生年不詳〜元弘3年5月9日(?〜1333)
備中松山城主
名は宗康。九郎左衛門、また北條仲時に従っていた時は三河守時英(ときひで)と称した。
備後国(現・広島県東部) 三好氏の一族で、勢いの衰えた秋庭氏(前期)に代わり元弘元年(1331)に備中松山城主となる。
元弘の合戦(元弘1〜3年:1331〜33)に鎌倉方の大将を弟の大五郎と務め、南北両六波羅の下知に従い軍功をたてた。「力量・早業近国に類(たぐい)なし」と言われた。
備中国(現・岡山県西部) の守護職を務め、備中松山の大松山に九郎左衛門(宗康)、小松山に弟の大五郎が居た。
九郎左衛門、又四郎(範時(のりとき))の親子は同3年(1333)5月7日、京都の合戦に北条氏に従い、六波羅軍に属し楠氏を攻めたが、これに敗れ、9日近江国(現・滋賀県) 番場の米山の麓、蓮華寺一向堂前で、六波羅探題(注1)北条仲時以下 432人と共に討死・自害した。親子とも向こう見ずの荒武者であったらしい。時に九郎左衛門41歳、又四郎19歳。その後、高橋一族の末裔は備中窪屋郡流山(るざん)の城に移った。
⇒ 高橋又四郎(すぐ下の項目) (参)「高梁市史」「備作人名大辞典」
注1:六波羅探題(ろくはらたんだい)
承久の乱(承久3年:1221) の後、従来の京都守護職に代えて置かれた鎌倉幕府の朝廷監視機関。尾張国(現・愛知県)以西の御家人も統括した。当初は六波羅守護職と呼ばれた。(参)「日本史用語集」
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生年不詳〜元弘3年5月9日(?〜1333)
備中松山城主の高橋九郎左衛門宗康の子
名は範時。備中松山城主の高橋九郎左衛門宗康の子。北條仲時に属す。
元弘3年(1333)5月7日、京都の合戦に北条氏に従い、六波羅軍に属し楠氏を攻めたが、これに敗れ、9日、近江国(現・滋賀県) 番場の米山の麓、蓮華寺一向堂前で、六波羅探題北条仲時以下432人と共に討死・自害した。範時19歳。
『備中州巡礼略記』『備中話』『備中誌』に「昔は城下の名を高橋と言えるが、元弘・正慶のころ高橋又四郎(範時)居城の時より高橋を松山と言えるよし、山の名を取りて土地の名にしたるなり。」と記されているように、又四郎範時が町の名を高橋から松山に変えた。
⇒ 高橋九郎左衛門宗康(すぐ上の項目) (参)「高梁市史」「備作人名大辞典」
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生年不詳〜明治9年(?〜1876)
京都の人、高梁市荒神町
幕末〜明治初期の書家
号は初め三橋のち三峯と改める。明治2年(1869)京都より来高、高梁市荒神町の近澤芳簡(よしひろ)の父、茂蔵の家に奇寓していたがついに永住した。まじめな人で、書を能し、最も草書に優れており、特に大字を能くした。地方の青年が競って入門した。有名な麦桿(ばっかん)の事業家中村源蔵もその弟子の一人であった。
⇒ 近澤芳簡・中村源蔵 (参)「高梁市史」「有終」「岡山縣人名辭書」
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昭和11年〜昭和63年(1936〜1988)
倉敷市出身
彫刻家・教育者
倉敷市福田に生まれ、高梁高等学校から岡山大学教育学部に進む。在学中2度日本美術展(日展)に入選。
昭和34年(1959)大学卒業後、教職に就く。これ以後、公募展への出品を行っていない。同40年(1965)岡山彫刻会の創立に尽力し、創立会員として毎年活動を続けた。作品は独自作風の中に平和と人間愛をテ−マにしたものが多く残されている。高梁市文化交流館に作品が所蔵されている。
(参)「高梁市文化交流館資料」
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寛政3年〜明治5年11月(1791〜1872)
広島県出身、高梁市本町
