明治3年〜大正7年8月25日(1870〜1918)
高梁市出身
軍人(海軍少将)
幼名は藤四郎。上京して三田英語学校で学び、明治26年(1893)海軍兵学校を卒業、少尉任官。
日清戦争(明治27年〜28年=1894〜95)、北清事変(明治33年=1900)、日露戦争(明治37年〜38年=1904〜05)に従軍。日露戦争では金鵄(きんし)勲章を受章するほどの活躍をする。欧州大戦(第一次世界大戦:大正3〜7年=1914〜18)に出兵、戦功をたてる。大正2年(1913)から「石見(いわみ)」などの艦長を経て、同4年(1915)軍令部第三班長兼海軍大学校教官、同 5年(1916)軍令部専任副官となる。
同7年(1918)少将に累進。現役で病没。正五位勳三等功四級海軍少将。『高梁古今詞藻』に漢詩を残している。
(参)「高梁古今詞藻」「備作人名大辞典」
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文政 6年〜明治14年5月6日(1823〜1881)
高梁市新丁(現・弓之町)
備中松山藩士(中小姓並・9石5斗4人扶持)
名は秀堅、幼名は菊太郎、また又蔵・謙一。号は煙村。山田方谷、進鴻渓に学ぶ。
長男の秀敏(嘯雲(しょううん))は岡山県師範学校を卒業し、教員となり校長を務めた。また4男の能四郎(謙齋(けんさい))は有終館、二松学舎、同人社、土木工学を攻玉社で学び、古河鉱業事務所に入社、各鉱業所長を務め後参事となる。父子とも漢詩を能くし『高梁古今詞藻』に残している。
⇒ 山田方谷・進鴻渓 (参)「高梁古今詞藻」
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元治元年8月〜明治44年3月1日(1864〜1911)
高梁市本町
弁護士、政治活動家
名は熊太郎、号は初め禿山(とくざん)・不苟軒(ふじゅんけん)のち高梁(こうりょう)。
家は代々高梁市本町で薬種商を営む。父喜兵衛の長男。幼いとき、武士の子供に侮(あなど)れた経験から、若い時から学問を好み、中村鷲峰、吉田藍関、更に有終館で荘田霜溪に師事し儒学を学ぶ。
有終館では、まだ箱行灯(あんどん)式のブリキのカンテラが用いられていた明治12年(1879)の末ごろ、提灯(ちょうちん)の代わりに、大変珍しかった豆ランプを持ってきていた。商売の関係で大阪から買ってきた物で随分自慢していたという。高梁小学校の第一回の卒業生。22歳で結婚。
同17年(1884)上京し洋学を修め、同21年(1888)東京法科大学(のち東京帝大)選科に入学、同24(1891)卒業。更に高等普通学を攻究し、同27年(1894)高等普通科学力検定試験に及第した。
以後法科大学に籍を置き同28年(1895)法学士となる。その後内務省に入り寺社沿革の調査を行う。同32年(1899)退官して弁護士となる。
以来国事に奔走、また二六新聞の社員(同32年=1899)になって執筆し、或いは娼妓の自由廃業を唱え、足尾銅山鉱毒事件では当局の失政を追及し、同38年(1905) 9月 6日には同志とはかって、日比谷原頭で国民大会を開き、日露戦争講和条約の不備を責め、ついに暴動事件に連座して下獄、のち無罪となる。同39年(1906)、高梁中学校で、全教職員及び生徒に講演を行った
。同44年(1911)没。墓は高梁市上谷町松連寺の鐘楼の下・南よりにある。墓に西村豊(越溪)・荘田要(翼斉)共撰の撰文が刻まれている。これには2月1日没と記されている。
昭和28年(1953) 12月、熊太郎の収集した法律書、洋書、漢書など総数 571点・1900冊が、遺族から方谷記念文庫に寄贈され、のち高梁市立図書館に引き継がれている。
⇒ 中村鷲峰・吉田藍関・荘田霜溪・庄田要(翼斉)・西村豊(越溪) (参)「高梁市史」「桜井熊太郎墓碑」「有終」「上房郡誌」
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生没年不詳
石州(現・島根県)の人
塩田瓦(高梁市宇治町)中興の人
名は嘉太蔵または堅蔵。
約 200年前川上郡中村大字布奇(現・成羽町布奇) へ石州から梅蔵という人が来て良質の粘土を見つけ、瓦の製造を始めた。その後、同じ石州から佐々木嘉太蔵が来て瓦の製造を続けたが、採算が取れず廃業。これを本村(現・高梁市宇治町穴田)の庄屋赤木孝左衛門が憂(うれ)い、嘉太蔵を探し呼び戻し、資本を投じて再興させた。以後、佐々木家の人々(嘉太蔵−仲太郎−三代吉−善市)が、石州から来て製造した。
明治になると阿哲郡野(の)馳(ち)村(現・哲西町野馳)大竹、川上郡宇治村(現・高梁市宇治町)穴田の塩田などに工場を持ち、販路は、川上郡はもとより阿哲・上房・吉備・小田・後月の六郡に及び塩田瓦と言われた。現在はいずれも製造はされていない。高梁市宇治町穴田の工場は昭和30年代(1955〜64)に廃業となったが、平成 6年(1994)10月に工場跡に高梁市により「塩田焼工房」として、陶芸体験ができる施設が整備された。 (参)「高梁の人物」「高梁市農村型リゾ−トパンフ 」
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文政8年〜明治35年11月3日(1825〜1902)
高梁市柿木町28/29 番地(現・大杉病院西棟)
備中松山藩士(中小姓並・8石2人扶持)
幕末の備中松山藩士。名は教。幼名は兵治郎、のち博蔵。別に菊老人の号がある。父は吉兵衛。
山田方谷に学び、松山藩校「有終館」の句読師および諸官を歴任した。『高梁古今詞藻』に詩を残している。
⇒ 山田方谷 (参)「高梁古今詞藻」
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安永元年〜安政6年(1772〜1859)
美濃国岩村藩士(現・岐阜県)
江戸後期の儒学者
美濃国岩村藩の江戸藩邸で生まれる。名は坦(たん)、通称捨蔵(すてぞう)、一斎は号。
家は曾祖父(そうそふ)の代から家老職を務める。若い時から読書を好み、書を能くした。
寛政4年(1792)大坂に出て中井竹山(ちくざん)に学び、3年後江戸で林錦峯に師事した。文化2年(1805)林家(りんけ)塾の塾頭となる。天保12年(1841)幕府儒官となり、没年まで昌平黌(昌平坂学問所ー幕府の学問所)の教授として、多くの人材を育成した。天保 5年(1834)には、山田方谷も江戸に出て佐久間象山らと一斎に学んだ。
一斎の学風は、表向きは朱子学であるが陽明学にも造詣(ぞうけい)が深く、二学の調和に努めた。高梁市文化交流館に一斎86歳のときの、「六曲一双の詩書屏風」が寄託されている。
⇒ 山田方谷 (参)「学芸百科事典」「高梁市歴史美術館館蔵品展」
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