明和元年〜文政11年3月8日(1764〜1828)
高梁市落合町福地出身
江戸時代後期の国学者・神官・備中神楽の創始者
本名は要人、識衣亮(おりいのすけ)と称し、国橋と号した。
川上郡落合村(現・高梁市落合町)福地(しろち)の神官西林玄蕃忠盛の次男に生まれる。下道郡久代村(現・総社市久代)の本田清成斉について神道垂加の流儀及び国学を学ぶ。のち京都に出て更に研究を行う。
文化元年(1804)京都から帰り、母の出所(でしょ)の川上郡上日名村(現・成羽町)の神官藤井家の養嗣子となったが、西林家の嗣子が幼少のため、両家の家政を見た。下日名村(現・成羽町)の御前神社の祠官を務める傍(かたわ)ら、子弟を集めて国学を教える。
当時荒神(こうじん)神楽(かぐら)に王子神楽が行われていたが、一般の興味も少なく、また一緒に行われていた神能狂言がきわめて卑俗(ひぞく)であったため、国橋は神官であったので、古事記・日本書記をもとに「岩戸開き」「国譲り」「大蛇(おろち)退治」の三部構成で日本誕生を現(あらわ)し、世人の神々に対する信仰心と、神社の祭礼を盛大にし荘厳さを増すことを考えて備中神楽を創始した。備中神楽は昭和45年(1970)2月24日国指定の重要無形民俗文化財に指定されている。
また、国橋の生家(高梁市落合町福地3084番地)の庭先にある「ツバキ」の木は、高梁市指定の天然記念物になっており、樹齢約 400年と推定され、目通りの周囲2m・樹高5mもあり、岡山県下でも最古の部類に入る。地元の人に神楽のツバキと崇(あが)められている。
(参)「高梁市史」「高梁市の文化財」
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明治43年3月20日〜平成15年11月12日(1910〜2003)
高梁市落合町阿部
備中神楽舞保持者(高梁市重要無形文化財)
20歳の頃から備中神楽を習い始め、38歳で成羽社社長に就任。神楽太夫の中で最も優秀な舞い手として、平成元年(1989)7月、国指定の重要無形民俗文化財である備中神楽舞の高梁市備中神楽舞保持者(高梁市重要無形文化財)に指定された。備中神楽の創始者である西林国橋の正統な神楽の流れを継承し、これの伝承に努めた。
また、岡山県神社庁神楽部部長として支部の拡大や後継者の育成に尽力した功績により、平成7年(1995)日本顕彰会から表彰された。同15年(2003)11月没。93歳。
⇒ 西林国橋(すぐ上の項目) (参)「高梁市広報紙 」
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元治元年〜昭和3年12月20日(1864〜1928)
高梁市の人
教育者
名は豊。字は明卿。幼名は勇之の進。号は越溪、黄微(きび)木魚堂(もくぎょどう)のち喩軒(ゆうけん)などがある。
石川鶏峰、進鴻渓に学び、のち有終館に入る。また二松学舎で学び、東京大学古典科漢書課に入る。研鑚の後秋月韋軒の建てた博約議塾の監督を務める。
また独逸(ドイツ) 協会学校、中央幼年学校などで教鞭を執る。
中年の頃赤穂義士の事跡を研究した。大正2年(1913)発行の「上房郡誌」の編纂には資料の提供、助言を与えた。著書に『義士家庭』『義士実伝』『支那朝鮮史綱』『老墨孫呉講義』『越溪漫録』等がある。
⇒ 石川鶏峰・進鴻渓 (参)「高梁古今詞藻」「上房郡誌」
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文政3年1月5日〜明治26年12月27日(1820〜1893)
高梁市下町
実業家
備中松山城下(現・高梁市下町)で酒造業を営み、備中松山藩では中村源蔵と共に士分格(武士並)。屋号は葛籠屋。