俳人、町年寄
名は吉根。通称養平。田辺庵と言い、号は杏林・羽霓(うげい)・几眠(きみん)。
備後国安那郡上御領村(現・広島県神辺町)藤井家に生まれたが、幼い時、松山藩の田辺小兵衛の養子となる。若い時から俳諧の道に入り、赤木晋和の門人となり俳諧を学び、「出藍の誉れあり」といわれ、当時師を凌(しの)ぐとさえ言われていた。
天保14年(1843)晋和の没後は宗匠となり居を本町に移し、号を田辺庵杏林といった。門人も頗(すこぶ)る多かった。山田方谷は、杏林を重んじて詩を寄せ、その風懐をほめた。屋号は堺屋で薬種商を営み、晩年抜擢されて町年寄となる。
元来備中松山は俳諧が盛んな地とされていたが、これは偏(ひとえ)に師の晋和や杏林の力によるところが多い。岡山県立高梁高等学校に「惜む」の短冊がある。
明治5年没。83歳。
辞世の句「梅が香を 旅の力に 歩行(き)けり」を残して世を去った。
⇒ 赤木晋和・山田方谷 (参)「高梁市史」「高梁の名碑」「高梁古今詞藻」「有終」
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生年不詳〜慶応2年4月1日(?〜1866)
高梁市御前町(西側の北の角:現・高梁高校の寮)
備中松山藩士、新撰組隊士
本名は供国。弟万太郎、昌武(のち周平)と共に新撰組(注1)隊士。「新撰組の三兄弟」と言われた。
幕末の備中松山藩士谷三治郎の長男。父三治郎は藩の旗奉行役を務め、禄高 120石・役料20石を給されており、国表(備中松山)では最高の役料であった。直心流剣術の師範で、種田流槍術も能くした。
三十郎は近習を務め、銀3枚・2人秩持を給されていた。安政3年(1856)10月13日(25歳前後)「御暇(おいとま)」(注2)の咎(とが)をうける。剣術の達人で大坂に出て次弟万太郎と大坂南堀江二丁目松屋町の酒屋を間借りし、剣術の道場を開く。道場はそれなりに繁盛したらしい。
原田伊之助(新撰組幹部)は、この道場に入門し槍術習ったことがあり、その縁で文久3年(1863)4月に新撰組に兄弟で入隊。助勤に任ぜられた。同年7月以降に末弟昌武(のち周平)を呼び寄せ新撰組に入隊させ昌武を近藤勇の養子にする。そして副長助勤となる。
元治元年(1864)6月5日の池田屋襲撃事件では、池田屋の表出口を固め、逃れようとする志士を槍で応戦し素晴らしい手柄を立てた。時の京都守護職・松平肥後守は新撰組の活躍に対して、近藤勇には刀を贈(おく)り、隊員一同に金子(きんす)500両、戦死者・負傷者にはそれぞれ50両を感状と共に贈った。褒美として三十郎は十両と別に 7両で17両貰(もら)い、万太郎は沖田総司らと10両と別に10両を貰(もら)い、周平は15両貰った。
慶応元年(1865)1月8日の大坂松屋町の「ぜんざいや襲撃事件」では、万太郎の道場に身を寄せていた倉敷の谷川辰吉の内通により、三十郎、万太郎の道場の弟子・正木直太郎及び高野十郎(後に御陵衛士に加盟した阿部十郎の変名)と共に土佐浪士を襲撃、大利鼎吉を斬殺し、書類を押収した。この事件の後、京都同様大坂も浪士の取締りが厳しくなり、大坂を混乱から守った。この時三十郎は脚に負傷している。また、同年7月の禁門の変後の残党狩りで、西本願寺の道場で剣術を教える中田九一郎等を捕縛し連行した。
同年に組織された新撰組の職制では沖田総司、永倉新八らに並んで七番隊の組長に格下げとなる。新撰組の槍術師範頭を務めた。流儀は種田宝蔵院流であった。谷三兄弟の活躍は、その時々に素晴らしく、後々に伝えられた。
三十郎は同2年(1866)4月1日、新撰組が壬生にいた頃、京都の祇園石段下で土方歳三の命を受けた斉藤一に暗殺されたとか、大和の方に出て急病で頓死したとか死因は諸説ある。谷三兄弟の墓は大阪市北区兎我野町の本伝寺にある。谷家の墓は、高梁市向町安正寺の墓地の南側中央にあり、父三冶郎の名が読み取れる。安正寺は備中松山藩主板倉公の菩提寺でもある。
