明治28年〜昭和19年8月22日(1895〜1944)
高梁市本町生まれ、のち南町
高梁町長、酒造業
高梁本町の永井芳太郎(鯉屋)の三男に生まれる。のち同族で南町の酒造業永井儀助(同じく鯉屋)に入り婿し、家業の発展に努めこの地方有数の酒造業者として成功した。
昭和11年(1936)2月1日・福田要一郎高梁町長の要請に応じ名誉助役を務め、翌12年(1937)7月25日高梁町議会で推されて5代目の高梁町長に就任した。
この時に恒三郎が助役時代より皇紀2.600 年の記念事業として長い間構想を持ち、陰に陽に関係方面に働きかけてきた備中松山城天守閣再建を正式に公表して、本格的な準備態勢に入る。特に恒三郎と多年親交のあった、時の文部参与池崎忠孝(旧制高梁中学校出身)の好意により、実現の第一歩を踏み出した。
ところが、当時は第二次世界大戦(1939〜45)勃発前の厳しい時期にあり、食糧は基より日常生活の諸物資は厳しい統制下にあって釘一本でも配給であり、加えて当時の町予算の半額に近い2万3千円の建設費の捻出も危ぶまれ、町議会でも相当な反対意見があった。
しかし、恒三郎は天性豪放で実行力があり、緻密(ちみつ)に計画し熱意あふれる説得により、同14年(1939)6月24日の町議会で遂に承認され、同年11月1日起工、翌15(1940)年11月1日竣工。二の丸に経過の碑が建立された。この工事には町民や町内の中学校生徒などの奉仕によって瓦を担ぎあげるなどの多大な協力があった。
ここに恒三郎の多年の夢が実現し、同時に今日の高梁の象徴備中松山城が誕生した。翌16(1941)年5月8日に国宝に指定(注1)された(のち重要文化財) 。
もしこの事が行われなかったなら、今日の備中松山城は無く、永遠に葬り去られたであろう。同19年(1944)8月22日町役場会議室で、高梁国防婦人会の講演中急死、まさに恒三郎らしい殉職の最後であった。8月30日高梁公会堂において仏式により町葬を営み、町民こぞってその死を悼(いた)んだ。
その後、備中松山城の修築は、同32年〜35年(1957〜60)天守の部分修理、二重櫓・三ノ平櫓東土塀の解体修理。同41年〜44年(1966〜69)防災道路の建設。平成7年〜9年(1995〜97)には本丸の復元として五の平櫓・六の平櫓・本丸南御門・本丸東御門・腕木御門・土塀の復元などが行われ、恒三郎の遺志を継いで次々と整備が進んでいる。墓は、高梁市寺町の巨福寺にある。
(参)「高梁市史」「永井芳郎氏談」
註1:国宝に指定…文化財保護法の改正で、昭和25年(1950)8月29日国の重要文化財となる。
TOPに戻る このページの先頭へ
大正 9年11月20日〜平成2年4月19日(1920〜1990)
高梁市南町
実業家、体育功労者
幼名 多久夫。昭和12年(1937)高梁中学校(旧制)卒業。同16年(1941)日本体育大学体育科卒業の後、同年大妻女子大学の教師となる。
同19年(1944)高梁町長を努めていた父の急逝により家業を継ぐため郷里の高梁に帰り高梁中学校(旧制)、高梁順正女学校の教師。同21年(1946)高梁商業学校、次いで同22年(1947)倉敷高等女学校、翌23年(1948)第一岡山高等女学校の教官を務める。同24年(1949)岡山医科大学付属医学専門学校講師を務めるなど教育活動を行う。
家業の酒造業を継ぎ、同25年(1950)鯉正酒造鰍設立。傍ら青少年育成のため体育の指導に務め、岡山県ハンドボ−ル協会会長、全国体育指導委員連合理事・財務委員長、岡山県レクリエ−ション協会副会長、岡山県グランドゴルフ協会会長、岡山県体育指導委員協議会会長、高梁商工会議所会頭、高梁体育協会会長、高梁市消防団長などを歴任。地域の社会教育活動の指導的役割りを果たす。剣道は5段。地域体育功労者文部大臣表彰、従六位勲五等瑞宝章を授章。墓は高梁市寺町の巨福寺にある。
