《す》TOPに戻る

すぎ せきすい:杉 積翠

明治3年〜大正6年5月13日(1870〜1917)
哲多郡野馳(のち)の出身
新聞記者

 名は重樹、通称は諦一郎、積翠は号。杉重明の子(注1)。
 有終館で荘田霜渓に学び、上京して郵便、報知、朝日、東京毎日、東京毎夕方の各新聞社に入る。劇の評を執筆。また文士劇の若菜会を創立して、劇界の革新に力を注いだ。
(参)「高梁古今詞藻」
(注1) 杉 重明 
TOPに戻る

すぎ まさんど:杉 政人

明治13年8月13日〜昭和26年11月19日(1880〜1951)
高梁市向町
海軍軍人(中将)

 備中松山藩士杉忠三郎(注1)、由の次男。高梁男子校高等科を卒業し、創立第一回の県立高梁中学校(現・高梁高等学校)の二年生の編入試験に合格。明治36年(1903)海軍機関学校卒業後、海軍少尉に任官。
 日露戦争の時、前後二回、敵弾が炸裂する旅順港口に自らの艦を沈め、ボートに移乗して帰るという決死隊に加わり任務を遂行した。第一回は同37年(1904)2月14日、武州丸機関長。第二回は3月27日、米山丸機関長として乗り組み任務を遂行、功四級金鵄(きんし)勲章と勲五等双光旭日章を授ける。このときの2月11日付で、兄の貞次に宛てた手紙に「春寒や 二十四年の 腕だめし」の句を送っている。決死隊の最年少であった。
 同40〜41年(1907〜08)欧米各国を遠洋航海し、帰国後、海軍工機学校教官などを務める。同44年(1911)海軍機関少佐に昇進、大正元年(1912)佐世保海軍工廠(こうしょう)機械工場掛長となる。同4年(1915)機関中佐、翌年造船監督官、同6年(1917)米国へ出張、翌年造兵監督官、同8年(1919)機関大佐となる。同12年(1923)横須賀海軍工廠造機部長に就任、同14年(1925)少将に進み、海軍艦船本部第五部長。
 我が国海軍の軍艦装備充実時代の功績が多く、累進して昭和4年(1929)海軍中将に昇進、海軍省軍需局長から同7年(1932)艦政本部長となる。同9年(1934)大将に進級が内定していたが、海軍の新鋭水雷艇「夕鶴」が装備過重で転覆事故を起こしたため、責任を取り同10年(1935)退官。
 その後、日本製鋼所社長となる。高梁中学校の草創の明治30年(1897)に起こった、学校ストライキ事件は方谷林や桔梗河原(高梁市落合町近似)に立てこもり、警察官が出動するなどの騒ぎになったが、当時三年生であった政人らの努力により解決した。
 高梁市和田町の八幡神社境内に「杉 政人之碑」が昭和33年(1958)4月に建立されている。碑には「謙譲の美徳が性格となり、敢えて声聞を求めず、私生活に質実剛健でありました。」と記してある。伝記に堤健男『海軍中将杉政人』(1982)がある。
  墓は、高梁市和田町の道源寺にあり、生家は今でも高梁市向町に昔のままで残っている。
  (参)「高梁市史」「備中松山城」「高梁の名碑」「伸びゆく高梁」
注1:杉 忠三郎(すぎ ちゅうざぶろう)
    備中松山藩士。高梁市向町の人。若い時は豊之進、父は善蔵、大小姓格。60石取。 
TOPに戻る このページの先頭へ

すずき ゆうしょう:鈴木 雄祥

明治39年9月5日〜昭和47年11月4日(1906〜1972)
高梁市宇治町出身
高梁市長、地方政治家
 川上郡宇治村(現・高梁市宇治町)の曹洞宗雲泉寺に生まれる。
 大正14年(1925)3月興譲館中学を卒業、東洋大学専門部東洋倫理科に進み、昭和3年(1928)中退。同年「新聞の新聞社」勤務、同10年(1935)6月から読売新聞社名古屋管理所主任、同14年(1939)6月から内外新聞評論主宰、同18年(1943)4月から同20年(1945)9月まで同盟通信写真特報中国総局長。
  同22年(1947)4月宇治村長となり二期・7カ年務めた。同29年(1954)5月、町村合併により高梁市が誕生したため高梁市役所宇治支所長、同年 7月に高梁市助役となり、同33年(1958)7月助役に再任。
 次いで柏木貞市市長の死去により、同36年(1961)5月第二代高梁市長となる。同47年(1972)7月未曾有(みぞう)の大洪水が起きその心労もあり同年11月4日市長在任中没。3期目の中途で、10年6ヶ月務めた。
 「文化の香り高いみどりの福祉都市」をビジョンとして市政運営を行った。道路整備・上水道の普及・企業誘致、順正短大の誘致、高梁小学校・高梁中学校の統合、校舎建設など都市基盤の整備、市民福祉の向上、教育の振興に力を注いだ。近似の曹洞宗松林寺(玄賓荘) の住職でもあった。
  ⇒ 柏木貞市 (参)「高梁市史」「高梁市広報紙」 
TOPに戻る このページの先頭へ

すどう えいこう:須藤 英江

安政元年〜大正3年8月8日(1854〜1914)
高梁市柿木町(現・大杉病院西棟)
医師

 号は椿軒、于石。医学を大阪の春日育造に学び医師となる。
 伊予松山(現・愛媛県)、但馬豊岡(現・兵庫県)の病院の医員を務め、高梁に帰り柿木町で開業。敬虔(けいけん)なキリスト教徒で、明治13年(1880)に二宮邦治郎の伝導を授け、同15年(1882)4月26日、正式に高梁キリスト教会が設立された日に、福西志計子・福田銀・木村静・柴原宗助ら14人と共に高梁で初めて洗礼を受けた。墓は高梁市頼久寺町のキリスト教墓地にある。61歳。
 ⇒ 福西志計子福田銀木村静柴原宗助 (参)「高梁市史」「高梁古今詞藻」 
TOPに戻る このページの先頭へ