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もうり はちや:毛利 八彌

嘉永5年4月〜大正15年8月28日(1852〜1926)
高梁市石火矢町
備中松山藩士、地方事務官

 備中松山藩士近習 七人扶持。若い時の名は宿*(*禾に爾)。父は毛利作左衛門(寺社奉行、百石取り、役料20石)。山田方谷に学ぶ。
  明治6年(1873)22歳の時、鳥取県第13中学区第17番小学区勤務。同9年(1876)鳥取県が島根県に「被併」されるまで、小学校教育に従事。この時より島根県所属となり、同12年(1879)教育畑より離れ島根県属となる。
 同18年(1885)県令籠手田(かごてた)安定(やすさだ)着任後は、腹心の部下として教育、行政に手腕を発揮。同23年(1890)知事に同行し、東京でラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の雇い入れについて交渉をまかされた。後、県内3ヶ所の郡長を歴任。同33年(1900)島根県を退職し、翌年から大正13年(1924)までの23年間、島根県立商業学校で書道を教えた。
 書を能くし生地の高梁に因み梁涯(りょうがい)と号した。ラフカディオ・ハーン記念館には、八彌自筆の契約書が残っており、見事な筆跡が伺える。同15年に75歳で没。京都府綾部市の天王平より高梁市寺町・寿覚院の先祖の墓地へ分葬されている。
(参)「御近習 七人扶持」「藩士 分限帳」「ヘルン先生生活記」「へるん 第22号」 
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ももの まさお:百野 正雄

明治40年3月23日〜昭和58年5月5日(1907〜1983)
高梁市伊賀町
団体役員(農協組合長)

 阿哲郡神郷村釜村(現・新郷町)で福田岸太郎・げんの3男として生まれる。昭和10年(1935)百野万太郎の婿養子となる。
  昭和2年(1927)3月島根県立松江農林学校農林科卒業、卒業後大阪営林局新見営林署高梁苗圃に勤務。翌3年(1928)8月備中松山城二重櫓修理のための国有林伐採協議に南村新見営林署長と共に保護官主任として出席。協議には則井万寿夫県議会議員、池上仙二郎高梁町長、徳田蕃之助役他が出席。翌4年「臥牛山国有林火の見台兼造林人夫収容小屋」として二重櫓修理が完成した。
 同13年(1938)5月営林署を退職し高梁町役場に就職。同15年(1940)11月に完成した備中松山城天守修理には、永井恒三郎町長の下で奔走した。同20年(1945)5月高梁町役場を退職し、高梁町農業会に入り翌年会長に就任。同22年高梁農産物荷受組合(青果市場)を設立し組合長に就任。同23年〜同43年(1948〜68)まで高梁農業協同組合専務理事、同43年〜同57年(1968〜82)まで組合長を務める。
 この間同22年〜26年(1947〜51)まで高梁町会議員を1期、副議長も務めた。また高梁農業共済組合理事、高梁市事業農業協同組合理事、高梁生産農業協同組合理事、高梁畜産公社理事などを歴任した。農協の健全経営と地域営農指導に専念し、特に野菜の生産販売に力を注ぎ生産基盤の確立を図ると共に、青果市場充実による販路の拡大を推進した。
⇒ 則井万寿夫十代目池上長右衛門(仙二郎)徳田蕃之永井恒三郎 (参)「高梁市史」 
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もり じゅごろう:森 寿五郎

明治24年3月20日〜昭和58年1月8日(1891〜1983)
高梁市落合町福地出身
高梁市名誉市民・実業家・関西電力副社長
 昭和53年(1978)1月20日、四人目の高梁市名誉市民に推戴される。
 川上郡落合村福地(しろち)(現・高梁市落合町)で信原忠吉の四男として生れる。
 のち川上郡成羽町中村(現・成羽町中)の森家の養子となる。福地小学校、高梁中学校を経て、大正3年(1914)第三高等学校を卒業、同8年(1919)東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業。同年宇治川電気へ入社。翌年日本電力に移り、試験係長、大阪変電所長、発電・送電各課長を歴任。
 昭和13年(1938)日本発送電株式会社の創立業務に携わり入社、同21年(1946)理事、同25年(1950)10月副総裁に就任する。翌26年(1951)5月関西電力が発足すると、取締役副社長で入社。黒四ダム(黒部第四ダム)建設など大事業の技術陣の総指揮を執った。同37年(1962)相談役に退く。同38年〜42年(1963〜67)丸善石油取締役社長、取締役会長として再建に当たり、また同42年〜46年(1967〜71)阪神高速道路公団理事長を務めた。
 この間、関西経済連合会常任理事・大阪国際サイエンスクラブ理事長・大阪科学技術センター副会長・関西電気協会会長などに就任、同39年(1964)から亡くなる同58年(1983)まで関西在住の岡山県人会「近畿おかやま会」会長を務めた。
 同30年(1955)藍綬褒章、40年(1965)勲三等瑞宝章、46年(1971)三木記念賞、47年(1972)勲二等瑞宝章を受賞した。31年(1956)には「超高圧送電線の研究」で工学博士。
 兵庫県芦屋に在住し、常に郷里の母校福地小学校に思いをはせ、世界美術全集をはじめ、名作全集などの図書を再三にわたり寄贈した。 (参)「高梁市史」 
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もりおか ぶえもん:森岡 武右衛門