(参)「永井芳郎氏談」「高梁教育委員会資料」
TOPに戻る このページの先頭へ
文政3年〜明治19年10月6日(1820〜1886)
高梁市の人
俳人
名は文助。号は有斐、別に此君亭(しくんてい)と号した。
赤木晋和・田辺羽霓(うげい)(杏林)に学び、羽霓没後は俳諧の宗師を継ぐ。弟子の国分胤之に父岡本桑古の『寒山居』を継号させた。また、赤木晋和より代々の宗師に伝わっていた、遲櫻(ちざくら)の文台(ぶんだい)を胤之に与えた。これは後に胤之より板倉信古に受け継がれた。
高梁市頼久寺町の、キリスト教墓地の奥側・中央に「此君亭有斐の碑」がある。
⇒ 赤木晋和(一日庵 )・田辺杏林・岡本桑古・国分胤之・板倉信古 (参)「高梁古今詞藻」「昔夢一斑」
TOPに戻る このページの先頭へ
明治15年12月20日〜昭和21年12月22日(1882〜1946)
高梁市川端町(現・内山下)出身
海軍少将
上房郡高梁(現・高梁市川端町)で中島岩松・嘉代の次男として生まれる。
高梁中学校(旧制)を経て、明治35年(1902)海軍兵学校を卒業。日露戦争(1904〜05)では東郷艦隊付けとなり、佐世保海兵団附で津島海峡警備に当たる。同41年(1908)海軍砲術学校特修科を終了。大正7年から10年まで(1918〜21)英国駐在。この間に海軍中将となる。帰国後、海軍大学校の教官となり、海戦史を担当する。翌年海軍大佐。昭和 2年(1927)少将に昇進し、同大学校教頭を務める。昭和5年(1930)予備役編入。
同20年(1945)4月退役。同21年(1946)12月東京都大森田園調布で没。64歳。父中島岩松は、明治21年(1888)高梁市奥万田の権右衛門稲荷神社の寄進者として玉垣に名がある。
(参)「上房郡案内誌」「高梁の名碑」
TOPに戻る このページの先頭へ
明治21年5月3日〜昭和21年5月29日(1888〜1946)
高梁市松山広瀬出身
政治学者、法理学者、社会哲学者
高梁市松山広瀬の実業家柳井重宜の三男。重宜の弟直次郎が高梁松山の中島家(松原通)を嗣いでおり、その養嗣子となる。
明治40年(1907)高梁中学校卒業。第六高等学校を経て、東京帝国大学法科を大正5年(1916)卒業。第六高等学校在学中にキリスト教に入信。翌6年(1917)同志社大学講師となり、のち法学部教授になる。憲法、法理学、国家論などを講義した。
昭和4年(1929)同志社校舎移転問題にからんで紛争となり辞職し、関西学院大学の教授となる。戦後は関西大学講師、同志社大学教授などを務める。第一次世界大戦を契機として英国を中心に唱えられていた多元的国家論を紹介して世に知られた。
また賀川豊彦(クリスチャンの社会運動家)らとキリスト教的社会主義運動や学生キリスト教運動の指導的役割を果たした。太平洋戦争中は戦争容認の立場をとった。著書に『多元的国家論』『法理学』『国家原論』『発展する全体』などがある。同21年(1946)京都の自宅で没した。墓は高梁市頼久寺町キリスト教会の墓地にある。
⇒ 柳井重宜 (参)「高梁市史」「兵庫県大百科辞典」「キリスト教人名辞典」「日本人名大辞典」
TOPに戻る このページの先頭へ
嘉永5年1月9日〜昭和12年2月2日(1852〜1937)
高梁市落合町阿部の人
明治〜大正時代の医師
川上郡阿部村(現・高梁市落合町阿部)の開業医仲田玄齢の長男。緒方洪庵の適塾に入門したと言われる。幕末から明治初年にかけて長崎の精得館(明治初年=1868・長崎府医学校と改称)に遊学し組織学、病理学、診断学などを学ぶ。明治7年(1874)帰郷し父玄齢の医業を継ぐ。
祖父仲田杏仙(天明2年〜文久4年(1782〜1864)は、川上郡川乱(かわみだれ)村(現・高梁市落合町原田)の庄屋仲田市左衛門の五男に生まれ、医術を学び川上郡阿部村(現・高梁市落合町阿部)で開業、40数年間地域医療に尽くした。