明治2年(1869)8月、旧備中松山藩主板倉勝静(かつきよ)の謹慎が解かれ、9月には板倉勝弼(かつすけ)(栄二郎)の家督相続が許され、備前岡山藩の鎮撫使より松山藩の城地が引き渡された。この時の祝賀の秋祭りには、村々や町内の御用達からも、色々な多くの慶物(よろこびもの)が献上され、中でも喜三郎は、菰冠(こもかぶ)り(樽酒)10丁(樽) 、鮮鯛料(せんたいりょう) 100両を献上した。
同12年(1879)5月1日に開業した第八十六国立銀行(注1)の取締役として板倉勝弼・板倉勝全(かつまさ)・三島毅(中洲)・柚木行啓・堀周平・中村源蔵と共に名を連ねた。
明治21年(1888)1月に辞任し長男の鶴太郎に取締役を譲った。銀行は高梁市下町の西村宅の南側。
⇒ 西村鶴太郎(すぐ下の項目)・板倉勝弼・三島中洲・柚木玉洲・堀周平・中村源蔵 (参)「高梁市史」「中國銀行五十年史」
注1:第八十六国立銀行…中國銀行の旧銀行の内で最も古く、中國銀行の淵源(えんげん)。
明治5年(1872)11月に国立銀行条例が制定され、次いで同9年(1876)条例が改正され簡単に銀行が設立できるようになり、また紙幣の発行も認められた。このため高梁にも旧藩士の救済を目的に全国で86番目に設立された。
岡山県では岡山に第二十二国立銀行が明治9年(1876)8月に設立され、同12年(1879)4月開業した。
高梁では旧備中松山藩主板倉勝静・板倉勝弼・三島毅(中洲)・川田甕江らが東京で相談して、同11年(1878)2月16日に「国立銀行創立ノ儀ニ付御願」を提出、同年5月20日に大蔵省より「第八十六国立銀行」の認可が下り、翌12年(1879)5月1日開業。1円と5円の紙幣が発行された。これに「神戸秋山・頭取」「堀周平・支配人」と印刷されているが(中國銀行高梁支店の正面より入って左側に掲額されている)、設立・開業に奔走していた神戸秋山(かんべしゅうざん)が開業前の4月15日に病のため急逝し、急遽(きゅうきょ)堀周平を支配人としたが開業直前であったため紙幣の刷替(すりかえ)は出来ず、紙幣はそのまま発行された。
その後、国立銀行法の改正などにより、同30年(1897)7月1日「株式会社八十六銀行」と改組し、頭取に西村鶴太郎が就任。大正9年(1920)1月1日に第一合同銀行に合併。昭和5年(1930)12月21日山陽銀行と合併し、中國銀行と改称し、現在に至る。
平成11年(1999)「第八十六国立銀行」が設立されて 120年を記念して、発祥の地である高梁市下町・高梁観光駐車場の北側中央に南向きに記念碑が建立された。 (参)「中國銀行五十年史」
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嘉永4年6月18日〜大正6年12月23日(1851〜1917)
高梁市下町
実業家
高梁市下町で酒屋を営む。西村喜三郎の長男。
明治21年(1888) 1月に父喜三郎が第八十六国立銀行(注1)の取締役を辞任した後を継ぎ取締役に就任。同30年(1897)7月1日に第八十六国立銀行が普通銀行の株式会社八十六銀行になると頭取に就任、同33年(1900)7月まで務め、柳井重宜に譲った。同30年(1897)8月には高梁銀行を娘婿の西村元五郎が中心となり設立し、両行の熾烈(しれつ)な競争が行われた。大正9年(1920)1月1日に第一合同銀行(注2)に合併した。
衆議院議員を務めた西村丹治郎は2女の娘婿。
⇒ 西村喜三郎(すぐ上の項目)・柳井重宜・西村丹治郎(二つ下の項目) (参)「高梁市史」「中國銀行五十年史」
注1:第八十六国立銀行…(参)西村喜三郎の「註」にアリ。(*すぐ上の項目)
