明治37年(1836〜1904)
    阿哲郡野馳村の人
     16歳の時から松山藩の進鴻渓に漢学を、熊田恰に眞影流剣術を、日高訥蔵に英式練兵法を学ぶ。庄屋を務め、明治になり廃藩後は戸長、岡山県会議員、矢神村長、野馳村長を務めた。杉積翠(重樹)は子。
 ⇒杉積翠 (参)「岡山縣人名辭書」 
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ひらかわ ただいち:平川 唯一

明治35年2月13日〜平成5年8月25日(1902〜1993)
高梁市津川町今津出身
NHKアナウンサ−・英会話講師

     上房郡津川村(現・高梁市津川町)今津の農家に生まれる。
 大正5年(1916)高等小学校卒業後、農業を手伝っていたが、同7年(1918)16歳のとき、労働移民者として出稼ぎに行き鉄道の仕事をしていた父を尋ねて渡米。働きながらシアトルの小学校で「ABCも知らず赤ん坊になったつもりで6歳の同級生と一緒に遊びながら、自然に言葉を覚えた」、そしてハイスク−ルに通い苦学して昭和6年(1931)州立ワシントン大学演劇科を首席で卒業。
 ロサンゼルスで映画や演劇で俳優修業などをした後、現地で滝田よねと結婚、長男の誕生を機に、同12年(1937)35歳の時帰国。日本放送協会に採用され、NHK国際部主任アナウンサ−となる。
 同20年(1945)年8月15日、太平洋戦争敗戦の天皇の詔勅(しょうちょく)を英語で世界に向けて放送。また横浜のGHQからマッカ−サ−元帥の第一声を放送するための放送要員第一号となる。
同21年(1946) 2月からNHKラジオ講座「英語会話」の講師を担当。この番組は、童謡「証城寺(しょうじょうじ)の狸囃子(たぬきばやし)」のメロデイ −に乗せた「カム・カム・エブリバデイ ……」の歌で始まるところから"カムカム英会話"と呼ばれ、戦後の混乱期、「カム・カムおじさん」と言われ多くの人に親しまれた。月曜日から金曜日の15分間放送され、その講座内容は、生きた英語は勿論(もちろん)のこと、戦後の復興期の人々に笑いを与え、少しでも明るい気持ちになってもらいたとの願いをこめて、ユ−モアとウイットと実践性に富み、英会話指導に新風を吹き込んだ。この番組は同26年(1951)2月まで続き、その年の12月より同30年(1955)7月まで民報(ラジオ東京)に引継がれた。
 その後、太平洋テレビ国際部長、副社長を務める一方「カムカム英語センタ−」を主宰、自宅で英語を教えた。同56年(1981)春、勲五等双光旭日章を受章、またその年の秋には、園遊会にも招待された。
 米国では「日本を真に民主化した一人」と高い評価を受けている。平成11年(1999)8月、高梁市文化交流館で「平川唯一展」が開催された。
 (参)「高梁市公報紙」「高梁市文化交流館資料」 
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ひらき まさつぐ:平木 政次

安政6年8月11日〜昭和18年4月7日(1859〜1943)
高梁市出身
洋画家 

 平木政徳の長男として備中松山藩江戸藩邸で生まれる。漢学を川田甕江に学ぶ。
 明治維新後、三年間ほど郷里の高梁(現・高梁市)へ戻るが、明治6年(1873)4月、両親らと共に横浜で大工の棟梁をしていた母方の祖父母の家へ移る。この年五姓田(ごせだ)芳柳(ほうりゅう)の門に入り本格的に洋画を学ぶ。
 同10年(1877)6月、西南戦争の勃発に伴い芳柳が大阪に出張したのに同行し、病院に運ばれてくる負傷兵を写生した。
 芳柳と共に東京に帰り、翌11年(1878)10月、玄々堂印刷会社に入社。石版画の技術を習得。同12年(1879)夏、E.S.モ−スの依頼により、大森貝塚の出土遺物の石版画に実物を見ながら着色を行う。同13年(1880)には、教育博物館の画工に任命され、植物標本を作成する。その後、東京高等師範学校(1899)に勤務する。
 同14年(1881)第二回内国勧業博覧会に『不忍池畔(しのばずのいけはん)』を出品。翌15年(1882)に、「板倉勝静像」を作成する。同20年(1887)には、東京府工芸品共進会に『父の座像』を出品。同年 9月、『臨写画帖』が出版される。
 同22年(1889)、明治美術会創立と共に会員となり、以後出品を続ける。同32年・33年(1899・1900)には、明治美術会展覧会委員を委嘱される。同34年(1901)関西美術会第一回展覧会に「下田港」、「岩淵景」(本展出品−「駿河岩淵より望む富士」…倉敷市立美術館所蔵)を出品する。翌35年(1902)太平洋画会第一回展覧会に「静浦の富士」を出品。以後、出品を続ける。同40年(1907)第一回文展に『残雪 甲州吉田』を出品、代表作といわれる。
  大正 6年〜昭和 7年(1917〜32)の間元備中松山藩主板倉家の家扶を委嘱される。昭和7年(1932)雑誌『武蔵野』に江戸時代の風物を綴った『江戸物語』の連載を始める。同9年(1934)雑誌「エッチング」に『明治時代』の連載を始め、同11年(1936)、明治初期の洋画界の様子を伝える貴重な文献である『平木政次翁自述傳 明治初期洋画壇回顧』が出版される。
 同15年(1940)旧藩主板倉家の依頼により、板倉家菩提寺長圓寺(現・愛知県西尾市)の板倉家歴代肖像を、一幅に模写する。同18年(1943)4月7日病没。83歳。
  伝統的な名所を題材にした風景画を多く残している。「高梁市歴史美術館」「倉敷市立美術館」などに所蔵されている。
(参)「高梁市文化交流館資料・年譜」「平木政次翁自述傳 明治初期洋画壇回顧」 
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ひらた あつたね:平田 篤胤