父玄齢(文政5年〜明治31年(1822〜1898))は、京都の産科医水原義博に入門し探頷術(たんがんじゅつ) (注1)を学ぶ。嘉永元年(1848)父杏仙の隠居により家業を継ぐ。
長男の仲田達夫(明治15年(1882)生まれ)は、明治37年(1904)旧制高梁中学を卒業後、岡山医学専門学校に進み同42年(1909)卒業。産婦人科を得意とし、病院に勤務し研鑚を積み、同44年(1911)帰郷し家業の医者を継ぐ。また、人望が厚く大正9年(1920)には、落合村長に就任。のち郡会議員、村会議員、信用組合役員、村農会長を務め地域の発展に貢献した。子孫は同所で医院を継承している。
(参)「川上郡案内誌」「岡山県歴史人物事典」
注1:探頷術…水原義博の発明した胎児娩出器(べんしゅつき)を用いて、逆産や横産の胎児を娩出する術。
TOPに戻る このページの先頭へ
明治33年12月6日〜昭和58年3月27日(1900〜1983)
高梁市落合町出身、正宗町
実業家、地方政治家
川上郡落合村原田(現・高梁市落合町原田)に生まれる。高梁中学校中退。土木建設業を営む。
落合村議会議員を経て昭和22年(1947)岡山県議会議員に当選(国民協同党)、以来5期連続20年間在職(自由党ー民主党ー自民党)。同38年(1963)5月〜10月議長に就任したほか、土木部委員会委員長、農地経済委員会委員長などを歴任。その他岡山県内水面漁業協同組合連合会長、県農業会議会長、高梁川漁業協同組合長、高梁農業協同組合長等の要職に就任し公益のために尽くした。
また高梁川観光開発株式会社社長、高梁・真庭自動車教習所社長などを務め実業家としても活躍した。
(参)「高梁市史」「高梁農協資料」
TOPに戻る このページの先頭へ
明治〜昭和の人(1900年代前半の人)
高梁市高倉町
高倉村長(現・高梁市高倉町)
明治23年(1890)頃より酒造業を営み、年間400石余りを醸造し、銘酒「勇山」は川上郡内は基より阿哲郡へも販売されていた。
高倉村田井(現・高梁市高倉町)市場裏の畑を耕地整理し、高梁川より揚水によって灌漑用水を引き、水田を耕作する大事業を成し遂げた。この事業が始まった明治42年(1909)から昭和10年(1935)まで田井耕地整理組合長として終始この事業に献身した。耕地整理は、大正3年(1914)に完了したが、揚水事業はその後も実施された。
同6年(1917)5月29日から同10年(1921)5月28日まで1期高倉村の第十代村長を務め、その間も耕地整理、揚水事業に力を注ぎ、上梶村に大きな記念碑が建立されている。また福祉の面でも理解を示し、村長としての給料のほとんどを公益事業・困窮者救済に寄付した。また明治39年(1906)から大正8年12月(1919)まで株ェ十六銀行の監査役を務めた。郡議会議員、村議会議員、所得税調査委員、信用組合長などを歴任し、地域の発展に貢献した。
(参)「高梁市史」「川上郡案内誌」「中國銀行五十年史」
TOPに戻る このページの先頭へ
天明 6年〜明治元年10月20日(1786〜1868)
美作勝山藩士、元備中松山藩士の子
江戸時代後期の美作国勝山藩の儒者。
幼名は圭三。諱(いみな)は和。字(あざな)は子礼。号は鴻巣。老年には半(なかば)・半山・半仙とも名乗った。備中松山藩主板倉氏の藩医であった中西成秀の嫡子(ちゃくし)として備中松山(現・高梁市)で生まれる。
成秀は享和 3年(1803)、鴻巣が17歳のとき松山藩を離れ美作国大庭郡木村(現・久世町)の福島家に移り、丸薬・時中丸を作製して生活した。文化2年(1805)20歳のとき大坂の中井竹山の懐徳堂に入門し朱子学を学ぶ。同13年(1816)9月、竹山の推薦で勝山藩三浦氏に御給人格儒者として60石で召し抱えられ、この時、父成秀と共に勝山に移る。文政 4年(1821)に御目付役寺社加役を兼務した。病弱のため天保 9年(1838)53歳で隠居する。