注2:第一合同銀行…昭和5年(1930)12月21日山陽銀行と合併し、中國銀行と改称し、現在に至る。
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慶応2年10月3日〜大正7年5月26日(1866〜1918)
高梁市下町
実業家
高梁市下町で酒屋を営む西村鶴太郎の養嗣子。鶴太郎の長女まさと結婚・西村丹治郎(衆議院議員)の義理の兄。
高梁市下町で明治30年(1897)6月に高梁銀行(注1)の頭取に就任、大正7(1918)年5月に死去するまで務める。同年7月に後任の頭取に長男の弘一が就任し、同12年(1923)5月に第一合同銀行(注2)に合併するまで務めた。
⇒ 西村鶴太郎(すぐ上の項目)・西村丹治郎(すぐ下の項目) (参)「高梁市史」「中國銀行五十年史」
注1:高梁銀行…上房郡高梁町(現・高梁市)下町29番邸(のち、36番地に表示変更)に明治30年(1897)8月に設立し、同年10月 8日開業、頭取に第八十六国立銀行の頭取西村鶴太郎の養嗣子西村元五郎が就任。成羽、新見に支店を置くほどに業務を拡大するが、大正中期以後の不況に見われ、大正12年5月に第 一合同銀行に合併する。
注2:第一合同銀行…昭和5年(1930)12月21日山陽銀行と合併。中國銀行と改称し、現在に至る。
(参)「高梁古今詞藻」「昔夢一斑」「中國銀行五十年史」
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慶応2年10月22日〜昭和12年12月20日(1866〜1937)
高梁市下町
政治家(衆議院議員)
吉備郡秦村(現・総社市秦)福谷の板野忠治郎の次男に生まれる。幼い時から高梁下町の酒屋西村鶴太郎の養子となる。
家業を手伝っていたが向学心に燃え、東京専門学校(早稲田大学の前身)に入り、明治23年(1890)卒業後、渡米、エ−ル大学に約1年間留学し、政治・経済学を研究する。帰国後の同24年(1891)12月、西村鶴太郎の二女定(さだ)と結婚し分家する。
岡山市で坂本金弥(後に代議士となる)らの政治団体「備作同好倶楽部」に入り、機関紙「進歩」の発行をして政治活動をする。同25年(1892)、坂本が中国民報(山陽新聞の前身)を創設すると、政治記者となる。
政治家を志し、同31年(1898)3月衆議院議員に岡山県第五区(備中北部)から初出馬(第五回選挙)、"ビール王"馬越(まこし)恭平に知名度の薄さと資金力で勝負にならず敗れる。同35年(1902)2回目の挑戦で(第七回選挙)、衆議院議員に初当選(37歳)、以後昭和12年(1937)12月、72歳で、死亡するまで連続14回、35年間代議士生活を歩んだ。
大正9年(1920)5月、船成金でトラ大尽のニックネームを持つ山本唯三郎との一騎討には、ぼろぼろの羽織袴のすそをからげ、わらじ履(ば)き、奥さんの作った握り飯をほおばりながらの戦いに勝利したことは有名である。政界では、昭和6年(1931)若槻内閣の農林政務次官を務め、文政審議会、米穀調査会などの委員を歴任。列国議会同盟会に出席して欧米諸国を視察した。明治の末期、一人一党主義の又新(ゆうしん)会に所属した他は、政友会と革新倶楽部が合同するまでは、犬養木堂と行動を共にした。
丹治郎の政界での最大の出来事は、大正14年(1925)5月、木堂の率(ひき)いる革新倶楽部の政友会への合同の時で、自分は合同に反対であったが、木堂の顔を立て議長として合同の決定をした。しかし地元民の反対により脱党。昭和2年(1927)民政党が結成されると、浅口郡出身の小川郷太郎(のち商工、鉄道相)らと加わり、民政党岡山県支部長を務める。