新撰組には、明治元年(1868)9月20日 藩主板倉勝静が箱舘に向かう時、藩士14名が勝静随行のため土方歳三配下に入隊している。 (参)「高梁市史」「高梁の人物」
「松山藩の新撰組隊士」を見る 「松山藩の新撰組隊士一覧」を見る
注1:新撰組…文久3年(1863)江戸幕府が武芸に優(すぐ)れた浪士を集めて編成した警備隊。近藤勇・土方(ひじかた)歳三らが属し、京都にあって反幕府勢力の鎮圧にあたった。(参)(広辞苑)
注2:御暇(おいとま)…藩士の刑罰。解雇のことで、その重いものが永の暇。目付 2人・徒(かち)目付(めつけ)・同心が本人宅へおもむき、親類の者も立ち会った上で、口頭で申し渡した。その日のうちに屋敷から立ち退(の)き、本人は城下の外へ立ち退くのが慣(なら)わしであった。三十郎が出奔(脱藩)扱いにされなかったのは、新撰組が勤皇であったため、このような穏やかな処置が取られたのであろう。(参)「高梁市史」
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天保6年〜明治19年6月30日((1835〜1886)
高梁市御前町(西側の北の角:現・高梁高校の寮)
新撰組隊士
幕末の備中松山藩士谷三治郎の次男。種田流槍術、直心流剣術を使い、名だたる剣客であった。
備中松山藩の浪人で、安政3〜4年頃(1856〜57)大坂久左衛門町の医師・岩田文硯の食客となる。文硯は中山大納言の侍医で、武道を志す書生の面倒をよく見ていたため、万太郎の武術の腕を認め、大坂南堀江町の納屋を借りて万太郎を師範として、剣術と槍術の道場を開かせた。のちに文硯の次女スエと結婚し二男二女を設けるが、末っ子の弁太郎だけが成長した。
文久三年(1863)秋以降に兄三十郎と共に、新撰組に入隊する。後に入隊した弟の周平は新撰組隊長の近藤勇の養子となる。
元治元年(1864)6月5日の池田屋襲撃事件では、土方歳三の三番隊に属し、表出口階段下で、二階から切られて逃げてくる敵を田楽刺しにし、奮闘して素晴らしい手柄を立てた。褒美として万太郎は沖田総司らと10両と別に10両を貰(もら)い、兄三十郎は別に 7両で17両貰い、周平は15両貰った。
慶応元年(1865)1月8日の大坂松屋町の「ぜんざいや襲撃事件」では、万太郎の道場に身を寄せていた倉敷の谷川辰吉の内通により、兄三十郎、万太郎の道場の弟子・正木直太郎及び高野十郎(後に御陵衛士に加盟した阿部十郎の変名)と共に土佐浪士を襲撃、大利鼎吉を斬殺し、書類を押収した。この事件の後、京都同様大坂も浪士の取締りが厳しくなり、大坂を混乱から守った。「ぜんざいや襲撃事件」では、大坂の地理に詳しい万太郎の手柄と言われている。万太郎は道場があり大坂を離れられなかったためか、平隊士であった。この時三十郎は脚に負傷している。谷三兄弟の活躍は、その時々に素晴らしく、後々に伝えられた。
兄三十郎の死後は新撰組とは距離を置いたらしく、同3年(1867)6月新撰組の幕臣取立時の名簿には無い。維新後大坂の釣鐘町で道場を開くが失敗する。鴻池、辰巳屋などの用心棒をして生活していたらしいが、万太郎のその後は伝わっていない。明治18年(1885)に弁太郎をスエに託し、吉村たみと同棲。翌19年(1886) 6月に食道ガンで病死した。維新後も新撰組隊士であった篠原泰之進と親交があった。
谷三兄弟の墓は大阪市北区兎我野町の本伝寺にある。谷家の墓は、高梁市向町安正寺の墓地の南側中央にあり父三冶郎の名が読み取れる。安正寺は備中松山藩主板倉公の菩提寺でもある。 (参)「高梁市史」「高梁の人物」
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嘉永元年5月20日〜明治34年12月2日(1848〜1901)
高梁市御前町(西側の北の角:現・高梁高校の寮)
新撰組隊士
幕末の備中松山藩士谷三治郎の三男。元の名は昌武。