儒者としての活動は、嫡子の茅塞と共に終生続けた。幕末前の数十年間藩の風紀を維持できたのは鴻巣・茅塞親子のお陰であると言われている。勝山安養寺に「鴻巣半仙翁墓」がある (参)「勝山町史」
TOPに戻る このページの先頭へ
江戸時代末期〜明治の人
高梁市間之町(現・JTオカムラ内の北東角より少し南側 )
備中松山藩士(歩小姓・6石2人扶持)
号は梅溪。山田方谷に学び、砲術を伊予(愛媛県)西條の小川八兵衛に学ぶ。のち家塾を弘化3年(1846)から明治元年(1868)まで開き習字を男子、女子60人程に教えた。
⇒ 山田方谷 (参)「高梁市史」「高梁古今詞藻」
TOPに戻る このページの先頭へ
天保3年5月27日〜明治28年10月15日(1832〜1895)
高梁市南町(現:鯉正酒造)
実業家、地方政治家(小田県県議会副議長)
号は初め愛岳のちに月臺(げつだい)。中村三郎治の長男として高梁市本町で生れ、伯父(三郎治の兄)である高梁市南町の豪商中村市次郎の養子となる。
生来学問を好み漢書を山田方谷、画は浦上春琴の高弟梅園に、書を高宮三峯に学んだ。市次郎は備中松山藩へ献金し藩財政を助けたので、御合力(扶持を与えて藩士待遇とすること)を務め大小姓格となり俸米60俵を、また源蔵も士格にのぼり俸米60俵を賜った。また藩の御用達も勤めた。元治〜慶応年間(1864〜68)の頃には市吏監督となり兵農監督を兼ねた。
廃藩後の明治4年(1871)には区長(町長)と小田県々議会副議長を兼ねた。廃藩のため高梁藩知事を務めていた板倉勝弼(かつすけ)が東京に出たため、残された旧藩士や民の生活は窮乏を極めていた。源蔵は産業を興し経済的困窮を救うため、岡山県南部の早島のイ草を導入して筵(むしろ)を製造したり、九州小倉の帯(おび)をまねて織ったりしたがどれも失敗。また小田県令は民間資金を募って殖産会社を創立し、源蔵を高梁支社長とし繭糸の製造を行ったが、暫くして本社が倒産したため、源蔵は私財を投じて募金を償ったため、家財は傾いた。
これに挫(くじ)けず、武蔵国(現・東京都)大森に養子三平(長女の婿)を派遣し麦稈(ばっかん)の製作法を学ばせ、同18年(1885)8月麦稈会社を創立して組み紐を織った。仕事は順調にいったが、販路が開けず、損失は益々増え、その為家産を失い、遂に神戸に移住し、麦稈の輸出発展を図ったが失敗した。
しかしその後、麦稈が原田伊之助により販路が開拓され、明治中期から昭和初期にかけて全盛期を極め、海外にまで輸出されるようになったのは、源蔵の功績によるものである。後に昭和30年代まで経木(きょうぎ)で作られていたものも、三平の名を取り「サンピラ」といわれた。明治28年(1895)没。墓は神戸港の諏訪山の墓地にある。
長男の中村安太郎は家業を継いだ。田畑大蔵は次男。三平を女婿(むすめむこ)とし分家させた。岡山県立高梁高等学校に「山水図」の画がある。高梁市上谷町の薬師院境内に明治35年(1902)東宮侍講を務めた三島中洲撰文の「月台中村君彰功碑」と「辞世の歌碑」がある。
辞世の歌
豫(かね)てより きょうあることを 知りぬれば 今更残す 言の葉もなし 「高梁古今詞藻」
⇒ 山田方谷・高宮三峯・板倉勝弼・田畑大蔵
(参)「高梁市史」「月台中村君彰功碑」「高梁古今詞藻」「有終」「伸びゆく高梁」
TOPに戻る このページの先頭へ
天保3年7月9日〜大正7年2月4日(1832〜1918)
高梁市中之町(現・河合宅)生まれ後御前町(現・金光教教会)
備中松山藩士、幕末〜明治の漢学者
名は長遷、通称は季平、幼名は数次郎、字は子善、号は鷲峰。備中松山藩士石川安之(一郎・奉行役・80石取)の次男。生まれつき才知に優れ学問を好んだ。
父が吟味役として江戸詰となったため父に従い江戸に出る。砲術家下曽根金三郎の門に入り、洋法兵式を学び、帰藩して藩士に伝授した。これが松山藩の洋法兵式の始まりとなる。
