《ち》TOPに戻る

ちかざわ しげぞう:近澤 茂蔵

文政6年10月4日〜明治22年2月4日(1823〜1889)
高梁市荒神町
備中松山藩士

 明治2年(1869)11月2日松山藩が高梁藩となり、板倉勝弼(かつすけ)が藩知事となったとき、藩庁職員として文教司副を山田耕蔵(山田方谷の養子)と二人で務めた。
 書家の高宮三峯(さんぽう)は、同2年来高、荒神町の茂蔵の家に奇寓して永住した。
 父近澤安左衛門は建丁(中小姓甼・現・荒神町)に住み、松山藩士、歩小姓並、8石5斗二人扶持。近澤芳簡は子。
⇒ 板倉勝弼山田耕蔵高宮三峯(さんぽう)・近澤芳簡(すぐ下の項目) (参)「高梁市史」TOPに戻る このページの先頭へ

ちかざわ ほうかん:近澤 芳簡(2)

安政4年4月〜昭和3年8月27日(1857〜1928)
高梁市荒神町、頼久寺町
地方官

 名は順則、また芳簡(「よしひろ」とも言う)、幼名は仁一郎、字は子廉。小澹(しょうたん)、松巒(しょうらん)の号がある。近澤茂蔵の子。
 進鴻渓、鎌田玄渓に学ぶ。明治5〜6年(1872〜73)頃には高梁小学校の訓導(教師)。のち上房郡の書記、県庁に奉職した。第二代高梁町長荘 直温の辞職後事務管掌として同26年(1893)2月25日から4月4日まで町長代理として郡役所より派遣される(第三代高梁町長蓑内鉱一郎)。同45年(1912)教育功労者として社団法人私立上房郡教育会より表彰される。
大正2年(1913)刊行された「上房郡誌」の編纂には郡の役人をしていた関係で、多くの書類を所持しており、資料の提供・助言を与えた。これらの書類は近澤文書(方谷会所蔵)として高梁市立図書館に保管されている。
 また、鳥羽伏見の事変の時、熊田恰(あたか)が玉島に帰り領民、藩兵を救うため自刃した事を記した『玉島記聞』を所持していた。
進鴻渓鎌田玄渓荘直温熊田 恰板倉勝弼山田耕蔵高宮三峯(さんぽう) (参)「高梁市史」「上房郡誌」「高梁古今詞藻」「有終」 
TOPに戻る このページの先頭へ

ちむら さくごろう:千村 作五郎

天保14年〜大正7年3月5日(1843〜1918)
高梁市生まれ、井原町の人
実業家、井原村長

 号は薇陽。備中松山(現・高梁市)の中村三郎治の長男に生まれ、井原町(現・井原市井原町)の伯父千村信の養子となる。薬種商を継ぐ。
 高梁で山田方谷に学び、井原では阪谷(さかたに)朗廬(ろうろ)に師事し詩書を能くし、慈恵に富み、皆から慕われた。
 明治17年(1884)9月、井原銀行を創立。同22〜26年(1889〜93)町村制施行初の井原村長を務め、公債を起こし村財政の整理再建に当たる。任期満了に及び再任を推されるがこれを断り実業家の道に入る。
 同26年(1893)中備製糸会社を設立し常務取締役、同29年(1896)社長に就任。この年井原織物会社を設立し重役となり、新式機械の導入・製品の改良・染料の改善・販路の拡張などに努力し、一生懸命発展に尽くした。織物を後月地方の重要産物に仕上げ、後に隆盛を見るに至った。
 漢詩と書道を能くし、明治13年(1880)後月郡内の詩家50人の作品に坂田警軒(美星町)の評論を付した『中備後月芳外吟草』(戸田藤谷と共同編集 )を、その後『玉石集』を発行。同29年(1896)には後月吟社を創立し主宰。大正 4年(1915)『後月吟集』を発行している。
 ⇒ 山田方谷阪谷(さかたに)朗廬(ろうろ) (参)「備作人名大辞典」 
TOPに戻る このページの先頭へ

ちもと くろうたろう:千本 九郎太郎

生没年不詳(1600年代前半の人)
江戸時代初期の備中松山藩士

 備中松山藩主池田長常の小扈従(こしょう)(注1)を務める。
 19歳のとき同じ小扈従(こしょう)の鷲見(すみ)左衛門(14歳)が、ある時徒士(かち)から恥辱(ちじょく)を受けた時相談を受けたのでこれに助太刀(すけだち)して徒士を一刀のもとに斬殺した。鷲見(すみ)はその夜のうちに立ち退いたが、九郎太郎が助太刀したに違いないと、この事を徒士の同僚から家老に訴えられた時、家老に対し明弁に事理(ことわけ)を説明して世の推奨を受けた。
 寛永18年(1641)9月、藩主長常の病死により主家が断絶し浪人なった時、本多能登守忠義はこの助太刀と申し開きの件を伝え聞き、200石で召し抱えた。
  その後、江戸において鷲見(すみ)が旗本に出入りしていた折に、独身の時に徒士を斬ったと自慢していたことが忠義の耳に入り問題になった時にも明弁に士道を説き忠義の信頼を得て、50石の加増を授け、鉄砲組頭に取り立てられたと言う。
 ⇒ 池田長常  (参)「備作人名大辞典」
注1:扈従…「こじゅう」とも読む。おとも・付き従う人。 
TOPに戻る このページの先頭へ