文久3年(1863)7月以降に兄三十郎、万太郎と共に新撰組に入隊。周平は新撰組隊長の近藤勇が池田屋襲撃事件(元治元年=1864年6月)の成功を郷里に宛てた手紙の末尾に「先日板倉周防守(勝静(かつきよ))殿家来より養子申し受け候。(中略)名は周平と申し置き候。」と翌 7月の手紙に記(しる)しているように、近藤勇の養子となっている。近藤勇が養子にした時の名が「周平」。出色の人物であったと思われる。
元治元年(1864)6月5日の池田屋襲撃事件では、近藤勇と共に切り込む。褒美として兄三十郎は10両と別に 7両で17両貰い、万太郎は沖田総司らと10両と別に10両を貰(もら)い、周平は15両貰っている。
慶応3年(1867)6月の幕臣取立てでは、見廻組並(幹部)になるが、名簿では「谷周平」となっており、この間に近藤勇と養子縁組が解消されている。長兄の三十郎は死亡し、万太郎は長兄三十郎の死亡の前後に離隊しており、一人だけ隊に残った。慶応4年(1868)1月の「鳥羽伏見の戦い」の後江戸に出るが、その後脱走した。一時期高梁に帰るがすぐに出て行き、明治5年(1872)に大阪府の巡査となる。同13年(1880)に神戸で播田つると結婚、同20年(1887)離婚した。その後三陽鉄道の職員となった。谷三兄弟の墓は大阪市北区兎我野町の本伝寺にあり、墓石には「谷昌武」と記してある。谷家の墓は、高梁市向町安正寺の墓地の南側中央にあり、父三冶郎の名が読み取れる。安正寺は備中松山藩主板倉公の菩提寺でもある。
(参)「高梁市史」「高梁の人物」
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嘉永2年〜 没年不詳(1849〜 ? )
備中松山藩士、判事
名は直、字は同郷、通称は資敬、号は東江。備中松山藩江戸藩邸で生まれる。川田甕江(おうこう)の門に入る。備中松山(現・高梁市) へ帰り山田方谷に学ぶ。
鳥羽伏見の戦い後の戊辰戦争(1868)のときは、19歳で江戸定府の藩士であり、一時旧藩主板倉勝静(かつきよ)に従い日光山に立ち退き、その後勝静と別れ藩士50名と共に壬生藩(現・栃木県) 鳥居家へ預けられ、江戸・大坂と各地へ抑留され苦難を経て、同年6月、備中松山へ護送されて帰った。当時のことを手記に残している。明治維新後、東京控訴院の判事となり、退官後、新潟電気会社重役となる。晩年は東京に住む。
⇒ 川田甕江・山田方谷・板倉勝静 (参)「高梁市史」「高梁古今詞藻」
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明治3年2月18日〜没年不詳(1870〜 ? )
高梁市南町出身
俳人
号は、千壺(せんこ)・夢佛菴(むぶつあん)・来山堂(らいさんどう)など。中村源蔵の三男。田畑氏の養子となる。
同志社、二松学舎で学び、日本郵船会社・日本銀行・富士製紙会社などに勤務し、三野村合名会社主事及び2〜3の会社の重役となる。著書に『春駒』一巻がある。高梁小学校に俳画「初夏」の掛軸がある。
⇒ 中村源蔵 (参)「高梁古今詞藻」「高梁小学校の文化財」
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文政10年〜明治34年8月7日(1827〜1901)
高梁市中間町(表足軽丁)
備中松山藩士、弓術家
名は孝純、通称は蔵六、号は松谷。備中松山藩士清水熊平の長男として生まれ、君命により田淵氏を継ぐ。
藩校有終館で学び、のち江戸へ遊学する。帰藩し山田方谷に学ぶ。武芸を修行し、特に弓術に優れていた。明治維新の時には板倉家再興のため尽力した。
明治初年の頃に高梁市中間町で家塾を開き子弟の教育をした。性格はものにこだわずおおらかで、人の分け隔てせず接した。
⇒ 山田方谷 (参)「高梁市史」「岡山縣人名辭書」
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文久2年〜昭和2年1月9日(1862〜1927)
高梁市出身
領事