藩士中村三郎兵衛(大小姓格・50石)に跡継ぎが無かったので養嗣子となる。再び江戸に遊学し、儒学者安(あ)積(さか)艮(こん)斎(さい)の門に入り、次いで昌平黌(注1)で数年間学んだ。帰藩して藩校有終館の句読(くとう)師(し)となり、会頭(注2)まで進む。
剣術は赤羽永蔵及び父安之に学び、直新影流の極意を究(きわ)めた。三島中洲と相前後して山田方谷に学び、中洲とは親友であった。文久2年(1862)三島中洲と共に藩命を受け九州諸藩の動静を視察した。
慶応2年(1866)長州藩第二騎兵隊の脱走兵が倉敷・浅尾で騒動(備中騒動)を起こしたとき、代官として藩境を警戒した。維新後の明治3年(1870)高梁藩庁の監察となり、廃藩後の同7年(1874)選ばれて小田県の代議員となり県政に参与した。また、松山小学校の初代校長や高梁町収入役を務めた。
晩年は家で子弟の教育を行い、学問を受けた門下生は多数に上った。墓は高梁市寺町の寿覚院にあり、兄石川鷄峰(伯介)の次男石川良道撰文の「中村子善墓銘」がある。
⇒ 赤羽永蔵・山田方谷・三島中洲・石川鷄峰・石川良道 (参)「高梁市史」「中村子善墓銘」「高梁古今詞藻」
注1:昌平黌…石川 鷄峰にアリ
注2:会頭…副校長。
TOPに戻る このページの先頭へ
明治43年〜平成3年4月(1910〜1991)
小田郡美星町出身
洋画家
昭和4年(1929)高梁中学校(旧制)を卒業、同年東京川端画学校に入学、また満谷国四郎門下に入り師事する。
同6年(1931)、第十二回帝展に「南庭」が初入選。同10年(1935)恩師満谷国四郎の逝去に伴い牧野虎雄に師事。同年旺玄舎に所属し、同人に推される。同21年(1946)牧野虎雄逝去。同年旺玄舎を旺玄会に改称。創立会員となり、以後委員として出品を続ける。
また同22年12月〜24年11月(1947〜49)、岡山県立高梁高等学校、同24年12月〜28年3月(1949〜53)、高梁町立高梁中学校の教師を務める。同28年(1953)玉島市(現・倉敷市玉島)に移住し、坂田一男(注1)の指導を受け、画家としての活動を続ける。
一方玉島市立富田中学校(同28年4月〜30年3月:1953〜55)、玉島市立玉島東中学校(同30年4月〜33年3月:1955〜58)、岡山県立玉島高等学校(同37年4月〜43年3月:1962〜68)で教鞭を執る。
その後、同62年(1987)頃まで画塾「子どものアトリエ」を開き子弟に絵を教える。高梁市文化交流館及び岡山県立高梁高等学校に「南庭」が所蔵されている。
(参)「有終」「高梁市文化交流館資料」
注1:坂田 一男(さかた かずお)
明治22年〜昭和31年(1889〜1956)
岡山市船頭町生まれ
抽象画家
大正10年(1921)児島虎次郎の紹介でフランスに渡り、フェルナン・レジェに学び、次第にキュ−ビズム(立体派)の研究をする。昭和8年(1933)帰国。倉敷市玉島乙島にアトリエを構え、中央画壇と関わりを持たず、独自の幾何学的な抽象絵画を生んだ。 (参)「群像おかやま」
TOPに戻る このページの先頭へ
生没年不詳
平安時代後期の武将(高梁市川面町城平城築城)
平安時代後期の寿永(1182〜84)の初め、高梁市川面町字城平に城を構えた。位置は、川面盆地の西端に近く、JR伯備線川面駅の西の鴨谷川に沿い、1qほど登ると少し広がった水田があり、ここを土地の人は経俊の名を取り六郎屋敷と名づけている。汲川があり標高 300mを超えており、ここに築城した。
経俊は平重盛の家人で、備前津高にいた時、重盛に従い神戸の摩耶山麓に懸かる布引の滝(現・神戸市生田区)の観瀑のとき、重盛が滝壺の底を見届けてくる者はいないかと言うと、経俊が進んで探検に入ったが、雷神に打たれ死んだという伝説がある。 (参)「高梁市史」「備作人名大辞典」
TOPに戻る このページの先頭へ