大正7年(1918)の国会へ犬養木堂(毅)等の岡山県選出の議員と共に、陰陽連絡鉄道敷設の急務を力説、政府もこれに賛同し、伯備線建設のために尽力した。また、同年帝国通信社長も務めた。岡山県真田同業組合長を務めるなど、地元の発展に尽くした。清廉潔白で筋を通す人柄を高く評価され、万年平代議士であったことが、政治家の鏡と尊敬された。
昭和12年(1937)12月、72歳の時、神戸発東京行二等寝台車の中で、脳溢血で没。
⇒ 西村鶴太郎(二つ上の項目) (参)「高梁市史」「政治と人と」「備作人名大辞典」
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生年不詳〜慶応2年8月27日(?〜1866)
高梁市の人
俳人
名は定七郎。号は別に枕流舎(ちんりゅうしゃ)千和。俳諧を赤木(一日庵)晋和に学ぶ。嘉永5〜6年(1852〜53)の頃、田辺庵羽霓(うげい)が宗匠を務め、千和は副宗匠であった。
辞世の句「長き夜の あとなおながし 夢の旅」
⇒ 赤木晋和・田辺杏林 (参)「高梁古今詞藻」「備作人名大辞典」
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享保20年8月17日〜寛政元年11月5日(1735〜1798)
浅口郡鴨方の人
漢学者・漢詩人
備中の聖人と言われ、板倉氏が入国してから35年後の安永8年(1779)秋、総社から湛井、宍粟、日羽、種井を経て、広瀬で柳井家の大高檀紙製造の現場を見学して、阿部の渡しで山中鹿之介の碑を訪ねた後、松山城下に入る。この時の紀行文『遊二松山一記』で当時の様子を記している。
次男の西山復軒は文化 8年(1811)の頃(51歳の時) 松山藩に招かれ、有終館で経義した。程朱の学風を父拙斎に学んだ。
(参)「高梁市史」「備作人名大辞典」
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生年不詳〜元禄12年 7月12日(?〜1699)
出身地不詳
僧侶
日蓮宗不受不施派(注1)の僧侶。院号は信受院。字は善耀(ぜんよう)。
江戸幕府御禁制のキリシタン宗門と共に、日蓮宗不受不施派(本山は岡山県御津町妙覚寺)も御制禁の宗門であり、貞享2年(1685)の不受不施派の弾圧により流僧となり、備中松山城下(現・高梁市)の日蓮宗道源寺へ預けられた。その後、幕府による不受不施派の弾圧が厳しくなり元禄11年(1698)に入牢され、10カ月後の翌年 7月12日牢死した。
高梁に伝わる伝説では、水牢に入れられ下半身が腐り死亡したと伝えられ、これを悼(いた)んだ信者が、その遺骸を備中松山・高倉山の麓の轟(がらがら)橋に葬り、供養の碑を建て祀った。その死に方から、日忍の碑は下(しも)の病に御利益(ごりやく)があり願を懸ければ必ず治ると伝えられ、特に婦人の参拝者が続き、以来二百数十年の間香煙が絶えることがなかったという。
昭和の初め高梁市街地南部の桜並木の中央・川手に移し、日連堂を建て盛大な法要を営んだ。第二次大戦後、桜並木の消失と共に参拝者も次第に減少し、今では日連堂は取り壊され、日忍の碑は昭和45年(1970)高梁市原田南町の上谷川沿いに移転され、更に昭和50年代の終りに同じ原田南町の、下水浄化センターの南側の山手に移転され地元の人達により祀られている。日蓮宗不受不施派は明治維新後に解禁された。 (参)「高梁市史」
注1:他の宗派からの布施・供養を受けず、また信者は他宗の僧に供養をしてはならないという、純粋な法華信仰を行う一派。岡山藩主池田光政(慶長14年〜天和2年:1609〜1682)は徹底的に弾圧を加えた。(参)「高梁市史」
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