安永5年8月24日〜天保14年9月11日(1776〜1843)
備中松山藩士(松山藩の江戸詰医師)
国学者

 幕末・維新の思想界に影響を与えた江戸後期の国学者。幼名正吉。出羽国久保田城下下谷地(しもやち)町(現・秋田市)で佐竹藩士大和田清兵衛祚胤(さちたね)の四男として生まれる。
 幼少より漢学及び医学を学ぶ。寛政 7年(1795)20歳のとき脱藩して江戸に出て苦学し、独学して家塾「気吹舎」を開く。同12年(1800)25歳のとき、備中松山藩士平田藤兵衛篤穩(あつやす)の養嗣子となり、半兵衛篤胤と改称し(のち又五郎)、松山藩の江戸詰医師として召し抱えられ、八人扶持を与えられる。
 享和 元年(1801)7月、松阪(現・三重県松阪市)の本居(もとおり)宣長(のりなが)の門に入るが 9月宣長が没したため、直接教えを授けることはなかった。この年結婚。
 文化5年(1808)、神祇伯白川殿から諸国の神職に古学の教授を委嘱され、以後古道を講じ、諸国に多くの門人を持った。文政6年(1823)48歳のとき松山藩を辞し、天保 9年(1838)63歳のとき、秋田佐竹藩に復帰。
 宣長の古道論を継承したと称し、日本の古典に止(とど)まらず中国・インドなど外国の古書についても究明し、それを体系化しようとしたが、膨大なものとなり学問的厳密性を欠き、又神道的、宗教的な色彩が濃い学問となった。
  同11年(1840)『天朝無窮暦(てんちょうむきゅうれき)』を無断で出版したことを幕府に咎(とが)められ、翌年著書差止めのうえ江戸から秋田へ送還され、かの地で没した。
 しかし、国学に宗教的・実践的な性格を与えた平田国学は、広く行われ門人553人を数えたばかりでなく、死後もますます広がり、農村有力者に広く信仰され、草莽(そうもう)の国学として尊王攘夷運動を支えた。また明治以降の国家神道の確立に力を添えることとなった。荷田春満・賀茂真淵・本居宣長と共に国学の四天王と言われた。
主な著書に『古道(こどう)大意(たいい)』『霊(たま)の真柱(みはしら)』『玉襷(たまだす)』『古史徴』『古史伝』『印度蔵志(いんどぞうし)』などがある。
(参)「高梁市史」「学芸百科事典」「日本史用語集」 
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ひらの ゆうたろう:平野 猷太郎

慶応元年7月8日〜昭和13年12月31日(1865〜1938)
高梁市高倉町出身
司法官・大審院判事

 川上郡田井村(現・高梁市高倉町田井)で備中松山藩士平野耕雲の長男として生まれる。
 父は維新後高梁藩の参事を務め、その後山口・愛媛の警察に勤め、今治警察署長を最後に退官した。
 幼くして伯父片山重範に養育され、明治6年(1873)伯父に連れられ上京、初等教育を受ける。同11年(1878)三島中洲の二松学舎に入り漢学を学ぶ。次いで同13年(1880)大阪・堺の土屋鳳州に1年余り漢学を学び、再び上京し同15年(1882)共立学校で英語を学ぶ。のち明治語学校、及進学舎、同17年(1884)東京大学予備門を経て同23年(1890)東京帝国大学法科大学に入学し法律学を学び同25年(1892)卒業。
同年9月司法官補となり、宮津、京都、伏見の各区裁判所勤務して実地に就き法律事務を修得し、同28年(1895)10月検事となり、京都地方裁判所、同31年(1898)神戸各地方裁判所に勤務する。同32年(1899)4月司法省参事官兼検事に任命され、民事局及び監獄局の事務を行う。同36年(1903)大阪控訴院検事、同38年(1905)名古屋控訴院検事となり、同41年(1908)大審院判事となる。正三位勳三等に叙せられる。
(参)「川上郡案内誌」「岡山縣人名鑑」 
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