二松学舎で学び外務省に入り、書記生から領事となる。朝鮮、支那、英国、米国、豪州に在任する。のち朝鮮総督府に入り理事官、書記官を務める。号は恂斎。
(参)「備作人名大辞典」 TOPに戻る このページの先頭へ
嘉永4年〜明治36年12月10日(1851〜1903)
高梁市出身
地方政治家
号は竹陰。進鴻渓に学ぶ。高梁町議会議員、県議会議員を務め、のち製糸会社に勤め、また高梁銀行の監査役となる。また明治14年(1881)12月11日高梁に上房中学が設立されたときには、板倉信古、柴原宗助等と共に設立に尽力した。
高梁には漢学専門の有終館しかなく、小学校を卒業した者に対して日々の学問を教える学校のないこと、岡山・津山に中学が設立されていること、同年7月22日に川上郡下原村(現・成羽町下原) に川上中学が開校したことなどが刺激になり上房中学が設立された。また同30年(1897)6月高梁銀行が設立されると監査役に就任し同36年(1903)7月まで務めた。墓は、高梁市寺町の寿覚院にある。
⇒ 進鴻渓・板倉信古・柴原宗助 (参)「高梁市史」「高梁古今詞藻」「中國銀行五十年史」
天保6年〜明治12年10月18日(1835〜1879)
高梁市新丁(現・鉄砲町・、山神社の前)
備中松山藩士・剣術家
名は善平、字は得義。備中松山藩士・秋庭善次(注1)の四男として生まれる。幼少のとき,備中松山藩士・団藤弥平(注2)の養子となる。
句読を松本氏に学び、剣術を藩の剣術師範であつた熊田恰(あたか)に学ぶ。弱冠(じゃっかん)20歳で新影流の極意を得る。藩主板倉勝静の文武奨励策により、安政年間(1854〜60)家老の嫡子板倉杢・清水寿助と共に、伊勢国(現・三重県) 津藩の渡辺内膳に学び神妙流の極意を得た。この時三島中洲も津藩の斉藤拙堂の塾の塾長をしていたので友好を深めた。
次いで筑後国(現・福岡県) 久留米藩の加藤田氏に師事して新陰流の極意を得た。また当時中国地方屈指の剣豪として著名であった津山藩の井汲(いくみ)唯一との2日間の試合に勝ち一躍武名をあげた。
その後も各地で修行し試合に勝ち、剣の達人としての名声のみならず、松山藩の名も大いに高めた。その武技は天性のもので、修練も良くした。
帰藩後、中小姓に昇進し重賞を受け、剣術を藩士領民に指南し、門弟は数百人に上(のぼ)った。がっちりした体で、背は 6尺を超え、家に入るときには首をちぢめて入った。酒豪であったが酔わず、職務に忠実で公務を怠ることはなかった。
一男一女を設け、長男の安夫は司法検事を経て弁護士となる。孫の団藤重光(しげみつ)(注3)は最高裁判事を務め文化功労者。
高梁市大工町正善寺墓地の中央当たりに、三島毅(中洲)撰文の「団藤善平墓銘」の碑がある。
⇒ 熊田恰・板倉勝静・三島毅・清水寿助 (参)「団藤善平墓銘」「高梁市史」「昔夢一斑」
注1:秋庭善次…最初の備中松山城主秋庭三郎重信の末裔(まつえい)。備中松山藩士。高梁市新丁(現・鉄砲町)に住み、士格並で秩持米は4石5斗・2人秩持。
注2:団藤弥平…備中松山藩士。はじめ名を亮蔵と言い、士格並(一代士格)で扶持米は5石5斗。高梁市新丁(現・鉄砲町・、山神社の前)
注3:団藤重光…高梁市出身。大正2年(1913)11月8日山口で生れる。1歳の時父親が検事を辞め弁護士になったのに伴い岡山へ帰る。第二岡山中学校(旧制)、第六高等学校(旧制)を卒業。昭和10年(1935)東京大学法学部卒業後、23歳で東大助教授となり同22年(1947)教授となり、のち名誉教授。同49年(1974)から9年間最高裁判所判事。同56年(1981)から学士員会員。刑事訴訟法の「生みの親」と言われ、刑事法学(刑法・刑事訴訟法)の日本最高の権威者。これが認められ同61年(1986)秋、文化功労者、翌62年(1987)勲一等旭日大綬章、平成元年(1989)宮内庁参与。(参)「高梁市広報紙」
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