安政元年〜大正12年9月3日(1854〜1923)
上房郡巨瀬村(現・高梁市巨瀬町)
巨瀬村長
昭和33年(1958)3月10日巨瀬小学校(高梁市巨瀬町)鉄筋三階校舎落成式のとき柏木高梁市長より、故人の喜太郎に対し「大正2年(1913)部落有林を村有林に統一され、本日その目的を達せられたことを忍び感謝する」という頌徳状が遺族に渡されたが、このようなことは誠に異例なことで、その村政に対する大きな業績を物語るものである。
巨瀬村長在任期間(明治34年(1901)から大正5年(1916)まで)15カ年間の業績の主なものは、
(1)三渓校(巨瀬小学校)の新築 (2)日露戦争銃後(注1)の村行政 (3)村内各主要道路の大改修 (4)公有林(財産区有林)の設置 (5)巨瀬村誌の発行 (6)陰地(おんじ)山その他の砂防工事などである。
明治43年(1910)には、社団法人私立上房郡教育会より教育功労者として表彰された。 (参)「高梁市史」「上房郡誌」
注1 銃後(じゅうご)-----戦時中、直接戦闘に従事しない国、国内のこと。(参)「広辞林」
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天保14年〜明治17年9月(1843〜1884)
高梁市
宮司
一名定治郎。明治の初め、皇学の勉強のため、小田県(現・岡山県西部) より上京を命じられ、権大属宣教掛として、神祇官に出仕。帰藩後、小田県巡教師、備後国(現・広島県東部) 沼名前神社の権禰宣権少講義などに補され、のち文部省に勤務した。
『高梁古今詞藻』に歌を残している。42歳で没。(参)「高梁古今詞藻」
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寛政7年〜明治元年11月11日(1795〜1868)
高梁市石火矢町(東側・北の角、西向き)
備中松山藩士(年寄役・150石)
名は賀利、通称は丈左衛門、号は野丈(やじょう)、老いて道仙(どうせん)。片岡清賢の次男。
19歳のとき野中家の養嗣子となり、義父正利の後を継ぎ、目付・近習役を経て備中松山藩の藩校有終館の会頭(副校長) を務める。郡奉行・元締役を歴任した。
万延元年(1860)年寄役副となり50石を賜り政務に参画し、翌年文武総督を兼ねた。第一次長州征討(元治元年=1864) の時は、藩主板倉勝静が山陽道の先鋒として広島に出兵したので、山田方谷と共に留守を任され政務を執った。
慶応2年(1866)元長州藩兵第二奇兵隊による浅尾陣屋襲撃の浅尾騒動(注1)が起きると、72歳の老齢にも拘らず、進んで本道から日羽口(ひわぐち)(現・総社市日羽) に出陣するという気骨を示し、隠然として一藩に重きをなした。
義母によく孝を尽くし、褒銀を賜り、学問・武術の全てに群を抜き禅学を修め、書道を嗜(たしな)み、てん淡・寡欲で、自らは節倹に努めて人に恵み、丈左衛門の陰徳を受けたものも少なくない。
奥田楽山から山田方谷へ移る時代の間、藩風刷新・教育振興の上で丈左衛門の果たした役割は大なるものがあった。『高梁古今詞藻』に詩を残している。明治元年11月没。74歳。墓は頼久寺にある。日高訥蔵の弟を養子に迎えている。岡山県立高梁高等学校に書がある。
⇒板倉勝静・山田方谷・奥田楽山・日高訥蔵 (参)「高梁市史」「高梁二十五賢祭~畧傳」「高梁古今詞藻」「有終」
注1:浅尾騒動(あさおそうどう)
慶応2年(1866)4月4日、周防(現・山口県) 岩城山に屯集(とんしゅう)(たむろする) していた奇兵隊の90余人が、首領の立石孫一郎に率いられて脱走。海路備中連島(現・倉敷市)に上陸し、10日早朝倉敷代官所・桜井久之助の留守宅を襲撃、翌11日井山宝福寺(現・総社市) にたむろした。
松山藩では、急遽(きゅうきょ) 野中丈左衛門指揮の藩兵を出動し、松山往徠を南下して日羽口へ、山田方谷の指揮する農兵隊は野山(現・賀陽町大和) に出陣。非常に備え、また一隊は総社に陣を敷き浅尾藩の応援に備えた。
浅尾藩は応援を山手村・三軒屋に出兵した備前藩に依頼し、松山藩を断ったため、藩兵を日羽まで引いたところ、12日夜半、立石らは宝福寺を出て松山に向かうと見せかけ、宍栗(しさわ)(現・総社市) に至って急に兵を転じ、13日早朝、蒔田相模守の浅尾の陣屋を焼き討ちしその夜退散。高梁川を下り海路長州に帰るが、毛利氏は彼等を斬罪に処した。(参)「高梁市史」
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元文4年〜文政元年6月22日(1739〜1818)
高梁市片原町
備中松山藩士、有終館の創始者
名は必明、または利恭。通称は治右衛門。号は竹軒、または靖斎。
伊勢国(現・三重県)亀山の板倉藩士黒野家に生まれる。延享元年(1744)、6歳の時藩主板倉勝澄(かつずみ)の国替により、備中松山(現・高梁市)へ移り、野村家の養子となる。芦田君徳(默翁)の甥に当たり、妻を芦田家より迎える。君徳とは婿舅の間柄となる。若い時から学問を好む。