天保3年〜明治30年2月14日(1832〜1897)
高梁市建丁(現・荒神町)
備中松山藩士

 若い時の名は武太郎、武右衛門、のち栄治、栄樹と言った。号は袖溪。中小姓並・8石5人扶持。父は小文太。江戸に遊学し昌平黌(江戸幕府の学問所)で学ぶ。
 鳥羽伏見の変(慶応4年=1868・正月)の後の4月初め、松山藩の開城・謹慎、熊田恰(あたか)の割腹状況を江戸残留の藩士たちへ伝えた。その後旧藩主板倉勝静(かつきよ)が立ち退いていた日光山の宿坊南照院へ向かった。
 また勝静が榎本武揚(たけあき)らと箱館に逃れ蝦夷政府を樹立(明治元年=1868・12月) した時、松山藩では三島中洲・川田甕江・進鴻渓らが勝静救出を画策し、武右衛門は、その年の12月21日松山表を出発し翌2年(1869)正月11日に東京に着いた。年寄役西郷熊三郎に従い平野左門・原嘉兵次の4人で、外国船ウヱ−ウミ号に乗り下旬に箱館に入港。勝静側近の公用人辻七郎左衛門忠貞に会い、勝静の無事を確認し、西洋に逃亡するための資金繰りをして迎えに来ることを約束して帰るが、時局は待っておらず、その年の5月勝静は東京に連れ戻され明治政府に自首した。この様に明治維新のときには、軽輩であったが一命をかけて松山藩のために活躍した。
 明治になると高梁藩知事の板倉勝弼の近侍を務める。詩を能くし高梁古今詞藻に詩を残している。
⇒ 熊田恰板倉勝静三島中洲川田甕江進鴻渓辻七郎左衛門忠貞板倉勝弼 (参)「高梁市史」「高梁古今詞藻」 
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もりさき そうえもん:森ア 総右衛門

明治25年3月17日〜昭和50年9月7日(1892〜1975)
松原村(現・高梁市松原町) の人
教育者・松原村公民館長
 教育者を志し、岡山師範学校に入学し大正2年(1913)卒業。川上郡の各小学校の教員として教鞭を執り後校長となる。また西大寺小学校に勤務する。同15年(1926)文部省中等教員検定試験修身科に合格。昭和2年(1927)新見農林学校の教頭となり国語歴史科を担当する。教育に対し厳格で温厚な先生と言われた。
 退職後は松原村(現・高梁市松原町) が昭和25年(1950)独立した公民館を設置したのに伴い館長に就任。職員を配置し村づくりの拠点とし、公民館活動を推進。戦後の新しい社会教育は、国民が自主的に学習できるような環境づくりが必要と考え、その中心として公民館が設立された。県下は基より全国的にも有名になり、翌26年(1951)全国優良公民館として文部大臣表彰を受けた。これは総右衛門の熱心な指導と関係者の努力の賜物であった。同42年(1967)秋、勲五等双光旭日章を受賞した。
 (参)「高梁市史」「川上郡案内誌」「伸びゆく高梁」 
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もりざわ らいごろう:森澤 磊五郎

明治27年7月24日〜昭和59年8月3日(1894〜1984)
上房郡賀陽町出身、高梁市中之町
教育者

 上房郡豊野村(現・上房郡賀陽町豊野)で森澤清六の五男として生まれる。
 明治45年(1912)高梁中学校(現・高梁高等学校)を卒業、上海東亜同文書院に入学し、大正 5年(1916)に卒業。その後アメリカに留学。帰国後高梁中学校で教鞭を執る。同14年〜昭和 6年(1925〜31)上海東亜同文書院の講師および教授を務める。その後漢口・青島の居留民団理事・民団長を務め、終戦後帰国。
 同23年(1948)〜同31年(1956)まで岡山県教育委員を務める。同27年(1952)から美作短期大学教授、同42年〜53年(1967〜78)までは順正短期大学に勤める。その間、同42年〜44年(1967〜69)副学長、同45年4月〜48年3月(1970〜73)学長を務め、同44年4月〜51年3月(1969〜76)は順正高等看護専門学校長を兼務した。
 (参)「岡山県歴史人物事典」「高梁学園30年の歩み」 
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もりした かめたろう:森下 亀太郎

明治2年11月〜昭和21年4月26日(1869〜1946)
高梁市出身
弁護士・政治家

 備中松山城下(現・高梁市)で松山藩士森下良諒の3男。荘田霜渓に有終館で漢学を学び、明治27年(1894)明治法律学校(現・明治大学)を卒業。甲府・前橋・大阪・大津の各地方裁判所判事、大阪控訴院検事などを歴任。
 同38年(1905)退官して大阪市で弁護士を開業。大阪市議会議員を経て大正 9年(1920)衆議院議員に当選、1期務めた。昭和11年(1936)には大阪弁護士会長に就任。
⇒ 荘田霜渓 (参)「岡山県人名事典」「上房郡案内誌」 
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