宝暦のころ(1751〜64)京都の堀川邸に祗役(しえき)(注1)したとき、岡龍州に学びその門下の俊秀と交わる。傍ら医術を吉益(よします)東洞(とうどう)に学ぶ。吏才に長(た)けていたので、帰藩後、郡奉行、元締役(藩会計の長官)を歴任して、藩士、領民の信望を一身に集め、その顕著な治績により、加賀山吉弘の馬術、本多光憲の砲術とともに、藩の三名人といわれた。
元締役を辞した後の寛政10年(1798)に、教育の刷新を考え、藩主板倉勝政(板倉氏10代)に願い出て学問所の規模を改め、有終館を建設し、芦田君徳を学頭に推し、自分は助教の職に就いた。翌11年(1799)芦田君徳が78歳で没したために学頭となる。竹軒は陸王の学風を慕った。陸王とは宗の陸象山、明の王陽明の学風で、学問を直ちに事業の上に活用しようとするものである。
奥田楽山の作った竹軒の碑文に『於レ是吾藩之人始得レ嚮二實學一矣。此先生之功最偉者也』(注2)とある。この実学とは、「学者が書物の虫とならず、実地に役立つ学問をする。」というところに名付けた名称であり、松山藩が大体において実学の傾向を持つのは、竹軒によるところが大きい。享和 3年(1803)、65歳で執政に昇進した。
余技として詩歌、囲碁、点茶などを嗜(たしな)んだ。墓は安正寺(高梁市向町)にある。
⇒ 芦田君徳・板倉勝政・奥田楽山 (参)「高梁市史」「高梁二十五賢祭~畧傳」「高梁古今詞藻」
注1:祗役(しえき)…君主の命に奉じて他所へ赴くこと。
注2:『於是吾藩之人始得嚮實學矣。此先生之功最偉者也』
「ここにおいて我が藩の人始めて実学のみちびきを得る。此(これ)は先生(竹軒)の功にして最も偉(すぐ)れた者也」
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生没年不詳
幕末の備中松山藩士
高梁市片原町(現・検察庁)
はじめ貢、のち真兵衛・治右衛門。号は利房。 380石取、番頭(ばんがしら)。野村竹軒の後衛(こうえい)。
第一次征長の役(元治元年・1864)の時は、後備の物頭として参戦した。幕末の鳥羽伏見の戦い(1868)により朝敵となり、松山藩が没収された時、板倉氏の家名再興のため神戸一郎等と共に上京して奔走した。
明治11年(1878)に真兵衛の旧宅に有終館が移転された。松山藩としては大身であり、家屋や庭園も相当広く、講堂やその他の施設を除いても、10数名の寄宿生を収容することができた。後に検察庁となる。
⇒ 野村竹軒(すぐ上の項目)・神戸一郎 (参)「高梁市史」
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明治12年10月24日〜昭和11年10月26日(1879〜1936)
高梁市川面町出身、高梁市片原町に居住
弁護士、政治家(衆議院議員・県議会議員)
高梁市川面町で農業・土木請負業の則井兼十郎の次男に生まれる。
川面小学校・高梁中学校(旧制)を卒業後上京し、昼間郵便局でアルバイトをしながら明治大学夜間部、同大学高等研究科で法律を学び明治37年(1904)7月修了。
間もなく判事検事登用試験(司法試験)に合格。高松地裁判事となるが1年で退職。その後東京で弁護士をするが酒で体調を崩し高梁に帰り弁護士を開業する。高梁で結婚し片原町に住む。酒を断ち暇を見つけては高梁川へ魚釣りに出かけた。これにより高梁川漁業共同組合長となる。
大正12年(1923)・昭和2年(1927)には県議会議員に当選し、同5年(1930)議長も務めた。その間岡山地方森林会議員・小作調停委員を務め名誉参事会員となる。
同7年(1932)2月衆議院議員に岡山二区から立候補したが、同郷の西村丹治郎と争い落選する。そして同9年(1934)5月犬養木堂と白神邦二の死亡による衆議院議員補欠選挙で、西村丹治郎と共に無投票当選した。同じ高梁町から二人の代議士が誕生し当時の話題になった。昭和11年(1936)2月の選挙では、病気で十分な選挙運動ができず、落選した。同年10月肝臓ガンで逝去。57歳。
伯備線の全線開通に向け鉄道大臣に働きかけ実現した。伯備線の豪渓駅(総社市)の名称は紅葉の名勝「豪渓」を売り出すために万寿雄が名付けたと言われている。高梁駅前通りの街路樹のプラタナスは名誉参事会員になった記念に秋田県から取り寄せて植樹したものである。(昭和50年代に老木のため伐採された。)
大正13年(1924)に開設された、高梁正教員養成所(高梁日新高等学校の前身)の、校舎建設のため荘直温町長・池上仙二郎(後の高梁町長・長右衛門)等と後援会を組織し、内山下の重クロム酸会社の工場跡地(現・高梁日新高等学校)を買収し、工場の建物を教室に転用した。
⇒ 西村丹治郎・荘直温・池上仙二郎(長右衛門) (参)「高梁市史」「昭和の岡山・政治と人と」
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